夢で現(うつつ)で檸檬味

新ゲ弁隼

つきあってます。
ダウンした隼人を弁慶が看病するお話『わけあいっこ』の続きです。熱を出した弁慶の部屋に隼人が訪ねていきます。弁慶視点。約4,000文字。

◆ピクスク内で2023/4/9に開催された弁隼カプオンリー『春のべんはやキャンプ』に合わせて公開したもの。こちらは2022年に投稿した弁隼のお話と他の書き下ろしとともに新刊『いろは恋歌』に収録されています◆新刊はこちらから(BOOTHに移動します)。

◆◆◆

 身体が熱い。それに、息苦しい。漬物石が胸の上に乗っているようだった。
 ——ああ、これが……隼人だったらなあ。
 どうせ重いのなら。
 ぼんやりとした意識の中で思う。きっと隼人が聞いたら、眉間に皺を寄せて「くだらないことを」と投げるように言うだろう。
 それでも、ほかの女ではなく。
 ——やっぱり、隼人がいい……なあ。
 天井がぐにゃぐにゃしていた。気持ち悪さに目を閉じるとしばらくは目蓋の裏側もぐねぐねとしていたが、やがてすうっと意識が内側に吸い込まれていくのがわかった。
 ——これで少しは……楽になる……かな……。
 眠りに落ちる瞬間、隼人の「弁慶」と呼ぶ声が聞こえた気がした。

 

 目を開けると暗がりに囲まれていた。しんとした部屋でひとりきり、くうを見つめる。
 昔の夢を見ていた。
 厳しくて苦しくて、それでも楽しかった寺での生活。あの頃の夢を見るのは、決まって疲れているときだった。
 目蓋を閉じ、消えてしまった景色を思い描く。
 あきれた声で「武蔵坊」と諭しながらも眼差しは常に慈愛に満ちていた和尚様に、性格は違えども目的をひとつにしていたせいか本当に仲がよかった兄弟弟子たち。
 涙が浮き出てくる。
 ——あのとき・・・・も、こんなふうに寝込んだ。
 初めての発熱に怯え「俺はこのまま死んじまうんだ」とぼろぼろと涙を零し、大声で泣いた。皆は寺に来て間もない弁慶にも優しかった。ひと言弱音を吐くごとに「大丈夫だ」「死ぬもんか」「俺たちがついてるって」と口々に励ましてくれた。あとから和尚様が病気快癒のために夜通し本堂で経を上げていたと聞き、心の底から修行に励むと決意を新たにしたのだった。
 あの日々が無性に懐かしい。そして、そんなささやかな倖せを奪った鬼どもが、

 憎い——。

 ぎり、と奥歯を噛みしめた瞬間、カタ、と何かが窪むような音がした。
「……っ」
 まばたきのあとで視線を左側へ向ける。薄ぼんやりと明るい場所があった。
「……?」
 二度三度まばたきをする。だが涙に濡れた瞳でははっきりとは見えない。
 ——誰か……いる?
 人影が浮かび上がっていた。目をこすりたくても寝起きだからか熱が残っているせいなのか、身体の自由が利かなかった。首も満足に動かせない。
 また、カタカタと軽い音がした。まばたきの回数ごとに姿が織り上がっていく。
「——ぁ」
 仏像が蝋燭の炎で揺らめいていた。
 ——仏、様。
 思わず胸の内で手を合わす。
 ——お願いです、仏様。
 数年の苦楽をともにした人たちの供養を願う。
 ——お願い、です。
 仏の顔は明かりに照らされ、彫りの深さが際立っていた。その半眼がゆっくりとこちらを向く。
 ——あれ……?
 頬も顎も鼻筋も、覚えている輪郭よりもシャープだった。
 ——仏様も痩せるってこと、あるのかな。
 それに、何だか妙に機嫌の悪そうな表情に見える。本堂の仏像とだいぶ違う。
「……ああ」
 ——そうか。『憎い』だなんて、思っちまった。
 感情に振り回されてはいかん、と和尚様に叱られてしまう。仏が苦々しい顔になるのも当然だ。
 ——俺って、どうしようもないな。
 情けなくて、心が重たくなっていく。同時に目蓋も落ちてくる。再び意識が吸い込まれていく感覚がした。
 ——……けど、それにしたって。
 アルカイックスマイルとは程遠い。ずいぶんと不機嫌そうな仏だった。細い眉毛も、鋭い目つきも、無愛想な口元も、自分の知っている人間によく似ている。
「……仏頂面って……言う、もん……な……」
 目を閉じる。全部の感覚が閉じられる直前、仏が小さく「ふん」と鼻を鳴らしたのが聞こえた。

   †   †   †

 目覚めは悪くなかった——というより、あの火照りと息苦しさを思えば雲泥の差だった。おそらく発熱のピークは去ったのだろう。あとはよくなっていくだけだ。こういうときは、元が丈夫な身体でよかったと思う。
 ふううっと厚みのある溜息を吐き出すと、頭上で気配がした。
 そろそろと首を巡らす。さっきとは違い、動く。ゆっくりと向きを変えていくと、左頬に柔らかいものがあたった。緩慢な動作で確かめる。すっかりぬるくなった氷嚢だった。それでも体温よりは低いから気持ちいい。弁慶は頬ずりしてからさらに首を動かした。
 暗い部屋の真ん中で、ぼうっと光っている部分があった。
 ——あれ?
 ちょうど仏の顔が浮かび上がっていた辺りだ。
 よく見るとテーブルにノートパソコンが置かれており、液晶パネルが向こう側を照らしていた。あれは隼人のものだ。
 また、傍らで気配がした。頭上を見る。
「————」
 暗くても、誰だかわかる。けれども覗き込んでいるその顔つきはいつもとは違っていて、どこか不安げで、心細そうで、まるでそちらのほうが具合悪く見えた。
「……隼人」
 声をかけると表情の翳りはさっと消え、普段通りの目つきの悪い男が現れた。
「どうだ」
 ひと言だけ、訊かれる。
「たぶん、もう大丈夫だ」
 眩暈はしない。たっぷり食べてぐっすり眠れば、きっと明日からはゲッターにも乗れる。にっと笑ってみせる。
 隼人の唇からは「そうか」と小さく落ちただけだった。それでも、弁慶には十分だった。

 差し出されたペットボトルはあっという間に空っぽになった。
「ふぃーっ、生き返ったぜ」
 身体中に元気が回っていくようだった。
「これでアイスがあったら最高なんだけどなあ」
 確かストックはなかったはずだ。あとで箱アイスを買っておかなければ——。
「ある」
 ペットボトルを回収し、隼人がぼそりと告げる。
「……え」
 弁慶がぽかんとしていると、隼人はぶっきらぼうに「ある」と繰り返した。
「え゛っ⁉︎」
 思わず声をあげると、隼人があからさまに嫌そうな顔をした。「だから嫌だったんだ」とでも言いたげに目を逸らす。
 ——隼人。
 今、気づく。水は冷た過ぎず、飲みやすかった。枕元には氷嚢があったし、目覚めたときには傍にいた。そういえば、朧に隼人の声が聞こえもした。ノートパソコンがあるからには、五分十分の滞在ではあるまい。
「…………アイス、食いたいな」
 もう少しだけ、甘えてもいい気がした。
 隼人は無言で部屋の隅に向かい、冷凍庫からカップアイスを、ミニキッチンの引き出しからスプーンを取り出した。蓋を外してすぐに食べられるようにする。
「やった、アイスだ」
 戻ってくる隼人に向かい、口を開ける。
「……何の真似だ」
「あーん」
 途端に隼人の表情が険しくなった。
「あっ、えっと、いや、冗談」
 てへへ、と笑って誤魔化す。
「自分で食べるから」
 左手を差し出す。だが隼人はそれを無視し、ベッドサイドにある丸椅子に腰を下ろした。
「え?」
 そのままレモン色の氷アイスをスプーンの先でつつき始める。
 まだ固い氷は薄くしか削れない。隼人はカップを回して指のあたる位置を変える。手のひらからの熱も加わり、氷が徐々に溶けていく。縁沿いにスプーンを滑らせひと口分をすくうと、黙って弁慶に突き出した。
「あ……、い、いただきます!」
 大きな饅頭でも入るように開けられた口にアイスが収まる。冷たさと、わずかに遅れて感じるレモンの酸っぱさに弁慶がきゅっと目を瞑った。
 もうひと口。それから、隼人はまだ固い氷をほぐし出した。
 弁慶はその様子をじっと見つめる。
 スプーンの先で掘るザクザクしゃりしゃりという音だけが鳴っていた。
「……この音、思い出すなあ」
 目を閉じて微笑む。
「ちょうど春になっていく頃、雨やお日様で少し雪が溶けるだろ? それを踏むとな、ザクザク鳴るんだよ」
 足が埋まる感触も面白い。
「さらさらした雪とは違うし、たくさん降って押し固められた雪とも違う」
「……そうか」
「まあ、ちょっと溶けたって夜にはまたガチガチに凍っちまうんだけどな」
 だんだんと水分が混じり、音が柔らかくなっていく。
 冬は本当に厳しかった。その分、近づいてくる春の気配が楽しみだった。すべてが大事な記憶だ。
「隼人はこの音、何を思い出す?」
「埋める穴を掘っている音」
「…………」
 弁慶の丸い目がぱっちりと見開かれる。何を、とは訊けなかった。
「冗談だ」
 隼人はアイスから視線を離さない。
「は、隼人が言うと……」
「冗談には聞こえないか?」
 顔を上げ、ニヤリと笑う。
「何を想像した?」
 戸惑っている弁慶をからかうように、また笑った。
 程よく溶けたレモンの氷が口に運ばれる。
「……冷たくて、甘くて、酸っぱい」
 雪解け水のように清冽で、まるで隼人の手から生まれた春だった。
 よくよく考えれば、冷血な元テロリストの親玉が、今は仏門に帰依したとはいえ散々悪辣なことを仕出かした男に向かってアイスを「あーん」しているなど、珍奇で摩訶不思議な光景だ。さすがに仏様でも見通せなかった未来だろう。
 ——……いいや。
 暗がりに浮かび上がった顔を思い出す。
 ——和尚様が言ってたな。
 誰の心の中にも仏はいるのだと。
「……えっへへ」
 顔がにやけてくる。隼人の眉が不審げに動いた。
「隼人に看病されるなら、もう一日くらい寝込んでてもいいかなぁ」
「俺は御免だ。こんな図体のクソでかい赤ん坊の世話なぞしていられるか」
 仏頂面に様変わりした隼人はアイスを掬い、呑気にゆるんだ口に黙れとばかりにスプーンを突っ込んだ。