隼⇄竜、つきあってません。
バレンタインに竜馬が何気なくくれた小さなチョコに心を乱される隼人のお気持ち話。
バレンタインデーから数日後のお話です。うっすら両思いの気配エンド。5,000文字強。pixivにもあげておきます。
◆◆◆
そういう日だったから。
自分に言い聞かせる。
そうに決まっている。そうでなければ——。
険しい顔つきでじっと引き出しの中を見つめる。
「……」
隼人らしくない惑いのあとで、思考を断ち切るかのように勢いよく引き出しが閉められた。
† † †
竜馬が風呂上がりに涼みがてらぶらつくのはいつものことだった。隼人の部屋に立ち寄るのも珍しくはない。この夜もふらりとやって来てはベッドの上を占領し、我が物顔でのさばっていた。
「竜馬」
部屋の主はちらりと振り向いて、無遠慮な男に牽制する。だが遅かった。ピシリと整っていたシーツにはすでにだらしのない皺がつき、十分に乾ききっていない髪の毛で枕は濡れていた。隼人から溜息が漏れる。
「あンだよ、溜息なんかついて」
竜馬が身体を起こす。
「そんな調子じゃ、ここにシワ寄って取れなくならあ」
隼人を真似て眉間に皺を寄せる。
お前のせいだろうが、と隼人は睨みに込める。しかし鈍いのかはたまた強心臓なのか、竜馬は笑んだ顔を崩さない。煽ってやればすぐムキになるくせに、隼人の言葉数が少ないこんなときは妙に余裕ぶって見えた。
ここでなければ、と思う。
ふたりきりのこの空間でなければ、やり込めることができる。挑発を躱して、逆に焚きつけて、向こうが我慢の限界に達したときに、こちらは冷静さを保ったまま身を翻す。それで常に優位に立てる。
そのはずだった。
今は——。
隼人の片眉が不機嫌そうに動いた。
「チッ」
舌打ちが零れる。竜馬が愉快げに笑い声をたてた。
ひとしきり笑ったあとで伸びをして、ようやくベッドから降りる。
「あーあ、笑ったら腹減っちまった」
ひとりで喋り倒していた時間はなかったかのように、さらりと隼人のせいにする。けれども隼人は誘いに乗らなかった。
「なあ」
声が近づく。隼人の頬に緊張が浮かんだ。
「何か食いモンくれよ」
右側からひょいと覗き込んでくる。動作にほんの少しだけ遅れて洗い髪の香りが立つ。それから、高い体温も空気を伝わってきた。
「——」
咄嗟には何も出てこない。
「あンだよ、けち」
無言を拒否と受け取ったのか、唇が尖る。それでもすぐにニッと笑う。隼人がその瞳に吸い寄せられる。直後、竜馬の手が伸びてデスクの引き出しにかかった。
「へへん、ここにあんのはわかってンだぜ」
得意げに言い、上から二段目の引き出しを勢いよく開けた。
「ほうら……ンだよ」
あからさまにトーンが落ちる。整然と並んだエネルギーバーの包みをひとつ、取り出しては検分する。
「あー、これボソボソして口ん中の水分全部持ってかれンだよな。おやつって感じじゃあねえよな」
「そんなに食いたいなら分けてやろうかとも思ったが、そう文句をつけるようじゃ不要だろ」
ようやく普段通りに言葉を発し、隼人は簡素なパッケージを取り返す。
「『おやつ』が食いたきゃ、弁慶のところにでも行くんだな。山ほどあるだろ」
エネルギーバーを元の位置に戻す。仕舞おうとすると竜馬が引き出しの縁を掴んできた。
「離せ」
「あに怒ってンだよ」
「別に怒ってなどいない」
「けど……あっ」
嬉しそうに声が跳ねる。隼人は竜馬の横顔を見、視線の先を辿った。
「——あ」
らしくない。不用意な音が漏れた。力がゆるんだ隙に竜馬は引き出しを全開にする。
「もらい!」さっと取り上げる。
「いいモンあンじゃねえかよ」
指先でつまみ、カツアゲ同然で手に入れた一品を眺め回す——と、隼人にその視線が向いた。
「あンだよ」
「……いや、何でもない」
平静を装って視線を逸らす。
「もらったっていいだろ。売店にあるヤツじゃねえか」
「好きにしろ」
「へへっ、そんじゃ、いっただっきまーす」
包装紙を剥いて、ぽいと口に放り込む。
「ン、んまい」
満足げに目を細め、うんうんと頷いた。
「もう一個ねえかな」
「ない」
「ほんとに?」
「ああ」
目を合わせないまま答える。竜馬は未練がましく引き出しを覗き込み、それから手に残った包装紙を眺めた。
「最後の一個かよ。そりゃ悪かったな」
気心の知れた相手に「悪い」とひと言告げる軽やかな声。それでよかった。深刻に扱われたらそれこそ居た堪れない。
だから隼人は「ああ」とだけ返す。竜馬も気を遣うことなく包装紙をゴミ箱に投げ捨て——それで終わるはずだった。
竜馬の気配は止まったまま、動かない。隼人はそろりと顔を向ける。
「竜馬?」
包装紙を見つめ、何事かを考えているようだった。隼人の心臓がどきりと不安を奏でる。
「……なあ、このチョコってもしかして」
「——」
咄嗟に手を伸ばす。
「あっ、あにすンだよ」
「眺めていても、無からチョコは出てこない」
奪い取った包装紙をくしゃりとやり、ゴミ箱に投げ入れる。竜馬は隼人の顔とゴミ箱の中を交互に見やった。
「何だ」
「……いや、別に」
そう言いながらも視線が離れない。隼人は顔をしかめ、
「用が済んだらさっさと出ていけ」
身体ごとそっぽを向き、追い出しにかかった。いつもなら何か言い返してくる。息を止めて出方をうかがう。けれども竜馬は少しの沈黙を挟んでから「邪魔したな」と聞き分けよく、妙におとなしいひと言を残して踵を返した。
† † †
「隼人」
呼ばれて振り向く。何かが飛んできた。考える前に身体が動き、小さな塊をキャッチする。
「…………チョコ?」
「それ、俺から」
不審げに見れば、竜馬は無邪気に顔をくしゃりとさせた。そしてひと言、
「なんつって」
おどけた言葉を付け足して去っていった。
自室に戻り、ひと口サイズのチョコを眺める。バラ売りの安価なチョコレートだ。安いとはいえ、進んで分けてくれるとは珍しい。直近の鬼獣戦でヘマをカバーしてやったわけでもない。何かの賭けに乗った記憶もない。もらう理由にまったく心当たりがなかった。
いたずらが成った子供のような笑みだった。さては次に会ったらこのチョコをダシに「何か奢れよ」とでも言うつもりか。
——それが近いかもしれんな。
まるで押し貸しだ。苦笑して、ふとカレンダーを見る。それでようやくバレンタインデーなのだと思い当たった。そういえば紙袋を二、三、持っていた。
ならこれは、たくさんもらったもののひとつで、お裾分けといったところだろう。竜馬は存外、一般所員にはウケがいい。特に食堂で働く中年女性たちには可愛がられている。きっと弁慶と一緒にいくつももらったのだろう。
それをたまたま、くれただけ。
「俺から」というのも戯れ。自分で言っていたではないか。
——そうだ。
甘過ぎるものは好きではないが、糖分補給として少量をつまめるのはむしろ助かる。さっさと食べてしまおうと包装紙を剥きにかかる。
だが端を少しめくっただけで手を止めてしまった。
「…………」
表側のパッケージを再び眺める。
そうして、デスクの引き出しの奥に仕舞い込んだ。
† † †
元は誰かが竜馬にあげたもの。そうだったとしても、隼人にすれば竜馬が自分にくれたものに違いはなかった。
だから。
隠しておきたかった。ずっと、閉じ込めておきたかった。
竜馬がくれたもの。
その日でなければ、そんなことは一生、思わなかったに違いない。
そういう日だったから。
『だから仕方がない』のだと思ってしまった自分が情けない。そのせいで、自分の首を絞めにかかっている。
竜馬の様子を思い出す。気づいたかもしれない。
——だから何だ。
自分があげたものだと気づいて、それで終わりだ。うっかり声を漏らしてしまったのも、仕舞いっぱなしにして忘れていたことにすればいい。包み紙を奪い取ったのも、いつまでもチョコに執着する竜馬に苛ついたから。それで辻褄が合う。
「……」
そんなことをつらつらと考えている自分がいっそう情けない。訊かれると決まったものでもないのに言い訳をシミュレーションしている。
——どうかしている。
ゲッター線だけを追いかけていたいのに。その謎を解くためにわざわざ他人と連んでゲッターに乗っているはずなのに。
竜馬が。
竜馬だけが隼人の感情を呼び起こして揺らしてくる。気づかなくていい思いを自覚させる。
むしろ——。
ゴミ箱の中に視線を落とす。
あのとき、さっさと食べてしまえばよかったのだ。一生取っておけるものでなし、ひと口に飲み込んで、自分の甘さともども綺麗さっぱり溶かしてしまえばよかったのだ。
「…………チッ」
そもそも、ずっとこの部屋への出入りを自由にさせていたのがいけなかった。本能は「危険だ」と察知していた。この閉じられた空間で、ほかの人間の目のないところで、長い時間ふたりきりになるのはマズいと感じていたはずだ。だから向き合わないように避けていた。
あの、こちらの心に触れて煽り立てるような目つきを間近で見たら——。
「——っ」
背後で扉が開いた。
気配で、竜馬だとわかった。
靴音が近づいてくる。隼人は身じろぎもせず、デスクに着いたまま。
「やる」
小さなレジ袋が目の前に置かれた。動揺を気取られぬよう静かに問う。
「何の真似だ」
「チョコ、食っちまったから」
「別に構わん」
「けど、あれ……おめえのチョコだろ」
瞬間的に喉の奥が詰まる。
「……俺、の?」
冷静でいようとしたが、声が細くなった。気づくなと願う。
「奥のほうにあったからよ、その……取っといたヤツじゃねえの?」
『忘れていただけだ』と言え。『何のことだ』でもいい。早くしろ。
己を急かす。だが身体は言葉を発する術を忘れてしまったかの如く、ぴくりとも動かなかった。
「だから」
竜馬は不貞腐れたように唇を尖らせる。隼人からその表情は見えない。
「それ……俺から」
たったひと言で世界が止まった気がした。
「……ちゃんと、全部食えよな」
言い終わると同時に身を翻す。竜馬はそのまま大股で部屋を出ていってしまった。
「……」
ひと言も言えなかった。竜馬、と名前を呼ぶことも。
隼人はしばらくの間、じっと渡されたものを見つめていた。
隙間から中身が覗く。繰り返し眺めて、細かいところまですっかり覚えてしまったパッケージデザイン。それがいくつも重なっている。
袋を逆さまにすると、ひと口サイズのチョコレートが次々と転がり落ちてきた。
「な……」
二十——いや、三十はあるだろう。売店に並んでいるものを全部買ってきたのだろうか。
「クッ」
思わず吹き出してしまう。
「ククッ」
——やられた。
完全にバレた。
思わず額に手をあて、天井を仰ぐ。笑いが込み上げて止まらない。
いつも不機嫌そうにして、そんな感情をおくびにも出さずにいた男が、たったひと粒のチョコレートを後生大事とばかりに仕舞っていたなんて。さぞ可笑しかったに違いない。
チョコをひとつ、つまんで見つめる。
竜馬にしてはなかなか洒落た返しだ。科白まで前と同じにして。いったいどんな顔でレジに持っていったのだろうか。
「全部食えよ……か」
おまけに、わざわざ言い置いていくなんて。得意げに目を細める竜馬の顔が目に浮かぶ——。
いや。
本当にそうだったろうか。
感情を漏らすまいと自分にだけ気が向いていたから気づかなかったが、今にして思えば竜馬の様子もおかしくはなかったか。
「……」
その声は淡々として、それでいていつもより硬くなかったか。どことなく気まずそうな、居心地の悪そうな気配ではなかったか。
もっとふざけてからかって、自分が優位に立つ絶好の機会だったのに。
それなのに、さっさと出ていくことを選んだ。最後の声音は煽るにはおとなし過ぎて、だからといって義務感や投げやりとも違う気がした。不満そうな響きはあったが、あれはどちらかというと。
「まさか」
あの竜馬が。
——いいや。
だが。
否定をするが、すぐにまたその答えが立ち上がってくる。
あれはまるで、内心を隠す方法をそれしか知らないがゆえの——。
「…………」
あの竜馬が照れているとでもいうのか。
一気に記憶と感情が混ざり合い、脳内に溢れ返る。
竜馬の言葉は、精確には重ならない。前と同じだと思っていたが、戯言だと断るひと言がなかった。今回は本心だということか。
——今回は?
ではあのときは。
もしかして、あれも本気が潜んでいたというのか。「なんつって」とおどけたのは、照れ隠しだとでもいうのか。
あのチョコは誰かからの貰い物ではなく、竜馬自身が用意したものだったのか。
何が正解なのか。たった今、答えに辿り着いたと思ったものは、自分の願望でしかないのか。
——まただ。
竜馬に翻弄されている。ざわつく胸をかきむしりたくなる。
「…………竜、馬」
目の前に散りばめられた、たくさんのチョコレート。
小さいけれども、すべて竜馬がくれたもの。
ゆっくりと包装を剥いていく。指先がほんの少しだけ震えていた。
褐色の粒を口に含む。
——甘い。
甘過ぎて、劇薬の予感がする。
もしも。
全部食べたと告げたらどうするだろうか。もっと欲しいとねだったらどうするだろうか。
もうひと粒、舌に乗せる。熱でほどけていく。
また、ありったけのチョコをくれるだろうか。
それとも。
もっと甘く溶けるものをくれるだろうか——この、俺に。