臆病者たちは口を噤む

新ゲ隼竜R18

セフレスタートでいつしか相手を好きになり、気持ちを自覚しているものの告白できずにいる隼竜両片思いのお話。隼人視点。
相手も自分をきっと好きだろうなとは思いつつ、恋人同士になってしまえばいつか終わりがくるだろうと告白できないままセフレ関係を続けます。互いに「好きだ」と言わせたい、聞きたい気持ちはあるものの、決定打は出ません。このままあばダチに進むので恋人同士にはなれません。暗めエンド。約1万4千文字。
【注意】
・竜馬の希望により前戯ほぼなしで挿入。
・控え目ですがトコロテン、結腸責めあり。
・隼人が幼い頃に鳥の雛を飼っていた回想あり。大事にするあまり籠に戻さずずっと手に持ったままで雛は弱ります。母親が気づいて救出しますが、雛の生死は明らかにはなりません。

◆◆◆

 他愛のない会話の終わりに竜馬が零す。
「今晩ヒマだな」
 何すっかな、と目の端で隼人を見る。
「暇なら俺のとこ来るか?」
 弁慶が声をかける。
「昨日、うまそうな煎餅買ったんだよな。今晩辺り開けようと思ってたんだ」
「あー、どうすっかな」
 竜馬は弁慶を見、考えるフリをして天井を見上げてからさりげなく隼人を盗み見する。視線がかち合った。
 一瞬だけで、互いにすぐ離れる。
「——今日はやめとくわ。また今度な」
 さらりと断ると、弁慶も「おう」と同じ軽さで返す。隼人とは一切、言葉は交わさない。
 だがそれが合図だった。

 

「来てやったぜ」
 首にタオルをかけた竜馬が入室してくる。近づくにつれ、体温の高さと風呂上がり特有の清しい匂いが空気を伝わってきた。
「……髪を乾かせ」
 モニタ画面から顔を上げた隼人がムッとする。
「拭いたからいいだろ」
「シーツが濡れる」
 竜馬は一瞬きょとんとし、それからニッと笑った。
「どうせこれからいろんなモンで濡れるだろ」
 事もなげに言い、それでも要望に応えるべくタオルで頭を拭き出した。ガシガシと雑に拭くたびに、残っていた水気が細かな粒となって飛び散る。
「竜馬」
「あ?」
 竜馬の目がきょろきょろとし、モニタ画面上の水滴を見つける。
「あ——ああ、悪ぃ。これ使っていいぜ」
 緊張感の欠片もない笑顔でタオルを差し出す。隼人の不機嫌そうな顔があからさまにしかめられた。竜馬は「あンだよ」と唇を尖らせたものの、すぐにいつもの表情に戻った。
「それよか、時間かかんのか」
「……あと十分」
「んじゃ、ちょっくら一杯」
 自室の気軽さで冷蔵庫に向かうと缶ビールを一本取り出し、遠慮なしに開けた。
「くあっ」
 ひと口流し込み、顔をくしゃりとさせる。続けてもうひと口、ふた口。うまそうに喉を鳴らす。隼人はその様子を横目でうかがう。
「うあーっ、やっぱ風呂上がりに冷えたビールは最高だな。……ン?」
 すっと戻された視線を目ざとく見つける。
「おめえも飲みゃあいいのに」
「いや、いい」
「別に一本や二本、構やしねえぜ。俺はそんな、ケチじゃねえ」
 ビールは竜馬が買い置きしていたものだ。毎回買ってくるのも面倒だし、といつしか数本、ストックしておくようになっていた。
「酒はそれほど好きじゃない」
「……へえ」
 含んだ響きに、隼人は再び視線を向けた。
「何だ」
「『それほど好きじゃない』って割にゃ、誘えば飲みに来ると思ってな」
「……」
「この前弁慶の部屋で飲んだときだって、おめえ最後までいたろ。結構、酔っ払ってたよな」
「あれは」
「あれは?」
 竜馬の目が笑う。隼人は口をつぐんだ。
「仲間とのシンボクを深めるってヤツか? それとも」
 缶をあおる。竜馬の喉仏が、見せつけるようにコクリと動いた。
「それとも、酔った俺が目当てだった……とか」
 いたずらな上目遣いが流れてくる。隼人の目が自分を捉えているのを知ったうえでの仕種だった。
「……ずいぶんと自惚れが強いな」
「違うのかよ。あの夜、おめえしつこかったからよ。イッてるっつってンのに、ガツガツ腰振りやがって」
「断ると、いつまでもうるさいのはお前のほうだろう。それに、あの夜はお前だって」
 フン、と鼻を鳴らす。今度は竜馬のほうがムッとする番だった。
「俺が——あンだよ」
「いいや」
「言いかけてやめンなよ」
「……お前だって、泣きっ面で『気持ちいい』『もっと』と散々言っていたくせに、と思ってな」
「——ッ」
 竜馬の頬に、湯上がりの火照りとは違う赤みが差す。隼人の唇に、抑えきれなかった笑みが乗った。
「……うっせ。いいから早くしろよ」
 竜馬は気まずそうに目を逸らし、残りのビールを一気に飲み干した。

   †   †   †

 隼人がデスクから立ち上がる。ベッドに寝転んでいた竜馬はすぐに身を起こし、「やっとか」とタンクトップを脱ぎ始めた。
 鍛え上げられた肉体が露わになる。隼人の目は自然に吸い寄せられる。
 首筋も肩まわりも普段から見慣れてはいる。それでもしなやかに動くさまには目を奪われるし、いつもは隠されている背中や腹が己のために剥き出しになるのは悪い気はしなかった。
 引き締まった肉体の形を目でなぞる。見惚れていると悟られないように、表情は崩さない。近づくと竜馬が顔を上げ——楽しさを隠しきれないとばかりに笑った。
「もう少しで寝ちまうとこだったぜ」
 隼人がベッドの縁に辿り着くと同時に両腕を広げ、腰に抱きついてくる。腹に顔をうずめると、すう、と息を吸い込んだ。
「……ン?」
 怪訝な声があがる。髪に触れるべきか迷っていた隼人の右手が固まる。すん、と犬のような鼻音を立て、竜馬が匂いを嗅いだ。
「おめえ、風呂入ったのかよ」
 抱きついたまま仰ぎ見る。少し残念そうに唇が突き出されていた。隼人の顔がたちまち険しくなる。行き場を失っていた右手が竜馬の頭を掴み、ぐいぐいと押し始めた。
「おわ、ちょ、てめ、あにすン——」
 左手は腰に巻きついた腕を引き剥がそうとする。意図に気づいた竜馬がそうはさせまいとしがみついた。隼人はなおも頭を押しやる。
「っ痛ぇな!」
「なら、離せばいいだろう」
「やだね。っつうか、ヤリに来たのに」
「俺はボランティアをするつもりはない。嫌なら帰れ」
「あ? ボラ……ボラ、あンだって? 嫌だなんて言ってねえだろ。いきなりキレてるんじゃねえよ」
「お前が部屋に来たそうだったから、わざわざ予定を調整してシャワーを浴びてやったのに、言うに事欠いてそれか」
「は?」
 竜馬の動きがぴたりと止まる。押し返してくる力が消え、隼人も手をゆるめる。ただしポーズはそのまま。
「…………あー」
 右手の下から気の抜けた声が聞こえてきた。
「わかった。逆だ」
「……は?」
 先刻の竜馬と同じに、隼人が惚けた声をあげた。竜馬は頭を鷲掴んでいる手を引き剥がした。
「文句じゃねえよ」
「……どういう意味だ」
「だからよ。『風呂に入ってないのか』って文句つけたわけじゃなくてよ、『入っちまったのか』っていうって意味」
「何だその言い方は」
「だから、残念だって言ってンだ」
「は?」
「ったく」
 もう一度、竜馬の腕が伸びる。隼人が押しやろうとする前に絡みつく。腹部に頬をすりつけ——右手で隼人の股間に触れた。
「——っ」
「ふふっ」
 いたずらな目つきに早変わりする。布越しに煽るように手が動く。すぐに指は劣情の形を捉えた。
「硬くなってきた」
 嬉しそうに唇がゆるむ。その表情に隼人は唾を飲んだ。
「俺」
 竜馬の頭が下がり、鼻が股間にこすりつけられる。
「おめえの匂い、結構好きだぜ」
 鼻先でつつく。
「汗かいたあとぐれえが、一番興奮するかも。……ン」
 唇で軽く咥える。呼気の熱さがズボン越しに抜けてきて隼人を包んだ。
 爪の先で膨らんだそこをカリカリとくすぐる。唇に隼人の脈動を感じたのか、竜馬が上目遣いになる。その媚態が隼人を刺激した。
「……っ」
 身体の中が一気に熱くなる。
 吐息をこらえ、「のぼせ上がるな」と隼人は己に言い聞かせる。竜馬が言った「好き」はあくまで性的興奮をもたらすものだからだ。隼人の心を指して言っているわけではない。
 ——もっとも。
 心の内など見せてはいないと振り返る。そして、一瞬だけでも理性を手放しかけた自分を戒めた。

 

 シャツを脱ぎ捨てた背中に、なあ、と声が飛んできた。
「おめえ、俺に何か言うことねえか」
「……何か、とは」
 隼人はいつも通りの抑揚のない声で訊き返す。
「だから、何か。俺に」
 背中に視線を感じる。しかし隼人は素知らぬ調子で、
「何もない」
 と投げ捨てた。それぎり、声はない。隼人がズボンを脱ぐ間も竜馬は黙りこくったままで、やがて隼人が振り向くと、ふうん、とつまらなそうに鼻を鳴らしただけだった。
 竜馬が何を言わせたいのか、聞きたいのかはわかっていた。いつからか薄々と感じていたもの——今ではほぼ確信に変わっていた。
 だが隼人は気づかないフリをする。それから、お返し・・・をしてやる。
「お前こそ、俺に言いたいことがあるんじゃないのか」
 聞くなり、竜馬の唇がツンとする。わかりやすいことこのうえない。
「あるワケねえだろ」
 返事も想像通りだった。じっと見つめていると、ふいと視線を逸らす。そうして「さっさとヤろうぜ」と尖った唇のままで誘った。

 互いに下着一枚で近づく。素肌が放つ熱をじわ・・、と直に感じる。着衣であれば絶対にわからない感覚だった。皮膚が鋭敏になる。熱だけではなく、息づかいも匂いも感じ取ろうと緊張しているのがわかる。触れていないのに腕の内側や乳首や下腹、内腿辺りの薄い皮膚がちりちりとした刺激にさらされる。触れたくて、触れられたくてたまらなくなる。
 唇が合わさるギリギリで止まる。呼吸も止まる。身じろぎせず、見つめ合う。
 この瞬間はいつも奇妙だ、と隼人は思う。欲を吐き出すためだけの関係。ゲッターのパイロット同士という極めて特殊で近しい、けれども迂闊に相手の領域に踏み込まない用心さで隔てられた関係。それでいて対等に渡り合える力量を持っている——まさに、うってつけの相手だった。
 繊細な関係ではない。当然、作法も情も存在しない。キスも昂った果ての行為でしかないはずなのに、いつの間にか始まりの合図になっていた。
 相手の出方を探るように瞳の奥を覗く。止まった時間がゆっくりと動き出す。目は開けたまま。実在を確かめるようにどちらからともなく唇にそっと触れ、一瞬だけ離れる。また、触れる。
 この関係にそぐわない、密やかで儚い空気が生まれる。そのあとは——。
 は、と零れる微かな吐息をきっかけに、ただ流されていく。竜馬の手が隼人の中心に触れた。遠慮なしに布ごと握り込んで、しごく。たちまち先端部分から滲み出すものがあった。
「……すげ」
 キスの隙間から嬉しそうに言うと、竜馬は指先で張り詰めた先端をいじくり始めた。隼人の腰がひくつく。
「へへ、気持ちいいだろ……んっ」
 隼人の手が竜馬の腿を撫で、上体へ這い上がっていく。竜馬の表情に艶が浮かぶ。
「あ、ン」
 皮膚の上をなぞられ、じれったさとくすぐったさに眉根が寄る。もっと触って欲しいとばかりに竜馬の胸が突き出された。隼人は無言で応える。
「んあっ、あっ……」
 指先でなぞっていく。薄い皮膚の下に潜んでいる快感を毛羽立たせるように、柔く、軽く。乳首もすでに勃っていて隼人の指先を待っていた。だがまだ触れてやらない。
「ン、あ……、な、なあ」
 はじめは嬉しそうに上がっていた竜馬の口角が次第に下がっていく。胸を這う手に乳首をすりつけようと身体が揺れる。それでも隼人は膨らんだ胸の先に触れようとはしなかった。
「あ……てめぇ……っん」
 不満げに睨みつけてくる竜馬に、ニヤリと笑い返す。鳶色の瞳に苛立ちが揺らめくのを認めると、隼人はキスで唇を塞いだ。
「ンッ、ん、む」
 文句は言葉にならない。くぐもった音を漏らしながら、竜馬が抗議する。それをねじ伏せるように隼人のキスが深くなる。舌を吸われ、竜馬の身体が強張った。
 ぴんと勃った乳首に隼人の指が触れる。
「ンうッ!」
 竜馬の身体が跳ねる。隼人は膨らんだ突起をつまみ、しごく。漏れ出る声も跳ね上がる。待ち侘びた分、刺激は強いはずだった。だからこそ容赦せず、指先でなぶる。竜馬の表情が歪む。けれどもそれは苦痛ではなく、与えられる快感と湧き上がる情欲に溺れていく悦びによるものだった——幾度も見てきたからわかる。隼人の中からも湧き上がる塊があった。
 衝動に突き動かされ、竜馬に覆いかぶさる。ベッドに押し倒された弾みで唇が外れ、竜馬が息を吸い込んだ。隼人はそれすらも許さないように、再び口づける。
 熱で竜馬の口の中を犯していく。激しさに身悶えながらも、やがて竜馬が首に抱きついてきた。苛立ちも消えたのか隼人の舌を迎えにいき、吸い、粘膜のまぐわいに自ら沈んでいく。
 キスを貪る唇から唾液が溢れる。しかしふたりは気にも留めない。重なった肉体に隙間ができるのを嫌がるように、肌をこすりつけ合う。
「ん……ッ、ン、ん」
 自然、昂ったそこ・・も重なる。快感を求めてふたりの腰がうねった。
 下着越しにペニスがこすられる。どちらもくっきりと形が浮き上がって、張った先端部分は濡れそぼっていた。競うようにずりずりと押しつけ合う。
 竜馬の脚が隼人の腰に巻きついた。刺激はある。だが達するにはまだ遠い。そのもどかしさを取り払おうと、ふたりはいっそう身体を密着させた。
「……ふ……っ、ん……」
 固く抱き合いながら、深いキスを続ける。肉体だけの関係にしては行き過ぎと呼べる交わいだった。
「ん、あっ」
 隼人のカリ首が鈴口にぐりぐりと当たる。竜馬の頭が逸らされた。気持ちよさそうに瞑られた目蓋がゆっくりと開いていく。
「——」
 目が合う。熱を宿した瞳が隼人に注がれた。
「……は…………と」
 はやと、という名前が竜馬の喉の奥に吸い込まれていく。言いかけて、禁忌に触れたように思いとどまるのだ。隼人はもう、何度もその姿を見ていた。
 己もまた、幾度も思い留まったからわかる。
 ただの呼びかけや確認の方便とは違う。それならためらわない。そこに感情が乗ったとき、音は変質する。
 名前を呼びたい。
 けれども——。

 呼んではいけない・・・・・・・・

 隼人は下唇を噛む。呼んだら、始まってしまう。それだけは避けたかった。
 胸中の葛藤を見透かしたかのように、竜馬の舌が伸びてくる。
『はやと』
 とろけた瞳が訴えてくる。
「——っ」
 内側から溢れてくるものを止めらない。それが零れ落ちる前に、隼人は差し出された舌に吸いつく。形のいい後頭部を引き寄せ、さらに口づけを深くする。竜馬のくぐもった、切なげな呻きが聞こえてくる。
 キスで互いの名前を封じる。それしか方法はなかった。
 最初はストレスと性欲の解消だった。それと、相手への少し・・の興味。
 自分以外の誰かに意識を向けるのは初めてだった。きっと竜馬も同じではなかったか。そして、目的が果たされても興味は失せなかった。むしろ、もっと知りたくなった。だからこそ一度きりでは終わらなかった。
「ン、な、なあ……」
 竜馬が喘ぎながら誘う。
「はあ……っ、ン、も、もう挿れて、くれよ……」
 身体を揺らし、ねだる。
「我慢できなく、なっちまっ……ンっ」
「ずいぶんと早いな」
 自身も猛り切っているくせに、余裕ぶって隼人が笑った。
「や、ヤリに来たって、あ、ん、言った、ろ」
「そういやそうだった、な」
「んうっ」
 ぎゅっと乳首をつまみ上げると、竜馬の肢体が仰け反った。浮いた腰の下に手を入れて撫で回す。火照って汗ばんだ肌が吸いついてきた。竜馬の欲を手のひらで感じる。生き物の証そのものの生々しさだった。
「ンッ、あっ」
 乳首に舌を伸ばし、触れる。
「あっ、そ、それ——ひうッ」
 竜馬がいっそう、仰け反る。隼人は舌を押し返すほど弾力を増した突起を口に含み、ねぶった。
「う、はあっ、あっあっ」
 反射的に逃げていこうとする身体を抱きしめ、放さない。
 喘ぎ声が濡れて震えて——いとけない鳴き声のように聞こえる。感情がくすぐられ、煽られ、隼人の中で膨らんでいく。このまま溺れられたら、どれほど楽だろうか。
 ——駄目だ。
 陶酔に堕ちゆく意識を引き留める。駄目だ、と言い聞かせる。酔いに浮かされ、遊んでもいい。しかし心の奥底は醒めていなければならない。
 熱から唇を離し、息を吸う。体温よりは冷たい空気が口腔内に流れてくる。浮ついている理性をつかまえて引きずり下ろすと、隼人は竜馬の理性を剥きにかかった。
「ん、あ」
 竜馬は腰を上げ、隼人に合わせて下肢をくねらせた。汗ばんだ肌からボクサーパンツが離れ、あられもない竜馬の姿が現れた。
「————」
 隼人から、ふうっと熱い息が漏れる。その昂りを嗅ぎ取った竜馬のペニスがひくりと震え、ぬらついた先端をさらに濡らした。
「なあ……」
 竜馬が膝裏に手を回し、腿を持ち上げる。待ち切れないと蠢くそこを隼人に見せつけ、目線でしどけなく誘った。
「……ああ」
 硬く渇いた——まるで初めての行為に緊張しているかのような——隼人の声が応えた。
 もう何度も抱いているのに、飽きることがない。むしろ、抱くたびに渇いていく。欲しくて欲しくて仕方がなくなる。
 なぜだろうかと思う一方で、考えて何になると心の声が嘲笑う。竜馬は自分のものにはならないし、自分も本当の気持ちを竜馬に伝えることはないだろう。
 ——たぶん。
 竜馬もわかっている。隼人への思いを自覚し、隼人の心の内も勘づいている。
 どちらかがたったひと言、「好きだ」と言えば済む。零れそうな思いを乗せて名前を呼べば、すぐに始まる。
 それなのに、互いに明かすことなくひと月、ふた月と流れていた。
 ——要は、怖いのだ。
 隼人の唇が自嘲めいて弧を描いた。
「——ッ、ン」
 竜馬の口は柔く、隼人の指を難なく受け入れた。
「あっ……あぁっ」
「ずいぶん念入りにほぐしてきたな」
「だ……て、あ、あっ」
 ぐぷ、と指二本を飲み込む。
「んあっ、あっあっ」
 腰が震える。口も中も締まって、気持ちいいと伝えてくる。隼人の唇が今度は悦びに歪んだ。
「これなら、すぐにでも挿れられるな」
「だ、だろぉ……んっ、あ、あ、あ」
 竜馬が好きな場所をこすってやる。腰が浮いて、自ら動き出す。限界まで張り詰めたペニスからは我慢汁が溢れ出していた。
「ひ、あ、きもち、いい……っ、あっ、あっ」
「中でイクか?」
「ン、イク、イキて、え……っ、あッ」
 優しく、けれどもしっかりとした圧力で丹念に刺激する。快感の波に揉まれ、竜馬の顔がとろける。やがて眉間にきゅっとシワが寄った。だらしなく開いていた口元が歯を食いしばって、竜馬は呆気なく達した。
 すでに竜馬の中はこれ以上ないほどに熟れていた。指を押し包むこの熱さが、今から己のペニスを迎え入れる。想像するだけで昂り、隼人のペニスからも涎が滴り落ちた。
「挿れるぞ」
「……ン」
 甘い鼻声をあげて、竜馬は膝裏に回した手を引き寄せる。隼人の指で拡げられた口が、次に埋めてくれるものを飲み込もうと喘いだ。
 亀頭をすりつける。肉の柔らかさと熱さに触れ、隼人から思わず吐息が落ちた。先走りでてらつくそこにゆっくりと侵入していく。
「あ——」
 竜馬の身体が瞬間的に緊張する。隼人は動きを止め、竜馬の強張りがゆるむのを待ってから再び挿入を始めた。
「ん、ゔ——あっ」
 腰を進めた分だけ、竜馬から零れる。その肌がもっと紅潮していく。隼人自身に絡みつく熱も上がっていく気がした。
 亀頭が飲み込まれ、竿が肉の圧を受けていく。眩暈がするほどに気持ちがよかった。
「は、あっ、あっ、あぁっ」
 竜馬から、その表情にたがわない切なげな響きがあがる。苦しささえ感じる。怒張した隼人の欲を残らず受け取ろうと、健気に耐えているようにも見えた。
 ぞく、と隼人の内側を駆け上がる。
 今、竜馬は自分のものだ。
 この声と表情をさせているのは俺だ——。
 胸の奥が震えて、呼吸も鼓動も跳ね上がる。心地いい昂りに身を任せ、ペニスを根元まで押し込んだ。
「んあッ!」
 竜馬が仰け反って、鳴く。ぎゅっと中が締まった。
「——っ!」
 一気に煽られ、達しそうになる。隼人は息を止めて耐える。竜馬は身体をひくつかせている。奥まで突かれた勢いで達してしまったようで、喉奥からは声にならない喘ぎが漏れていた。
 隼人の唇が愉悦に彩られる。下腹に触れると、内側が痙攣しているのが伝わってきた。震える肌を撫でててやり、竿が抜けるギリギリまで腰を引く。カリ首で内側を引っかかれ、竜馬が身悶えた。
「ひあ——、あっ、あっ……!」
 尻が揺れて、逃れようとする。刺激への反射もあるだろうが、隼人からすれば距離を取ろうとする動きに見える。快感に呑まれたいくせに、溺れるのはどこか怖いのだろう——そう、感じる。
 けれども逃す気は微塵もなかった。腿を押さえ、下肢を固定する。亀頭部分をゆるゆると出し入れしてくすぐると、次第に竜馬の腰が蠢き出した。先程とは反対に、ペニスを奥まで咥えようとして揺れる。
 クッと隼人から笑みが零れる。竜馬が目の端で見咎め、顔をしかめた。
「こ、の、あ——あ、ン、あ、遊んでねえ、で、ん、あっ」
 ずぷ、とひと突きする。腹が引き締まる。
「ひっ」
「遊んでない、さ」
「んあ゛ッ」
 再び、浅いところをゆるやかにかき回す。
「う、あ、あ、あっ」
「気持ちよくさせてやりたいだけだ」
「んっ、あっ、あ、うそ……ばっか……っあ!」
「嘘じゃないさ」
 心底そう思っていた。己のほかは誰も与えられないほどの快感を竜馬に植えつけたい。表面上は無関心を装っていても、薄皮を一枚めくれば隼人への執着が隙間なくひしめくほどに、その肉体に己を刻みつけてやりたい。
 軽い律動を繰り返し、竜馬を高めていく。その先を求めて竜馬の全身がわななくと、深く分け入っていく。幾度も幾度も、焦らしては褒美を与えるように奥まで肉棒をうずめる。
 竜馬の声が喘ぎだけに変わる。次々に押し寄せてくる快感に揉まれ、攫われ、理性の岸辺から遠ざかっていく。
 もう少し。
 高揚していく自分を制御しながら、隼人はじっと観察し続ける。竜馬を世界から引き剥がして、快楽の底に沈めてしまいたい。隼人に縋ることしかできなくなったら——そのときは心の内を明かしてくれるだろうか。
「————ッ‼︎」
 竜馬の背中が弓形に反る。タイミングを逃さずに追撃する。下から思い切り突き上げると、奥深くまで到達したのがわかった。
 びくん、と一際大きく竜馬が揺れる。汗でうっすらと光っている腹に白いものが飛び散った。
「——ふ、は」
 笑いが込み上げる。隼人は笑んだまま、腰をもうひと突きする。竜馬が呻き、震えているペニスから再び白濁した精液が迸った。
 竜馬の匂いが立ち上る。雄臭い香りが興奮を煽る。
 隼人は上体を折り曲げるようにして竜馬に覆いかぶさった。ペニスの先が竜馬の熱く蠢く肉の奥を占領する。
「ひっ……う゛、あ゛」
 細かく痙攣を続ける竜馬を抱きしめる。互いの荒い呼吸で身体が大きく揺れた。そのたびに隼人の肉棒が竜馬の中を圧迫する。
「あっ……あぁっ、あッ——」
 竜馬は為す術もなく鳴く。隼人は耳元に唇を寄せた。低い声でゆっくりと押し込む。
「……気持ちいいか」
「ふあっ——」
「なあ、」
 りょうま、と続く声を飲み込む。代わりに腰を入れ、
「ここが好きだろ?」
 と問う。
「う゛、あッ」
「なあ」
 亀頭をぐりぐりと肉の壁にこすりつける。
「あ゛っ、あ゛っ」
「嫌ならやめるか?」
「ひ、あ゛ッ」
「なあ」
 ふ、と力を抜く。責める圧が弱まり、竜馬の緊張が自然にゆるむ。その隙を狙ってペニスが穿たれた。
「んひッ⁉︎」
 竜馬の身体が衝撃を逃すべく反ろうとしたが、敵わない。
「あ゛ッ!」
 隼人はひたすら奥を責める。ぴたりと合わさる鍵の如くに嵌った肉塊をしつこく押しつけ、行き止まりのさらに奥にある扉をこじ開けようと間断なく腰を振る。
「ひっ、ひっ……」
 顔をぐしゃりと歪め、竜馬がか細く鳴き始める。たくましい肉体に似つかわしくない、繊細な悲鳴だった。
「あ゛ッ……あ、あひ、ひっ……」
 隼人のほかには誰も聞いたことがないであろう、そしてこれからも聞くことはきっとないであろうさえずり・・・・はひたすら耳に甘かった。
 いつまでも聞いていたい。
 ——竜馬。
 四肢にぐっと力を込める。抱え込まれた竜馬の尻が浮いて、完全に無防備な角度になる。そこに滾った欲をねじ込む——とうとう竜馬の全部がこじ開けられた。
「ひゔッ——‼︎」
 竜馬の声が耳いっぱいに広がって、次の瞬間、亀頭がねっとりとした肉に包み込まれた。
「ぐ、う……っ」
 思わず呻く。ぐずぐずになった熱い肉が絡みつき、蠢く。迫ってくる射精感を打ち払うように、隼人は腰を振った。
 まとわりついてくる肉をかき分けるようにペニスを撃ち込む。
「あ゛……ッ!」
 ひと突きごとに腕の中で竜馬が跳ねる。そのあとで肉壁が痙攣する。明らかに達していた。
「あ゛っ、ん゛あ゛ッ、ああ……ッ!」
 ぎゅっと閉じられた目蓋の端から涙が零れる。責め立てられ、追い詰められた表情に隼人の胸がざわついて、吸い寄せられるように頬にキスをする。
「ん゛……ッ、あ——っ」
 肉壁が細かく収縮して縋りついてくる。なおのこと健気に感じて、隼人はなだめるように竜馬の中をゆっくりとこすり出した。
「ひあっ……んあっ!」
 甲高い声で竜馬が震える。そこを繰り返し、なぞる。
「お……、あ、あ、あぁ……っ」
 肉棒はぴたりと竜馬の中に収まったまま。そっと腰を動かして揺さぶる。絶え間ないひくつきから、じわじわと溢れてくる快感が伝わってきた。
「は…………と……」
 か細く、耳に届く。
「……っ、……き」
 どくん、と心臓が大きな音を立てた。
「す…………」
 息が止まる。竜馬の唇を凝視する。
「す……す、き……っ」
 聞き間違いではない。
「す、き……っ、あっ、あ゛っ、そこ……ぉっ……す、好き……っ」
 竜馬が力の入らない身体でしがみついてくる。鳶色の瞳はすっかりとろけて、快楽の真ん中にずっぷりと溺れている。
「す、き」
「————っ」
 隼人の胸が高鳴る。それはずくりとした痛みと同じ感覚で、初めてゲッター線の存在に触れたときと同じほど——もしかしたら、それ以上——の圧迫を与えてきた。その下から熱い塊が湧き上がってきて身体中に広がり、全身が包まれる。
 ——竜馬。
 頭の芯が熱い。ただ竜馬が欲しくて仕方がない。
 ——りょうま。
 渦巻く熱に任せ、隼人は闇雲に腰を突き入れ始めた。
「う゛あ゛ッ⁉︎ あ゛ッ、や、あ゛、あ゛、あ゛——ッ‼︎」
 背中に竜馬の爪が食い込む。構わず腰を叩きつける。
「ひぐッ、う゛——んあ゛ッ!」
 竜馬の中がうねり、びくつく。
「う、く……っ」
 熱に締めつけられ、一気に追い立てられる。込み上げる射精感に呻く。どう足掻いても避けられそうになかった。
「く——」
 隼人の腰がきざす。一拍の間ののち、溜まりに溜まった劣情が竜馬の体内に放出された。
「あ、は、あ゛ッ——‼︎」
 短く鳴いて、竜馬の顎が上がる。
 腰のびくつきは止まらない。湧いては溢れる白濁が竜馬の内側を埋め尽くしていく。竜馬の肉壁は独立した生き物のように蠢いて、最後まで欲を味わおうとしていた。
 いつになく濃い、まぐわいの果てだった。
 荒い呼吸が零れてくる。隼人は己が腕でがっちりと囲っている男を見下ろす。力なく余韻に揺さぶられている男は憐れで、それゆえに愛しく思えた。
 胸が満ち足りていく。
 万能感、征服感、達成感。何と表せばいいのだろうか。
 破壊活動をしていた頃は、計画が成って当然だと思っていた。自分が采配を振っていたのだから、失敗するはずがなかった。意のまま、というのはいつだって気分がよかったが、これほどまでの充足感を味わったのは初めてだった。
 熱くひくつく竜馬の中を感じながら、丸みを残す頬を撫でつける。虚ろな、しかし溢れんばかりの甘さをたたえた瞳が隼人に向けられた。その眼差しに、隼人の胸もじんわりと甘くなる。引き寄せられ、口づけをしようとして——。

 ずくり、と胸に走る。
「————ッ」
 鋭い眼光に射抜かれる。
『満足したか?』
 そんな言葉とともに、得意げに竜馬の瞳が細められた——ように見えた。
 隼人は血の気が引く音と感覚を知る。心臓に重く冷たい楔が打ち込まれる。体内の熱が一気に奪われていった。

『言わせたかったンだろ?』
『聞きたかったンだろ?』

 竜馬の唇は動いていない。それなのに、頭の中に響いた。
 息が吸えない。は、と口の中の空気を吐き出すのが精一杯で、隼人は目を見張り、固まってしまった。
 今の今まで恍惚に溺れていた瞳に、ひどく冷静な光が佇んでいた。じっと、隼人の心の奥底を覗いているようだった。
 悟る。
 見透かされていた。
 姑息な手・・・・で告白の代替を得たと、ばれている。
 なおも動けずにいると、竜馬の手が頬に伸びてきた。隼人がしたのと同じに、そっと指先で撫でつける。それから両手で優しく顔を挟み込んで引き寄せ、口づけた。
「……ン」
 鼻にかかった甘い声とともに、舌が絡んでくる。衝動のままに貪るキスとは違う。ゆっくりと、熱と味を確かめるようなキスだった。舌が絡まって、くち、と控えめな水音が鳴った。
「…………す、げえ」
 吐息はまだ熱かった。隼人はぎこちなく視線をやり、瞳の奥を見る。
「……飛ンじ……まった」
 笑みが含まれた響き。その目も潤んでいて、夢心地の只中に横たわっている。先刻の、現実を突きつけるような尖った光はどこにも見当たらなかった。
 ——見間違い……か?
 言い切れないのは、引け目を自覚しているからだ。あんなにも戒めていたはずなのに、浮かれた己がみっともなかった。
「ン」
 隼人の腰に巻きついた脚にクッと力が込められた。深く繋がった場所がこすれ合う。熱く倦んでいた肉同士がじくりと溶けていく感覚がした。
「ん、あ……」
 湧き上がる余韻に揺らされ、竜馬がうっとりと目蓋を閉じる。快感を一滴も漏らさないように閉じ込めるかのようだった。
 隼人は半開きの唇にキスをする。縋ってくる舌を吸い、竜馬のほうから離れていくまで、口腔内を丁寧に愛撫し続けた。

   †   †   †

 シャワーを浴びても、竜馬の残り香は完全には消えない。
 当然だ。
 隼人の薄い唇が歪む。
 もう皮膚の内側に棲みついてしまった。髪の芯にも、鼻腔の奥にも、舌の先にも。それでも昂った心を静めて、暴れ出しそうな執着を意識の隅に追いやるためには必要だった。
 シャワールームを出ると、竜馬はまだベッドの上で眠っていた。
 その姿を認め、無意識にほっとしたような息が漏れた。
 静かに近づき、ベッドの端に腰を下ろす。微かに軋んだ音が鳴ったが、伏せられた睫毛はぴくりとも動かない。あれだけ責められたら、いくらタフな竜馬でもたまらないだろう。
 普段の傍若無人な振る舞いそのままに、竜馬はベッドの真ん中を占領し、気持ちよさそうに寝息を立てていた。
 覗き込む。快活な雰囲気とあどけなさを残した、邪気のない寝顔だった。
 ——竜馬。
 胸の中で呼びかける。
 黒髪を指で梳く。内側は汗を含んでしっとりとしていた。指先でその感触を味わう。それから、指の背で頬を、唇を撫でる。
 さっきまでは確かに自分だけのものだった。今はもう違う。様子をうかがいながら密やかに触れるだけの存在。

 もしも。

 ふと考えてしまう。
 無駄だと思っていても、違う未来があるのではないかと探りたくなる。
 もしも、竜馬の口から「好きだ」と発せられたら。
 まっすぐにこちらを見つめる鳶色の瞳を脳裏に描く。
 ——俺は。
 どうするだろうか。
 指先が頬を滑る。自分とは違う熱を秘めた、生命のあたたかさ。いつまでも触れていたい。けれどもどうしてか、我を捨てて求めることができずにいる。
「……」
 やはり、怖いのだ。
 形は変わる。いつか崩れる。時間は止まらず、決して戻らない。始まれば必ず、終わる。
 それだけではなく。
「————」
 不意に思い出す。
 幼い頃、小さな掌で包み込んで放さなかった生命。
 ——あれは。
 母親が鳥籠と文鳥の雛を贈ってくれた。隼人がペットショップの前で足を止め、ウィンドウにへばりついて見ていた数日後のことだった。
 手のひらに乗せたときの柔らかさとあたたかさがよみがえる。軽いけれども、確かな重さがあった。自分と同じ生き物の重さがあった。
 さえずりも、ほんのわずかな身じろぎも、直に感じる生命のすべてが嬉しくて愛しくて、放したくなくなった。ずっと手の中に囲っていたくて——気づいたら幼鳥はぐったりとしていた。
 水と餌の代わりにストレスを与え続けていたのだから当然だ。悲鳴をあげた母親が無理やり雛を取り上げ、それからどうなったかは知らない。元気を取り戻し、誰かの元へ引き取られていったのかもしれない。
 あるいは——。
 トク、と指先に竜馬の鼓動が響いた気がした。
「……ン」
 竜馬の目蓋が震える。唇が開く。隼人は素早く身を引いた。

 

「う……ん……」
 微かな声。ベッドの軋みと、シーツの上を肌が滑る音。
 小さな溜息のあとで竜馬が訊ねた。
「……今……何時だ」
「一時を回ったところだ」
 隼人はノートパソコンの画面を見つめたまま淡々と答えた。
「……ああ」
 ごそりと気配が動く。目をこすり、辺りを見回し、ベッド脇の時計を確認して、それからたぶん、隼人の背中を見ている。
 静かな空間に、カチ、カチとキーボードの打鍵音が浮いては消える。そこに、キ、とスプリングの甲高い音が割って入った。
「…………帰るわ」
 ゆらりと立ち上がったのがわかった。次いで、脱ぎ散らかした服を拾い、緩慢に着ていく音。竜馬も部屋に戻ればシャワーを浴びるのだろう——隼人がそうして竜馬の匂いを消したように。
 どこか虚しさと後ろめたさを感じながら、隼人は「ああ」と吐き出す。
 衣擦れのあとで、再び訪れる静寂。
 隼人は息を潜める。竜馬から次の約束か、これぎりの終端か、何が落ちても拾えるように耳をそばだてる。
 甘い地獄がすぐそこにある。ぽかりと口を開け、ふたりが縁から足を滑らすのを待っていた。
 沈黙が夜に溶けていく。静けさがもたらすのは穏やかさではなく、心を乱すような煩わしさだった。
 Enterキーに指を押しつける。カチ、という音とともに、ずく、と心臓が痛んだ。
 隼人の眉が不快感に歪む。
「……」
 薄い唇が引き結ばれる。しかし痛みは消えず、むしろ鼓動に合わせ、ずくり、ずくりと大きくなっていく。
 細く吐き出した息は震えていた。痛みは地をのたうつように広がり、隼人を搦め捕る。逃れたくても、深く根を張った執着が許さない。
 まるで楔を打ち込まれながらも死に切れず、現世をさまよう生きむくろだと思った。
 ずくん、と一際大きく、鼓動が鳴った。
「……じゃあな」
 ぽつりと背中越しに聞こえた。竜馬も背中を向けているのだろう、ずいぶんと遠くから聞こえた気がした。
 ほかに言葉はない。靴音がまっすぐに扉へと向かっていく。
 はじまりの告白でもなく、明確な終わりでもない。隼人は落胆しつつ、安堵する。ほんの少しだけ、痛みが和らいだ気がした。
 竜馬もまた、同じ気持ちなのだろう。その平衡を崩さぬように、隼人もひと言、「ああ」と頷いた。届いたかはわからない。
 始まってしまえば、引き返せない。いつか訪れる終端に突き進むだけだ。それにきっと、手に入れたら執着で押し潰してしまう。竜馬は「そんなんじゃ壊れねえよ」と笑うだろう。だが隼人にはわかる。
 この世に、大切なものなど作らないほうがいい。失くしてしまうくらいなら、手に入らなくて構わない。永遠にこのままでいい。
 死ぬまで渇きと痛みに苛まれるのだろう。そうして気のないフリを続けながら、竜馬を求め続けるのだろう。
 そんなことを思いながら、隼人は扉が閉まっていく音を聞いていた。