本編終了後、同棲中。
仕事終わりのおみやげにドーナツをたくさん買ってくる隼人と、それをおいしそうに食べる號くんのお話。隼人寄り視点。ギリ3,000文字未満。pixivにもあげます。
◆◆◆
號の目が輝く。見守る隼人の表情もゆるむ。
「これ——駅前に新しくできた店だろ?」
紙箱の店名を確認し、號が顔を上げた。
「すっげえ混んでるらしいじゃん。いつ行っても並んでるって。よく買えたな」
「運よくな」
「いや、運って……」
號が「そんなワケねえだろ」という顔をする。
正直、その通りだ。だが、売り切れない限りは並んでいればいつかは買える。それがわかっているだけありがたい。いつまで待っても返事を寄越さない、あるいは寄越しても煮え切らなくてまどろっこしい回答だらけの政府関係機関よりよほど誠実だ。
號の笑顔が見られるなら、このくらいどうってことない。だから隼人は、
「それより、食べないのか」
と、水を向ける。このままだと「なあ、二時間とか並んだのか?」と號が気にし始めてしまう。
「俺もひと息入れたい。ゴタゴタしていた大きな仕事が片づいたんでね」
笑いかけると號の意識がこちらに向いた。
「マジで?」
「ああ。これで少しは落ち着く」
ほのかに甘さが漂ってくる紙箱を掲げて、もっと引きつける。案の定、號は吸い寄せられるように手を伸ばし、ドーナツの箱を受け取った。
「そりゃ——お疲れさん」
満面の笑みが咲く。すり減って、ささくれだっていた心の輪郭が、號の柔らかな笑顔に撫でつけられていく。平穏が戻ってくるのと同時に、自分の居るべき場所に帰ってきた実感が湧いてくる。
「じゃあ、お湯沸かしてくる。神さんも早く着替えて、リビング集合な」
號がくるりと身を翻す。ぱたぱたとスリッパが鳴って——すぐに止む。
「コーヒー、ブラック?」
「ああ、頼む」
「おう、任せとけ!」
振り返った號は、片目を瞑って軽快に答えた。
† † †
「おわあっ」
箱が開いていくのと同時に、號の目も大きくなる。瞳は土産を認識したときよりもさらに輝いていた。
「めちゃくちゃ豪華じゃねえか。……いち、にぃ、さん」
ドーナツが五個にパイが二個、ずらりと並んでいる。しかもそれが二段。
「やけにずっしりしてるなと思った」
「選べるなら、そのほうがいいだろ」
「そうだけど……これじゃ迷っちまう」
「迷わなくったって、食べたいものを全部食べたらいい」
「全部って」
號は目を丸くする。
「俺、そんなに食えねえぜ」
とは言いながらも、声は弾んでいた。箱を覗き込む。目線がちらちらと行ったり来たりして、迷う楽しさが表れていた。
隼人は淹れ立てのコーヒーをひと口飲み、號を眺める。
たぶん——最初に目が行くのはチョコレートがたっぷりかかったドーナツ。それからシンプルなシュガードーナツ。中にカスタードクリームが詰まった穴のないタイプとハニードーナツに目移りして、でも塩っ気のあるミートパイもいいな、と思う。けれどもやっぱり最初はチョコレートのドーナツだ。
「うん、決めた」
「どれにする?」
「このチョコのやつ」
許可を求めるように律儀に見上げてくる。隼人はもちろん頷く。
「へへ……、チョコがついてると、ザ・おやつ! っていう感じがするだろ」
號は秘密を打ち明けるときのはにかみを見せながらドーナツを取り出す。
「神さんは?」
「俺はまだいい」
「何だよ、せっかくこんなにあるのに」
「まずはお前が好きなだけ食べろ」
「えー、一緒に食おうぜ」
「あとでもらう。いいからまず、お前が食べろ」
「けど」
「お前に買ってきたんだ」
そう言われて悪い気など起きるわけがない。號は笑顔を浮かべる。
「そんじゃ、遠慮しねえぞ。いっぱい食うからな。いっただきまーす‼︎」
威勢よく言い、ドーナツにかぶりついた。
「ん!」
顎の動きが止まる。
青い目が隼人を見つめ、ドーナツに戻り、ゆっくり咀嚼を再開する。
徐々に號の表情が変わっていく。美味しさに驚いて、味わって、心地いい甘さが広がっていくのを感じている。そんな號を見て、隼人の胸の中にも甘さが広がっていく。
「どうだ」
訊ねると、言葉と感情をぎゅっと押し込めた眼差しが返ってきた。ドーナツひとつでこれほど感激できる號の純朴さを可愛らしいと思うと同時に、一瞬で號を虜にしたドーナツ相手に少しばかり嫉妬を覚える。
「……うまい」
思わず零れた声ほど真実を表すものはない。號の呟きに満足感が込み上げてきて——たった今、ドーナツに嫉妬したばかりなのに、今度は感謝の気持ちに置き換わる。人ではなく、ドーナツ相手に気持ちを揺らされるというおかしな状況に、隼人は小さく苦笑いをした。
「神さん、これすげえうまい」
「それなら、よかった」
並んだ甲斐があったというものだ。
「まだあるぞ。好きなだけ食え」
「うん」
號はドーナツを頬張る。チョコレートが口の横につく。無邪気さが溢れる姿は、そのまま隼人の歓びとなった。
残りひと口となったコーヒーを見て、もう一杯飲もうか考える。ふと視線を感じて隼人は顔を上げた。
ドーナツを持った號が真ん中の穴からこちらを見ていた。
「神さん、みっけ」
向こう側の目が笑う。つられて、隼人も微笑む。四個目のドーナツはストロベリーチョコレートがかかっていた。
「……」
號は手にしたドーナツをしげしげと眺め、また穴から隼人を見る。
「どうした」
「ん? ああ、ドーナツってよ……ドーナツっていうか、うーん」
手を伸ばしドーナツを見つめる。首を傾げ、何かを探して考えて、太い眉が上下して——やがてその表情がパッと明るくなった。
「甘くてうまいもん食うと、倖せな気持ちになるだろ」
「ああ」
「だから倖せって、こういう形してんのかなって」
號はもう一度、ドーナツ越しに隼人を見た。
「ドーナツの丸は、倖せの丸……ってな」
「……倖せの形」
考えたこともなかった。
號は手にしたドーナツを半分に割る。
「はい」
片方を隼人に差し出す。
「……」
「半分こ」
「あ、ああ」
受け取って、さっきの號と同じように、しげしげと眺める。甘い香りが鼻先をくすぐる。
ひと口、食べる。チョコレートが溶けて、生地の甘さと混じって口の中に広がる。確かにうまい。疲労のあとの甘いものは殊更にうまいというのを差し引いても、行列ができるのは頷けた。
「な。うまいだろ」
號もひと口食べる。
「風呂上がりにもうちょい食って、パイは明日の朝飯のデザートだろ。それからおやつ」
何個ずつ食べるのがいいか、指折り数えながら考える。
「ちゃんと神さんの分も残しておくからな。食いたいのがあったら言えよ」
「ああ」
「神さん」
「うん?」
「お土産、ありがとな」
テーブルの向こうで號が笑う。嬉しさが滲んで零れる。その手には、ひと口齧ったドーナツ。
隼人は右手に持ったドーナツを見る。
號が分けてくれた、『倖せ』の半分。
ふたりでひとつの形。
そう思うと、じわりと胸が熱くなってきた。
號に癒されて本来の形を取り戻した心が満たされていく。
倖せで満たされたその形はきっと、丸いに違いなかった。
