わけあいっこ

新ゲ弁隼

つきあってます。
体調不良の隼人を介抱する弁慶の話。
・体調不良は一時的なもので、すぐ回復します。
・弁慶が修行時代の思い出話をちょろっとします。
約7,000文字。2022/8/12

このあとのお話→『夢で現(うつつ)で檸檬味

◆◆◆

 思わずニヤける。
「気が早いな」
 右肩を抱いて——違和感に気づいた。
「隼人?」
 弁慶にもたれたまま、返事はない。
「どうした? おい、隼人!」
 尚も呼ぼうとして左手で制される。
「……意識はある」
 声に張りはなく、その手が力なく下りる。問いたいのをぐっとこらえ、続きを待った。
「……少しだけ、眩暈がする」
 隼人が口にするのだから、相当つらいに違いない。
「お前、そんな状態で」
 横から覗くと、顔が真っ青だった。訓練は滞りなく行われたし、終了後のバイタルチェックも全員問題なし、と通された。弁慶でさえ、今の今まで異常に気づかなかった。
 ずっと我慢していたのか。
「医務室に行くか?」
 念のため訊く。微かに首が横に振られる。
「わかった」
 隼人の部屋はもうすぐだ。弁慶は周囲に気を配る。誰もいない。
 抱き上げる。
「……っ」
 伏せかけていた双眸がぎょっと見張られた。薄い唇が開く。普段はもっと赤みがあるのに、今は血の気を失って痛々しかった。
「おっと、文句はあとでな」
 今は弁慶に分がある。隼人も理解し、口を結ぶ。それから目を閉じると、弁慶の胸元におずおずと頭を預けた。

 誰にも見られずに隼人の部屋に滑り込む。
 ベッドまで運ぶと少しばかりほっとした。それは隼人も同じだったようで、細い溜息が聞こえてきた。しかし眉間にはきつく皺が寄っている。
「どんな感じだ? 何して欲しい?」
「眩暈と頭痛……軽い吐き気と寒気。……眠れば治る」
「眠ればって」
 部屋を訪ねても空振りに終わることがよくある。いてもずっとパソコンと睨めっこをしている。竜馬とは食堂でも浴場でも顔を合わせることが多いのに、隼人はとにかく不規則だ。ここでは誰よりも隼人を知る弁慶でさえいつ休んでいるのかと思うぐらいなのだから、本当にろくに寝ていないのだろう。
 そういえば、とベッドを見る。今は隼人の体重がかかっているが、それでもシーツは糊がきいてピシリと整っている。昨日は徹夜したのだろうか。もしかして、ベッドに腰掛けてすらいないのだろうか。
 これなら、弁慶が泊まりに来たほうが余程きちんとベッドに入っているのではないか——。
「……眠ってよくなるんなら、それでいいけど」
 額に触れる。熱はない。
「寒気がするなら毛布を出そうか?」
「……いや、いい」
「なら、眠れ。俺は何か食べるものを用意しておくよ」
「いらねえ」
 億劫そうに、それでも隼人らしく睨みつける。その仕種に、弁慶は穏やかな笑みを向けた。
「大丈夫だ。気づかれないように注意するから」
 左の頬をそっと撫でる。ひやりとした温度が伝わる。その下の強張りも。だがあたたかい指先にくすぐられ、ゆるめられていく。
 やがて、わずかに押し返してくるような感覚があった。
「けど、もし鬼が出たら隼人は出撃られねえってちゃんと言うからな」
 隼人は小さく頷き、目を閉じる。また撫でると、今度はわかるくらいに頬を押しつけてきた。
「じゃあ、ちょっと出てくるな」
 優しく言い、冷たい肌をもうひと撫でした。

   †   †   †

 苦しそうな寝顔だった。首筋が熱い。最初は寒気がすると言っていた。疲労から風邪を引いているのかもしれなかった。
 手拭いを濡らし、隼人の額に乗せる。
「いっつも無理してんだろうなぁ……」
 見ているこちらが不安になるくらい、駆り立てられるように——何かに追われるように——ゲッターについて調べ回っている。あらゆることを知ろうとしているのだから、その範囲と労力は当然、部門別に取り組んでいる所員の比ではない。それこそ早乙女博士並みではないか。
 そもそも隼人はパイロットなのだ。いくら常人離れしたタフさを備えているとはいえ、負担はかなり大きい。弁慶にしてみれば「しんどいだろうな」としか出てこなかった。
 自分だって目的のためには無理をする。無茶でも、やらなくてはいけないときは脇目も振らずに突き進むしかない。だから隼人の気持ちもわかる。自分には止める権利はない。
 けれども、つらそうな隼人は見たくなかった。

 隼人の目蓋がゆっくりと持ち上がった。ぼんやりと天井を見つめる。重たそうに二、三度まばたきをし、それから弁慶を見る。
「どうだ?」
「……」
 唇が微かに動く。
「ん? 水か? 待ってろ」
 ペットボトルを開ける。隼人は身体を起こそうとするが、短く呻いて再びベッドに沈んでしまった。
「無理すんな」
 弁慶は水を一口含むと、隼人に覆いかぶさった。
「——」
 隼人の目が見開かれ、全身が緊張する。しかしすぐに強張りはける。喉仏がこくりと上下した。
「もっと飲むか?」
 問いに頷く。
「おう。しんどいときは素直が一番だ」
 嫌みなく弁慶が言い、笑った。もう一度水を含み、口移しで飲ませる。
「…………もう、一口」
 次は隼人からねだった。
 飲み終えると人心地ついたのか、小さく息を吐く。部屋に運び込んだときよりは顔色がよくなっているようだった。むしろ、紅潮している。
「やっぱり熱があるな」
 首筋がさっきよりもだいぶ熱くなっていた。
「……大丈夫だ。もう少し……寝る」
「ああ、そうしろ。俺はここにいるから」
 弁慶はそっと隼人の頭を撫でた。

 手拭いはすぐに熱を持った。そのたびに水で濡らし、額に乗せる。首にも当ててやった。
「う……」
 眉がしかめられる。呼吸も浅い。時折、口元がぎっと歪む。悪夢でも見ているかのような形相に、弁慶の表情も曇った。
「隼人」
 呼びかけるとうっすらと目を開ける。熱が滲んでいる。手拭い一枚ではどうにも心許なかった。
「売店で氷嚢買ってくるよ」
 弁慶が立ち上がり身を翻し——止まる。
「え」
 羽織の裾を隼人の左手が握っていた。
「…………隼人」
 気づかれるリスクは極力減らしたい。自分の弱さを人には見せたがらない隼人らしかった。
「わかった。大丈夫だって」
 その弱さを自分にだけ見せてくれるのは嬉しかった。
「どこにも行かねえよ」
 何でもつかめそうなほど大きな手を隼人の手に重ねる。
「握っててやる」
 聞くと、隼人の目がすうっと閉じられた。
 もしそこに「傍にいて欲しい」という気持ちがわずかでもあるのなら、もっともっと嬉しい。
 弁慶は重ねた右手にくっと力を込めた。

   †   †   †

 右の手のひらがどうにもくすぐったい。もぞもぞと何かが動いている。
「ん」思わず鼻の頭に皺が寄る。
 すると、手の中の蠢きが収まった。だが違和感は残っている。
 ぎゅ、ぎゅっ、と握り込んでみる。何か、丸くてあたたかいもの。
「…………ぁ」
 ぱっと目を開ける。手の中の丸みがぴくりと動いた。
「隼人!」
 顔を上げる。上体を起こしていた隼人と目が合う。
「隼人、お前」
「涎が出てる」
 いつもの調子で返された。
「え、あ」
 がば、と巨体が起き上がる。弁慶は左腕で口元を拭った。
「えへへ……」
 恥ずかしそうに肩をすくめる。そのあとで隼人の視線の先に気づいて慌てて右手をよけた。
「……」
 隼人は己の左手をじっと見つめる。弁慶の羽織の裾を握りしめていた。
 その手をゆっくりほどく。布地が拳の内側の形そのままで現れた。
「だいぶ顔色がよくなった」
 弁慶が覗き込む。明らかに数時間前よりも生気が戻っていた。
「眠れば治ると言ったろう」
「そうだな。……よかった」
 弁慶は安堵した表情で、くしゃりと固まった裾をほぐす。
「それにしたって、ん」
 皺を伸ばし、手でプレスする。
「これでよし。……お前が具合悪そうなとこ初めて見たから、びっくりした。もっとちゃんと寝ろよ」
「必要な睡眠はとっている」
「そんなこと言ってよぉ。俺、毎晩寝かしつけに来てやろうか」
「いらん。今日はたまたま調子が悪かっただけだ」
 普段通りのやりとりがなされる。
「まったく……『鬼の霍乱』ってやつだな」
 弁慶が目を細めた。
「……何だと?」
「俺も昔、言われたんだ」
 にかりと笑う。隼人が怪訝そうな表情を作る——「お前が?」と言わんばかりに。
「へへ。寺にいた頃、一度だけな。しかも、最初は意味を取り違えててよ」
 ペットボトルの蓋を開け、手渡す。隼人は受け取り、弁慶を見上げる。
 拒む気配がないので、弁慶は再び口を開いた。
「俺、身体だけはとにかく丈夫だったから、熱出したり寝込んだりってことも全然なくってよ。それが寺での生活を始めてひと月も経った頃かな、ものすごい熱が出たんだ。初めてだもんでおっかなくてな。本当に死ぬんだと思った。それで」
 わんわん泣いた、と恥ずかしそうに頭を撫でくり回した。
「悪いことをしてきたばちが当たったって思った。だってよお、身体は火がついたみてえに熱いし、ギシギシ痛むし、頭はぼうっとしておまけにクラクラすんだ」
 業火にあぶられるのはこんな感じなのだろうか。和尚に聞いた地獄を想像し、震えた。
「あのときは自分の気持ちを何て表すのかわからなかったけど、たぶん、心細かったんだと思う」
 明るくて、豪快。のしのしと歩く巨体とは縁のなさそうな「心細い」という心情。
「ずっとひとりだったから、そんなふうに思ったこともなかった。けど和尚様のところに行って、修行は厳しかったけど仲間もいてよ。ちょっとずつ、誰かと一緒にいることが当たり前になってきてたんだ」
 隼人は黙って耳を傾けている。
「曲がった性根を何とかして、さあ真人間になるぞってとにかく張り切ってたとこだったからよ、『ああ、俺はダメなんだ、またひとりになってしまうんだ』って思っちまったら……寂しくて哀しくてよぉ」
 仏門に入ってももう遅いのだと突きつけられたようでショックだった。兄弟子たちが口にした「鬼の霍乱」という言葉も追い打ちをかけた。あとからものの例えなのだとわかったが、そのときは意味を知らないがゆえに「鬼」に囚われた。「鬼」「鬼の子」と散々に言われた過去がよみがえり、どうやっても人の輪には混じれないのだと思った。
「俺だけが死んで地獄に行くんだと思った。……みんなここにいるのに、自分だけ」
 ぽつりと落ちるような「自分だけ」の響きに、隼人の瞳がほんのわずか、揺れる。
「人の中にいるのに、却ってひとりぼっちなんだ。それって、どうしようもなく心細いよな」
「……」
 隼人はぐい、とペットボトルの水をあおった。
「……けど」弁慶が続ける。
「けど、みんなが励ましてくれてな。嬉しかった。それに、誰かが傍にいるだけで安心した」
 湧き上がる負の感情を分かち合ってくれた。そして、優しさと強さを分け与えてくれた。
「だから、俺もいつか誰かの看病がしたいって——おっと、これじゃあ人の不幸を待ってるみてえだな」
 首を傾げて言い直す。
「もしそんなときが来たら、わけあいっこしようって決めてたんだ」
「わけあいっこ?」
「そう。俺がしてもらったことを返すんだ。心細さをほんのちょっとでも引き受けて、その代わりに安心を分けてあげられたらいいなって」
 そっと隼人の手に触れる。
「…………」
 隼人はじっとその手を見つめ、それから弁慶の顔を見やった。
「俺が傍にいて、ちょっとは安心したか」
「——」
 切れ長の目が一瞬大きくなり、逸らされる。弁慶は満足そうに微笑んだ。
「そうだ」
 弁慶が立ち上がり、簡易キッチンに向かう。
「少しでも腹に入れないとな」
 振り向き様に言う。隼人は何か答えようとして——無言で小さく頷いた。

「いい匂いだろ」
 ほわりとした味噌の香りと、ネギのつんとした独特の匂いが立ち上った。醤油の香ばしさもする。大きめの椀の中には出し汁に浸かった焼きおにぎりがふたつ。
「やっぱりネギ味噌は結構匂いがするな」
 ふすふすと鼻を膨らませる。
「けど、旨いんだぜ」
 レンゲでおにぎりをざっくりほぐす。醤油おにぎりの中からは焼き鮭が現れた。
 小さくしたネギ味噌のおにぎりを掬い、ふうふうと息を吹きかけてから差し出す。隼人が硬直した。
「ん? 食ったほうがいいぞ」
「……いや、そうじゃなくて」
「何だ」
 互いに目の前のレンゲを見る。
「あ、鮭のほうがよかったか?」
「…………いいや、食う」
「おう。ほら、あーん」
 一瞬、きゅう、と唇が結ばれて、それからぱかりと開けられた。
 ひとりで食べるのとは訳が違う。隼人は首を伸ばしてレンゲに口をつけた。やや傾いたレンゲから汁を吸い、温度を確かめる。次いでおにぎりを口に含む。だが隼人のタイミングと、弁慶の手の角度が微妙にずれた。
「……!」
「悪い!」
 幸い、おにぎりは口に収まっている。しかし閉じた唇の端から出し汁がつと零れ落ちた。弁慶は素早く手拭いを差し出す。顎に当て、口元をそっと拭ってやると、隼人の顔に赤みが差した。
「あれ、隼人」
 隼人は顎を引いて目線をずらす。そのまま、おにぎりをむぐむぐと咀嚼する。
「ぶり返してきたか?」
 手の甲が首筋に触れた。
「ああ、ちょっと熱いな」
「——飯を食ってるからだ」
 普段よりももっとぶっきらぼうに返ってくる。
「うーん、けど」
 弁慶の黒々とした眉毛が心配そうに動く。
 そのとき。
 ぐうう、と大きな音が鳴った。
「あ」
 弁慶が固まる。だが音はやまず、ぐるぐるぎゅうぎゅう、と轟音を響かせた。隼人と目が合うと、バツが悪そうにはにかんだ。
「……えへへ」
 隼人はちらりと時計に目をやる。もう、夜も近い。
「……」
「隼人?」
「そっちの鮭も食う」
「お、おう」
 レンゲで掬って食べさせる。今度はうまくいった。
 そうしてふた口、三口。
「全部は多いから、お前も食え」
 ちょうど半分ずつ食べ終え、隼人が振った。
「え」
「寝起きではそんなに食えん」
 ふいと横を向く。
「隼人」
「残すのは嫌いだろう?」
「そりゃそうだけど」
「なら、残りはお前が食え」
 言い終わると同時にベッドに戻った。
「俺は寝る。煩いのは御免だからな、お前はそれを食ったらさっさと出ていけ。どうせ足りないんだろう? 食堂にでも行くんだな」
 目を瞑ったまま、聞き慣れた口調。だが裏側に潜むものを感じて弁慶の頬がゆるんだ。
「じゃあ、いただきます」
 サイドテーブルに一旦椀を置き、分厚い手のひらを合わせた。
「……うん、旨い」
 もう、隼人は苦しそうではなかった。
 今日のことは、誰も知らない。
「へへ、不思議だな」
 思わず呟く。隼人の左眉がわずかに上がった。
「隼人が寝込んだことも、俺が付き添ってたことも、誰も知らないんだよな」
「……お前が喋らなければな」
「お前が嫌なことは喋らねえよ。その代わり、俺が死ぬって泣いた話は、ここだけにしといてくれよな。何だか恥ずかしいからよ」
「ああ」
「えっへへ」
 残ったおにぎりをレンゲで崩す。米粒は出し汁を吸って膨らんでいる。それをさらさらとかき込んだ。
「……ああ、旨かった」
 心底ほっとした。
「今日だけで隼人とはたくさんわけあいっこしたな」
「……たくさん?」
「ああ」
 片目を開け、不審げにこちらを見る隼人に笑いかける。
「おにぎりも秘密も。それから……水もわけあいっこってことでいいのかな」
 人懐こい笑顔を見て、隼人の目が閉じられる。
「…………そうか」
 眉間に軽く皺が寄る。けれども気分が悪いからではない——その理由を言えるくらいには、隼人とつきあっているつもりだった。
「じゃあ、俺はちょっと食堂に行ってくるよ。それからひとっ風呂浴びて、また様子を見にくる」
「いらねえ」も「ああ」も返ってこない。強がりと素直さがせめぎ合うと、こうなる。しかしそんなことを言ってヘソを曲げられても困るので、弁慶は「プリン買ってくるよ」とだけ付け足し、隼人の頭を撫でた。

   †   †   †

 翌日。
 訓練の開始時刻になっても弁慶は現れなかった。
「アイツも風邪なんて引くンだな。誰より頑丈そうな図体のクセによ」
「あなたは絶対に引かなそうね」
 内線を切ったミチルが横目で竜馬を見る。
「おう! 俺様は鍛えてっからな。ンなヤワじゃねーぜ!」
「そう。おめでたいこと」
「ああン? ンだよ、その言い方」
「何でもないわ。さっさと始めましょ。遅れると煩い人間がひとり——いえ、ふたりね」
「ああ?」
 竜馬がミチルの視線を追う。早乙女博士と、それから隼人。特に隼人はいつもより気難しそうな顔をしていた。
「三人いねえと、おめえの好きな『でーた』が取れねえから、つまンねえンだろ。心配すンな、俺が弁慶の分まで暴れてやっからよ」
 竜馬が笑う。だが隼人はじろりと睨んだだけだった。

 隼人が厳しい顔つきの下で何を考えていたのかは、誰も知らない。

 そして。

 今日に限っては訓練のデータに見向きもせず消えた隼人の行き先も、誰も知らない——。