永遠の業

新ゲ達竜R18

【閲覧注意】
1話通り達人は鬼籍に入ってます。3人集結〜4話辺りの設定。
現実世界とほぼ変わらない夢の世界で達人と再会して、今度は自分が達人を守る、と決意する竜馬のお話。
快活で屈託のない達人に惹かれて、失う不安と恐怖に怯えて、現実世界でも言動が不安定になっていきます。
黒平安京後並みにミチルが指揮官として出張ってます。現実と夢を行き来するので、隼人・弁慶・ミチルもそれなりに出番あります。逆に博士の出番はほぼないです。
竜馬は達人を基本的に「アンタ」呼びします。
竜馬と達人は結ばれますが、最終的に達人は消えます。なので部類は【夢オチ】【メリバ】です。
設定は細かく作ってますが、4話ベースのため、作中では全部の種明かしはしておりません。ご了承ください。約85,000文字。2021/6/21

※文庫用に誤字脱字や文末などの表現について軽微な修正を施した原稿を載せております。そのためpixivに投稿しているものとは若干異なる部分があります。内容に差異はありません。

※章ごとに分けてあります。
一章 夢路(ゆめじ)
 …リアルな夢の中で達人と再会する竜馬。その世界でゲッターで勝ち続ければ、今度は達人を守れるのではないか、と考えるように。約13,000文字。
二章 萌芽(ほうが)
 …達人との距離が縮まるにつれ、次はいつ会えるのか、いつ現実に引き戻されるのか、わからなくて不安を覚え始める竜馬。約11,000文字。
三章 波紋(はもん)
 …達人への思いを認めてから、気持ちが不安定になる竜馬。竜馬の言動に違和感を持ち始めていた隼人とミチルの前で突然倒れる。約12,000文字。
四章 引金(ひきがね)
 …一層、不安定になっていく竜馬。達人の存在が関係していると確信する隼人。ゲッター線の影響と仮定して調べるうちに、ミチルは早乙女博士が書いた妙なレポートを見つける。約9,000文字。
五章 破綻(はたん)
 …何度も達人が死ぬ悪夢にうなされ、現実世界でまともに闘えなくなり、昏倒する竜馬。夢の中でこれ以上は無理だと悟り、全部を終わらせようと決意する。約11,000文字。
六章 夢幻(むげん)
 …互いに胸の内を晒け出して思いを確かめ合う竜馬と達人。一生に一度の抱擁。約16,000文字。
七章 払暁(ふつぎょう)
 …目覚める竜馬。また、ゲッターロボで闘う日々へ。約7,000文字。

◆◆◆

 一 章   夢 路

 目が合うと、達人は「よう」と人懐こく笑った。
「アンタ——」
 竜馬は続く問いをぐっと呑み込んだ。
 すぐに悟る。
 俺が・・死んだのか。
 鬼獣にやられたのだろう。ただ、死に様が思い出せない。だが死んだのであれば、きっともうどうでもいいことだ。
 意外と落ち着いている自分に驚く。
 それから、ほっとしている自分にも。
 誰のせいでもないと言われても、達人を手にかけたのは自分だったから。だから自分が死んだことで申し訳が立つと思った。
「ご苦労だったな」
「え——」
 達人がねぎらう。理由がわからず、竜馬の視線がさまよう。自分の身体を見ると、パイロットスーツ姿だった。
「何だ、まだ頭に血が上ってるのか。あの鬼獣の後処理はこっちでやるから、大丈夫だ」
 達人は親指で背後のメインモニタを示す。散らばった残骸。確かに鬼獣だと認めると、周囲の情報が一気に知覚され始めた。
 見慣れた司令室にばたばたと動き回る所員たち。声が飛び交う。下駄の音に顔を向けると、すでに部屋を出ようとしている早乙女博士の背中が目に入った。
 違うのは、早乙女達人がいることだった。
「もう休め」
 達人は大きな手を伸ばす。反射的に竜馬は首をすくめる。その頭を、達人が撫でた。
 手のひらから体温が伝わる。
 竜馬が他人の存在をそうして感じたのは初めてだった。
「たつ——」
 呼びかけて、ためらう。
「うん?」
「あ……達……ひ、と」
 最後はささやきとなる。達人は「ああ」と優しく応じる。
 竜馬は次の言葉を探す。右手が忙しなく握られたり、開かれたりを繰り返した。動くたびにグローブがこすれ、ぎちぎちと皮鳴りを起こす。
「どうした?」
 訊かれ、慌てて息を吸い込む。もう一度名前を呼んでまばたきをした瞬間、目の前の光景が弾けて消えた。
 薄灰色のもやが視界を覆う。
 竜馬は目玉をぐるりと巡らせた。
 ——何だ?
 あの世はこんなにもつまらない色なのか、とぼんやり考える。
 それとも、地獄か。
 そういえば約束したな、と思い出すと同時に、見えているのは天井なのだと気づいた。
 右奥に染みがある。寝起きのたびに目につく、研究所の年季を示す染み。背中に感じるのは不快とまでは言わないが硬いベッド。右手を持ち上げる。グローブはしていない。
 夢から覚めたのだとやっと理解した。
 ——何だ、今の。
 所内のざわめき、自分が発した声、達人の白衣は洗い立ての清潔な香りがして、それから彼の手の、感触と熱。
 あまりにもクリアで、あれこそが現実なのだと錯覚しそうになる。
 ゆっくりと身体を起こす。確かに自分の部屋だ。サイドテーブルのデジタル時計を手に取る。日付は間違いなく昨日の続きだった。
「何で、今頃」
 もともと、夢はあまり見ない。見ても目覚めて五分もすれば綺麗さっぱり忘れる質だった。今のように鮮明な、しかも達人の夢を見るのは初めてだった。
 ——達人。
 だが、彼の姿を記憶から消したことはなかった。心の隅に常に達人がいるのだから、不意に現れても不思議はない。
「……夢って、そういうモンだろ」
 口に出して言い聞かせた。

 

「なあ、弁慶」
 合体訓練が終わった後、呼びとめた。
「ちょっと訊きてえンだが」
 弁慶は「珍しいな」と首を傾げたが、茶化しはしなかった。隼人の視界から外れるように物陰に入る。
「おめえ、夢はよく見るか」
「夢? 寝ているときの?」
 竜馬が頷く。
「そうだなあ、割とよく見るぞ。……そういや、夕べはミチルさんが出てきたな。穿いてたパンツの色が」
「そういう夢の話じゃねえよ」
 軽く腹に拳を入れる。
「そうじゃなく……おめえ、仲間の坊主や……あの和尚の夢を見るか?」
 言いづらさから自然と俯き、低い声になる。一瞬、弁慶は身体を強張らせ、それから「ああ」と答えた。
「たまに見る。まだ、みんなで暮らしていた頃のことも、それから」
「……あの闘いのことは」
「……ああ、時々」
 振り払った腕の勢いも、転びながら走った脚の重さも、現実そのままに。手に残るあの感触と血の匂いも、生々しい。
「やけにはっきりした夢なんだよな」
 目覚めると、いつも頭の中がぐちゃぐちゃだ、とも。
 竜馬は深く息を吐いた。
「そう、だよな。その……悪かった」
 聞いた弁慶はぱちぱちと目をしばたたかせる。
「あン? 何だよ、そのツラ[[rb:面 > ツラ]]」
 竜馬が不満そうに眉間に皺を寄せた。
「いや、お前に謝られると」
「あンだよ」
「雪でも降りそうだな」
「……うるせえな」
 唇を突き出す。弁慶の顔がゆるむ。
「まぁ、珍しいお前が見られたんだ。くじ付きアイスでも買ったら当たりが出るかもな。『もう一個!』ってな」
「そしたらアイス、俺にくれよな」
「当たったらな」
 互いに小さく笑った。

 

 ベッドに横たわり弁慶の話を反芻する。
 死んだ人間の夢を見ることは不自然ではない。むしろ印象深い出来事なら、鮮やかに繰り返し現れる。記憶の整理過程か、感傷的な精神状態だったのかもしれない。
 もしかしたら大雪山での惨劇を目の当たりにしていたからこそ、見知った男の生きた姿をふと夢に見たのかもしれない。
 どうせなら、もっと楽しけりゃいいのに。たまの夢くらい——。
 あの夢から三日が過ぎていた。
 ——また、会いてえな。
 デジタル時計の日付をちらと見やり、竜馬は目蓋を閉じた。

   †   †   †

 達人とミチルが何か話している。
 竜馬は目を見張る。
 ミチルの表情は冗談かと思うほどに柔和で、年相応の明るさで彩られていた。冷静と言えば聞こえはいいが、感情を表に出さず冷淡とも取れる態度を知っている分、驚きだった。
「おう、竜馬」
 達人がこちらを向く。ミチルはすっと笑みを仕舞ったが、それでも見慣れた彼女よりはだいぶ可愛らしい雰囲気だった。
「すぐ終わる。待ってろ」
 ああ、と答える。何の約束をしたかは、知らない。
「覚えていない」ではなく「知らない」のだ。
 ——しゃあねえよな。
 夢なのだから、うだうだ考えていても仕方がない。常識も理屈も——現実の早乙女研究所にあるとも言い難いが——ここにはない。難しく思うことはない。ただ楽しめばいいと、眼前の「現実」を受け入れればいいのだと、竜馬は開き直っていた。
「待たせたな」
 達人が小走りで寄る。
「引き継ぎは終わりだ。さ、行こう」
 ミチルを見る。目が合うとその口が開いた。
「鬼が出たら、すぐに来なさいよ」
 聞き慣れた声だったが刺々しさは感じなかった。竜馬は「わあったよ」と返して達人の後に続いた。
「呼び出して、悪い」
 歩きながら達人が切り出す。
「ま、これから嫌でも毎日顔を合わせるんだ。今晩はお近づきのご挨拶ってことで」
 笑うと目がなくなる。上背もありいかつい印象なのに、人を和ませる笑顔だった。
 達人の部屋は居住棟ではなく、複数あるうちでも司令室に一番近い資料庫の奥にあった。格納庫とさほど離れていないが、人の気配も感じず、意外に静かだった。
「大抵のものは揃っている」
 ふと達人が悪戯っ子の企む目つきになる。人差し指で内緒、の仕種を取って壁際を示した。書棚の一番下の段がカフェカーテンで目隠しされている。めくると、日本酒やウイスキーの瓶が並んでいた。
「あっ、おめえ……!」
 思わず声をあげ、駆け寄る。
「内緒だぞ。特に、ミチルには」
 ウインクに竜馬は吹き出す。
「アンタ——面白れえな」
 心から、笑った。
 それから「特別だからな」と出された酒を少しずつ飲みながら話をした。達人がバイクに乗ると言えば、竜馬はツーリングに行こうぜと誘う。竜馬が掌底のコツを身振りして教えると、達人は立ち上がって真似をした。
「そういやアンタ、ずいぶんガタイがいいうえに動けるみてえだが、何かやってたのか」
 記憶の中の達人は散弾銃を手にし、鬼に対峙しても怯まず果敢に闘っていた。腕前も相当なものだった。
「ああ、それなりにな」
 学生時代に柔道やらボクシングやらの格闘技をかじった。研究所ここに入ってからは銃火器の扱いと近接格闘術を習った。
「せめて目の前の人間と、自分くらいは守れないとな」
 じっと竜馬を見つめた。竜馬はその視線を真正面から受けとめる。
 ——ゲッターと俺を、守ろうとした。
 あのとき、何よりも優先したのはゲッターロボと自分なのだろう。早乙女博士も言っていた。
 ——俺を。
 胸が詰まる。
 言葉の代わりに別の何かが込み上げてきそうで、慌てて話題を変えた。
「しっかし、アンタの部屋って、広いな」
 見回す。
 壁の一面はスチール製の大きな書棚に占められている。パソコンも複数台並べられており、しきりにグラフや数字の羅列が現れては流れていく。反対側にはシャワールームに洗面所、ひとりには十分な容量の冷蔵庫と食器棚、二口ガスコンロに小さいながらもシンクまである。
「倉庫を潰したんだ。ここなら司令室にも近い。作業しながらでも食えるから、簡単なキッチンも作った」
「料理、できンのか」
「あんまり手の込んだものは無理だが、炒飯とか焼きそばとかならな。……今度、何か作ってやろうか」
「そりゃいいや。ここで飲ンで、締めのラーメンとか最高じゃねえか」
「鬼が出なけりゃな」
「ハッ、違えねえや」
 笑いながら奥を見やる。小上がりになっており、クローゼットといつくかのトレーニング機器、ダブルベッドがあった。
「あのでけえベッド、いいな」
 自室を思い出して羨む。
「身体がデカいからな」
「あれなら、俺が一緒に寝ても大丈夫じゃねえか?」
 何気なく口にすると、達人が固まった。
「ン? どうかしたか」
「え、あ、ああ——いや」
「何だよ、奪らねえよ。酔っ払って部屋に帰ンのが面倒になったら、泊まってっても大丈夫かなって思ってよ」
「ああ、そう、だな」
「でもよぉ、いいなあ、でけえベッド」
 頬杖をついて眺めた。
「……そんなに寝たかったら、俺が夜番のときにでも使ってていいぞ」
 達人が苦笑した。
「いや、俺はそんなワガママじゃねえぞ。どっちかっていうと、あそこの酒のほうが欲しいかな」
 背後の書棚を指差す。
「ゲッターの正規パイロットには正直あんまり勧められないけどな」
 達人は「また来いよ」と続けて、相好を崩した。

 

 トマホークが一閃する。
「ッしゃオラァッ!」
 竜馬が吠える。鬼獣は真っ二つに斬られ、爆発した。
「博士、目標クリア」
 注意深く辺りに目を配り、隼人が指示を仰ぐ。博士の「うむ」という素っ気ない返事が戦闘終了の合図だった。
 ゲットマシンが帰還する。
「今日のヤツは、たいしたことなかったな」
 竜馬がヘルメットを脱ぐ。
「いつも、あんなふうに仕留められればいいのにな」
 弁慶の言葉に竜馬がニヤつく。
「何言ってンだよ。もちっと手応えがあるほうが燃えるだろ」
「鬼もゲッターも、お前の玩具じゃない」
 横から隼人の声が割って入る。瞬間、空気がひりつく。弁慶が少しだけ姿勢を低くして身構えたが、竜馬は隼人を睨みつけただけだった。
「ンなこたぁ、わあってるよ」
 それでも「ケッ」と吐き捨てるのは忘れなかった。
 暴れ足りないだろう竜馬がすんなり背を向けるのを、弁慶は不思議そうに見ていた。その気配に勘づいたのか、竜馬が振り向く。
「よう。この前はサンキューな」
 ニッと口の端を上げた。
「お、おう」
 応じてから、夢の話の礼だと気づいた。
「何のことだ」
 竜馬が去った後、隼人が訊ねる。弁慶は「ちょっとしたことさ」と返す。
「……あいつも、あいつなりに悩むこともあるんじゃねえのかな」
 穏やかな響きで呟いた。

   †   †   †

 不思議だった。
 現実世界を表とすれば、夢の中の世界は裏と呼べばいいのか。
 どちらにも鬼は湧いた。油断すればわらわらと研究所に侵入し所員を亡者の群れに取り込む。鬼が駆けて咆哮すれば鬼獣が空を割って出でる。ゲッターロボに乗り、それを殲滅する。悪夢と表す人もいようが、竜馬にとっては「日常」だった。
 達人の存在だけが「非日常」だった。
 だが人間は慣れる生き物だ。異質もすぐに当たり前のものに変わる。夢の中の逢瀬は繰り返されるたび、竜馬に現実の実感を与えるようになっていた。

 

 竜馬がカレンダーを見つめている。卓上サイズの厚紙には丸が不規則に並んでいた。
 達人に会った日付だった。
 初めからチェックしていたわけではない。三回目に夢の中でも時間が進んでいるのではないかと思い始め、五回目できっとそうなのだと確信した。細かいことにはまったく頓着しない竜馬には珍しく、規則性でもあるのかと考えたのだ。
 もっとも、達人に会えたささやかな記録としてのほうが目的としては大きかったのかもしれない。
 どちらにしても、まったく「らしく」ないと思う。何度も視線を行き来させ変わらぬ丸印の数を確認する自分に呆れる。
 ——これじゃ、まるで。
 逢引を飽かずに思い返す女と同じだ。
 こんな自分を知ったら、あのふたりはどんな顔をするだろうか。柄にもない、女々しいと笑うだろうか。
 もしも馬鹿にされても腹は立たないだろう。あの嬉しさを打ち壊せるものなどない。
 竜馬は小さく微笑み、そっとカレンダーをデスクに戻した。

   †   †   †

 警報が大音量で鳴り続ける。獰猛な唸り声と男女の悲鳴が入り混じり、長い通路に反響する。竜馬が研究室に駆け込むと、辺り一面が赤く染まっていた。濃い血の匂いにむせそうになる。
「ウギャオオゥッ」
 吠えて飛びかかってくる鬼を一蹴する。
「おいッ! 誰か生きてるヤツは——」
 助けを求める微かな声が聞こえた。
「どこだ、おい‼︎」
 やがて幾人かが揺らめいて立ち上がった。牙が覗く口からは涎が垂れ、爪が異常に伸びて額から角が突き出る。獣の雄叫びに空気が震えた。
「チッ」
 一番、嫌いな闘いだ。
 高揚感も爽快感も達成感もまるでない。ひたすら敗戦処理をさせられるような、味気なく惨めな気持ちになる。けれどもその心のままで殺してはいけないと竜馬なりに考えていた。
 鬼に噛まれた人間は、そこで死を迎える。突然、人間としての生を終え、今度は鬼と化してかつての同僚を襲うのだ。そして、殺される——もう一度。
 だから決めていた。
 絶対に躊躇しない。一撃で終わらせる。
 供養はしない。ゲッターロボを初めて操縦したときに覚悟した。
 すべてを引き受けて、地獄に向かってやると。
「これで……最後!」
 回し蹴りで鬼の頭を粉砕する。どう、と床に骸が転がる。もうこの部屋に動くモノの気配はない。
『竜馬! 鬼獣だ!』
 スピーカーから達人の声がした。竜馬は走り出す。
 だが、すぐに止まってしまった。
「……」
 ひとつの遺骸を見下ろす。血が染みた白衣の左胸に目が注がれていた。所員証の写真に見覚えがあった。その身体にはもう、頭部がない。
「……くそったれ」
 彼は現実世界ではまだ生きている。しかしこの世界ではたった今、死んでしまった。
 あちらでもこちらでも、望まない死が繰り返される。
「何回、死ねっていうンだよ」
 現実世界の彼も、近いうちに死ぬかもしれない。こちらの世界で死んだのに。
「——」
 気づいて息を呑む。
 ——達人。
 彼もすでに死んでいる。
「くそったれ……!」
 沸々と怒りが身体に満ちていく。強く握った拳が白く変わり、震える。
『竜馬ぁ‼︎』
 達人が呼ぶ。見回し、マイクを確認すると引っ掴んだ。
「Aブロックにいる! すぐ行く‼︎」
 振り返らず、部屋を後にした。
 一目散に駆け、素早くイーグル号に乗り込む。
「竜馬!」
 パイロットスーツ姿の達人がベアー号から呼びかけた。
「達人⁉︎」
「説明は後だ! 出るぞ!」
「……おうよ‼︎」
 驚きを押し込め、威勢よく応じた。
 ゲットマシンを発進させる。ジャガー号はオートパイロットモードだった。飛び出すなり散開し、敵を探す。
「いねえぞ!」
「地下か⁉︎」
『達人、竜馬! 上だ!』
 早乙女博士が伝える。
「上⁉︎」
 竜馬が仰ぎ見るのと、光弾が雨のごとく降り注ぐのと同時だった。
「おわっ!」
 翼に次々と着弾する。威力は大きくなく装甲を剥ぐほどではない。だが機体を揺さぶられスピードを削られ、バランスが取れなかった。
「クソッ!」
「竜馬! 速度を上げて地面に突っ込め!」
「何ッ⁉︎」
「いいから!」
「お、おう!」
 訳もわからず従う。
 加速する。
「!」
 飛礫つぶてを追い抜いた。
「そのまま、スレスレで機首を思いきり上げろ!」
「わあった‼︎」
 達人の意図を理解する。
「おりゃあぁッ!」
 地面に激突する寸前、操縦桿を引く。イーグル号の鼻先が天を向く。後ろにジャガー号とベアー号がぴたりとついた。
「竜馬! 今!」
「チェンジゲッタアァーッ1ッ‼︎」
 ゲットマシンが連なり、垂直上昇しながら合体した。
「ゲッターウイング!」
 翼を広げ、鬼獣と対峙する。頭部には六つの目があった。個々がギロギロと動き、周囲を確認している。
「うえぇ、気持ちわりぃヤツ」
 竜馬がボヤいた直後、光の弾が襲いかかってきた。
「トマホークを盾にしろ!」
「おうよ!」
 達人のサポートで攻撃をかわしながら懐に入り込む。
「ンなろおッ!」
 トマホークで斬りつける。しかし狙いを定めた面が瞬時に硬化し、刃を跳ね返した。
「なッ! こンちくしょうッ!」
 いくら繰り返しても同じだった。
「達人!」
 手を止めると攻撃を受ける。
「竜馬! 一度離れよう!」
「くっ、しゃあねえ!」
 鬼獣と距離を取った。空中で睨み合う。
「アイツ、何なンだ?」
 トマホークが効かない。
「竜馬」達人が口を開いた。
「確かめたいことがある。思いきり突っ込んでぶつかる直前に合体を解いて、全機でミサイル攻撃をしてみたい」
「……いいぜ」
 竜馬は頷く。
「いくぞ、達人」
「いつでも」
 聞くなり、全速にする。
 鬼獣が光の矢を次々に放つ。威力の弱い攻撃は、当たってもゲッターの質量と速度に負けて後方へ弾け飛んでいった。
「オープンゲット!」
 三機が散る。
「オラァッ!」
 縦横無尽に軌道を描き、全方位からミサイルを撃ち込む。鬼獣の様子が明らかにおかしかった。
「達人! 攻撃が当たる!」
 ミサイルを受けた箇所が遅れて硬化していた。加えて攻撃対象を絞れず、右往左往しているようだった。
「よしっ! 離れろ!」
 達人の指示で再び退がる。
「父さん」
 通信機の向こうで『ああ』と早乙女博士の声がした。
『あいつはどうも、目が発達しているようだな』
「目?」
 竜馬の疑問に達人が答える。
「お前の攻撃を見てから、どこを防御すればいいか判断しているんだ」
「ああ、それで」
 トマホークの軌道を読んで、当たる部分を硬化させていた。
「ただし、全身の硬化はできない。それと、攻撃が速すぎたり多すぎる場合は——」
「追っつかねえ」
「そういうことだ。竜馬」
「うン?」
「好きにやれ」
 竜馬が目を丸くする。
「得意だろう? そういうの」
 達人が白い歯を見せた。
「……いいのか」
 不敵な笑みが浮いてくる。
「もちろん」
 達人の声に迷いは感じられなかった。竜馬の闘争心に火がつく。
「ヘヘッ。ならいっちょ、ブチかましてやろうか」
「任せた」
「おうよ」
 ひとつ深呼吸をし、竜馬は鬼獣目掛けてイーグル号を突進させた。

 竜馬の剥き出しの闘争本能に鬼獣はなす術なく破れ去った。研究所に戻り、達人と向かい合う。
「達人、おめえ——」
「どうだった?」
 茫然としている竜馬に、達人が片眉を上げて訊く。
「……すげえ、やりやすかった」
「お、エースのお墨付きか」
 達人の顔がほころぶ。
「俺が思う通りに、できた」
 ——アイツらと、何が違う?
 どんな動きをしても抵抗がまったくなかった。ゲットマシンの状態でも、合体した状態でも、すべてが思いのままだった。右腕を、と思った瞬間に理想の位置にある。意識してゲッターロボを動かしているのとは違う。自分の肉体のように、自然に機体がそこに存在した。
「自分がゲッターになったみてえだった」
 初めての感覚だった。
「調整がドンピシャだったってことだな」
 達人が満足そうにゲットマシンを見上げた。
「ちょっとしたポイントがあるんだ」
 説明する。
「ひとつはオートパイロットを一機だけ——ジャガー号にしたこと」
 ゲットマシンは各々で加速力や運動性、安定性が異なる。自動追従の際はどうしても遅れが発生するので、その差は開く。イーグル号を操る竜馬の反射能力が常人離れしているのでなおさらだった。
 そのため空力性に優れたジャガー号をオートにし、加速力と運動性に一番差異のあるベアー号を有人にする。そのほうがより出力の制御や軌道の微妙な修正ができ、結果としてオートよりも遅れが出ず、全体のバランスが取れる。
「もうひとつは、パイロットが俺ってことだ」
 これまでの竜馬の闘いぶり、動きの癖をモニタリングしていて、大方は予測可能だった。だから息の合った操縦が可能になった。
「俺も、少しは操縦できるからな」
 謙遜したが、達人の観察力と技術があってこそだった。
「……へえ」
 正直、話の半分もわからなかった。だがゲッターの能力を発揮させるために様々な努力がなされていることは感じ取った。
「何つうか……ちゃんとしてンだな」
 竜馬の感想に達人が吹き出す。
「お前——ククッ、『ちゃんと』って何だよ」
 我慢できず、大きく口を開けて高らかに声をあげる。
「ハハハッ、ゲッターは、科学と技術の結晶だ。『ちゃんと』動くさ」
「何だよ、笑いすぎだぜ」
 竜馬がむっとする。その表情を見て達人はさらにくっくっと零す。
「おい、達人」
 睨んでも笑いは消えない。
「悪い、許せ」
「ちぇっ」
 竜馬は不服そうに唇を尖らせ横を向く。達人はようやく笑いを収めた。
「……なあ、竜馬」
 それから少しの沈黙があって、達人が呼びかけた。
「あンだよ」
 顔を向けると、達人がこちらを見つめていた。先ほどの朗らかさとは違う真摯な眼差しにどきりとする。
「ゲッター線はなあ……未知の部分が多すぎるんだ」
「それを使ってあんなモン動かしてるクセにか」
「ああ……本当だよなあ」
 達人が苦笑いする。
「だから、お前のように直感と根性——いや、負けん気かな——そういう、理屈じゃない力でねじ伏せて乗りこなすのも絶対に必要だ。それは、欲しいと思っても後からは手に入らない力だ」
「それって、何かバカにされてねえか……?」
 竜馬は首を傾げた。
「してない」
 達人が拳を作り、トン、と竜馬の胸を軽く突いた。
「男は、最後はツラとここだ」
「……」
「どんなに不利でも、負けそうでも、面と気持ちだけは勝ってないとな」
「……だな」
 まるで兄に諭されている心持ちになる。
「お前が来てくれて、本当によかった」
 微笑む。実のある響きだった。
 拳で触れられた胸の奥が熱くなる。
 ——早乙女、達人。
 不思議な男だった。明るくて、優しくて、強い。テレビのヒーローものの主人公はきっとこんな男なのだろう。
 改めて達人を見る。
 パイロットスーツは早乙女博士が着ていたものと同じデザインだった。ただ当然、こちらのほうががっしりとした体躯を浮かび上がらせている。腹回りも引き締まり、胸板も厚い。長身が見栄えして何とも様になっていた。
「……カッコいいな」
 思わず口にしていた。
「そりゃどうも」
 達人は目を細める。
「お前に褒められて、光栄だ」
「……本気で言ってンのか」
「ああ、もちろん」
「……」
「あのな、竜馬」
 達人がぽんぽんと竜馬の頭を軽く叩く。
「さっきの、ゲッターが思った通りに動くって話な」
「ああ」
「お前が俺に合わせてくれたんだ」
「え? けど、俺」
 自由に動いて、やりたいようにやっただけなのに。
 顔つきから疑問を読み取った達人が、今度は竜馬の頭をぐりぐりと撫でた。
「ちょ、たつ、ンなっ」
 鼓動が速くなる。
「お前が、俺を信じてくれていたから」
「——」
 一瞬、息が止まる。心臓すら止まったように感じた。
「独りよがりじゃなく、ちゃんと俺にも心が向いていたから自然と呼吸が合ったんだ。目で見てどうの、合わせようと考えてどうのってことじゃない。それじゃ反応が遅れる」
 確かに意識して合わせようとはしていなかった。けれども、達人が必ず後ろにいてくれるという安心感と、必ずついてきてくれるという確信があった。
 だから思いきりやれた。
 竜馬の心を汲んだように、達人は頷いた。
「乗る奴らが心を合わせないと、うまく動かせない。今はふたりだが、パイロット三人の心をしっかり合わせないと、ゲッターは本来の力を発揮できないのさ」
 早乙女博士も言っていた。達人の言葉で、その意味が腑に落ちる。
「俺と、達人の心が……」
 合わさって、あのゲッターの力となった。
 竜馬は人に気持ちを推測されるのは好きではない。「こうだろ?」と突き出されると、虫酸が走った。自分を理解してもらおうと思ったこともない。
 それなのに今、達人には反発するどころか。
 むしろ、嬉しい。
 幾度かのやりとりを思い返す。達人といると、自然と素直でいられた。
 ——あっちでも、いてくれりゃいいのに。
 今までも、これからも、きっと自分は「ひとり」なのだと思う。それを哀しむわけではない。誰かと馴れ合いたいわけでもない。ただ達人がいてくれたら、もっと自分らしくいられるのではないかと感じていた。
 現実世界に達人はいない。
 だが目の前にいる。
 ——まだ、達人は生きている・・・・・
 竜馬がゲッターを駆り鬼たちを殲滅し続けるのなら、達人の生命を守れるのではないか。
 運命は信じない。
 見えない誰かや何かに自分の行く道を決められるのはまっぴらだった。もし運命なんてものがあるのなら、それをぶち壊すのが自分のやり方だと思っていた。
 ならば、この世界が存在するのは?
 ——何だって、いいさ。
 覚悟の裏側にほんの少しだけくすぶっている思いからでも、得体の知れない何かの力によるものだとしても。
 ——達人を守れたら。
 これは、自分の意志だ。
 ほのかな決意が魂の奥で生まれ、揺らめく。
 上目遣いでそっと盗み見る。視線にすぐ気づいて、達人は笑った。
 竜馬は、屈託のない笑顔に見惚れた。

   †   †   †

 まばたきをすると、格納庫を歩いていた。
 ——ああ、また。
 夢の世界だ。
 顔を上げるとゲットマシンが目に入った。周囲の空気が揺らめいて見える。まだ熱を持っているのだ。整備士たちが点検を進める。機体が徐々に冷え、金属独特の収縮音を発する。所員もざわめいているが殺気立ってはいない。
 きっと、訓練の後なのだろう。
「竜馬」
 すっかり耳に馴染んだ声。立ち止まり、ゆっくり振り向く。期待通りの姿が現れた。
「さっきのテスト飛行だが」
 記録紙を繰りながら達人が近づいてきた。
「次は待機中の高度のまま、初速を——」
 竜馬はその手元を凝視する。
 甲には筋が浮き出て、ゴツゴツと骨ばった男らしい大きな手だった。爪の形が小さくて何とも可愛らしいのだが、指は長く、手のひらも不格好な厚みではない。全体的にバランスの取れた綺麗な手だった。
 何度かその手で頭を撫でられた。すると自分がまるで子供か、下手をすれば少女にでもなったかのような、心が浮き立つ不思議な感覚が生まれた。
 ——また、撫でて欲しいなんて。
 言ったら笑われる。しかしその後に撫でてくれるのだろう。早乙女達人はそういう心のある男なのだと知っていた。
 同時に、冷静で周りがよく見えていて指揮官としても優秀だった。失って、研究所の誰もがひどく落胆し、悼んだに違いない。
 ——達人が生きていれば。
 ここにいられたら守れるだろうか。
「だから、そのまま機体を垂直に」
 達人はその手をゲットマシンに見立てて説明を続けている。
 ——生きていれば……ジジイもミチルも喜ぶ。
 せめてこの世界では生きていて欲しいと心底思っている。達人を守れるのは、ゲッターに乗れる自分だということも理解していた。
 だが殺した張本人が何食わぬ顔をしてその立場についていいのか。
 ずっと繰り返している問いを、また投げる。
 当然、誰も答えてくれない。
「おい、聞いているのか」
 額を人差し指で小突かれた。
「あ……悪ぃ」
 あたふたと達人の手元と顔を交互に見る。達人は怒りはしなかった。
「いや、無理はするな。この次でいい。戻って休め」
 笑う。朗らかであるほどに、竜馬の胸が締めつけられる。
「疲れてるわけじゃねえ。ちっと、考え事してたンだ。だから」
「晩飯のことでも考えていたのか」
 達人がおどける。つられて、竜馬も小さく笑った。
「……まァ、そんなモンだな」
「うーん」
 達人が顎に手を当てて唸る。
「前に約束したし、晩飯に炒飯でもどうだ? 作ってやるよ」
 ——覚えてた。
 ふ、と心が軽くなる。たった今、つらかったはずなのに。
「まあ、凝ったものは無理だからな。味つけは塩こしょうか醤油か、あとはキムチの素くらいか?」
「何でも食うぜ。……どうせなら、ビールつきで」
 最後は小声で伝える。
「あー、うん。……まあ、ふたりで缶一本くらいなら、な」
 ちょっと困ったように、それでも嬉しそうに、達人は表情を崩した。

 

 料理を作る背中は見ていて楽しい。いろんな音を奏でて、くるくると踊っているようだ。竜馬はテーブルに頬杖をつき、エプロン姿の達人を眺める。薄桃色のエプロンは、いかつい達人にはミスマッチと思いきや妙に似合っていた。
 食堂でばったり会ったときは「毎回自炊じゃない、たまにだ」と言っていた。ところがなかなかどうして、手際もいいし、フライパンを動かす手つきも堂に入っている。
 覗き見ようと竜馬が席を立つ。
「達人ぉ、そろそろできたか」
「おう、もう少し」
 米がぱらぱらにほぐれて、見た目にも店で出されるような炒飯だった。竜馬は「へええ」と感嘆の声をあげた。
 行きつけの中華屋を思い出す。あのオヤジが作る炒飯もこんなだったな、と懐かしい。肉の脂とごま油が混ざり、香ばしく鼻奥をくすぐる。
「アンタ、器用だな」
「だろ」
 達人はふふ、と笑う。竜馬より年上のはずなのに、清しさは少年のようだった。整ったラインを描く横顔に視線が吸い寄せられる。
 精悍で真面目、なのに茶目っ気もある。いつも誰かに頼られて走り回っている。所員を理不尽に怒鳴りつけるような場面も、不機嫌な顔も見たことがない。達人の悪口を言う人にも遭遇したことはない。
 とにかく人好きのするいい男だった。
 いったい、いくつの面を持っているのか。目に映るどれもが竜馬を惹きつけた。
「さ、いっちょあがり!」
 景気のいい声で我に返る。山盛りの炒飯が並んで湯気を立てていた。ネギの青さがいいアクセントになっている。
「俺は仮眠の後、ちょっと出ないといけないからな。約束通り、ビールは半分ずつだぞ」
「わあってるって」
 顔が自然にニヤつく。酒よりも、達人と時間を共有できるのが嬉しかった。
「っただきまーす」
 達人に倣ってきっちり合掌をする。底からすくったスプーンいっぱいの炒飯を勢いよく頬張り、
「あっふ!」
 熱さに悶える。
「おい、竜馬」
 ふが、と米の隙間から息を吐く。
「ふぁー……あっひぃ」
「……子供かよ」
 苦笑混じりに達人がコップを差し出した。
「ッ、ゔあーっ! ……熱かった」
 水で炒飯を押し流して、一息つく。
「危ねえ。貴重なビールで飲み込むとこだったぜ」
「そこかよ」
「んあ、上の顎ンとこ、ヤケドしたかも」
「がっつくからだろ」
「だって旨そうだったしよぉ」
 実際、旨かった。鶏ガラの素と塩こしょうのシンプルな味つけだったが、生姜のみじん切りが効いていた。
「また、食いてえ」
 ぺろりと平らげ、竜馬がねだる。
「ああ。また、今度な」
 達人は、くしゃりとした笑顔。それこそ五歳児のような無邪気さが溢れる。
 きっと、料理を褒められて嬉しいのだ。
 ——自分だって、子供みてえじゃねえかよ。
 余韻を噛みしめながら、心の中で言った。

「……食い物は卑怯だろ」
 ぽっかり目を開けて天井に文句を吐いた。
 はっきり覚えている。温かさと塩気と旨味。あんなにたらふく食べたのに、現実世界では空っぽの胃が鳴いている。
 舌で上顎の粘膜を触ってみる。当然、爛れはない。
「夢だもンな」
 ——けど、よかった。
 達人が嬉しそうで、倖せそうで。
 ——やっぱり、守りてえ。
 決意とともに、心が満ちていくのがわかる。
「……うし、今日は炒飯食うぞ」
 決めて、ベッドを抜け出した。

 

 二 章   萌 芽

 二重生活自体はすぐに慣れた。することは変わらない。起きて、訓練をして、寝る。毎日ではなくとも鬼と闘う。その合間に達人と会う。隼人と弁慶の代わりに達人の笑顔を見るのは楽しかった。
 夢の世界はリアルすぎて、寝ても覚めてもずっと起きている感覚だった。けれども余分に疲れはしなかった。
 やはり夢なのだ、と思う。
 夢の世界は現実と同じく「未来」に向かって流れていた。ただ、地続きではなかった。来るたびに時間が飛んでいた。夢を見ない夜もあったが、その分だけ間が空いているわけでもない。何日も経っていて混乱することもあった。
 さらに困惑したのは現実に戻されるタイミングだった。ふと振り向いたとき、通路を曲がったとき、イーグル号に乗り込むとき——。予感もさせず、まるでテレビのチャンネルを切り替えるような軽さでぷつりと途切れる。目蓋を開ければ元の世界の朝だった。
 次の訪いはいつかわからない。
 このことは竜馬の胸に期待だけではなく、不安の種をも植えつけた。ますます達人の傍にいて、できる限り時間を共有しようと思わせた。
 竜馬の目と心は常に達人を探すようになっていた。

   †   †   †

 達人はよく働く。
「なあ、今日って非番なンだろ?」
 逆向きに椅子に座り、背もたれに顎を乗せながら竜馬が問う。訪ねてからずっと、達人はデスクにかじりついている。今は何かの発注書をチェックしていた。
「非番って、仕事する日なのかよ」
「違うはずなんだけどな」
 達人が苦笑し、覗き込む竜馬の頭を左手で撫でた。
「意外とな、やることが多いんだ。機器類の導入や修理の手配もだし、どこの部署にどういう人間が何人必要か考えたり、な」
「そんなことまでしてンのかよ」
「さすがに細かいところはそれぞれの現場に任せてるけどな、ある程度まで予算も含めてわかっている人間ってなるとな」
 軽く溜息をつく。
「……ジジイはそんな面倒なこと、しなさそうだしな」
「ご名答」
 達人がペンを指揮棒よろしく振った。自然、雑務や面倒事は達人とミチルに降りかかる。
「悪いな、もうちょっと遊んでろ」
「ああ」
 悪いも何もない。押しかけてきたのは竜馬で、約束はしていない。ただ達人の傍にいたかっただけなのだ。それなのに嫌な顔もせず、追い返しもしない。
 優しく「悪いな」など、竜馬の周りで言う人間はひとりもいなかった。
 竜馬はデスクから少し離れ、達人を眺める。
 今までの人間とまったく違うタイプだ。
 隼人は何でも知りたがり、理由をつけたがる。竜馬の行動を縛りたがる。いつも自分が一番世の中のことをわかっているふうな顔と物言いをして、ひどく癇に障る。
 弁慶は隼人よりは気安い。だがすぐにああだこうだと噛みついて殴りかかってくる。体格と腕力は確かに突出しているが、スタミナや格闘センスにおいては竜馬を凌ぐものではない。喧嘩自体は楽しいが、そうそうつきあってもいられない。
 それに比べて達人は——。
 考える時間すらも心地よかった。
「よし」達人が書類をまとめてファイルに綴じる。
「終わったぞ」
 横を向き、くすりとする。
「何だ、目ぇ開けて寝てんのか」
 ぼんやりと半目でゆらゆらしている竜馬の鼻をつまんだ。
「んが。……寝てねえよ。ちっと考え事してたら、眠くなっただけだ」
「それ、ほぼ寝てるから」
 くしゃくしゃと竜馬の髪の毛をいじる。
「へへ」
 竜馬はくすぐったそうに笑った。
 そうして、達人との「日常」は続いていく。いろんな瞬間が重ねられ、竜馬の脳裏に刻まれる達人の姿も増えていった。
「なあ、ほかのパイロット候補は見つかンねえのかよ」
 あるとき、訊ねてみた。
 早く隼人と弁慶がここに来れば、達人はゲッターロボのパイロットとしての役目を負わずに済む。それは達人が死の前線から一歩でも遠ざかることのように思えた。
「お前みたいな男がそう転がっているもんか」
 達人はからからと笑う。
「当然、探してはいる。新型のゲッターは俺じゃとても乗りこなせないしな」
「そんなことねえだろ」
 ふたりで何度か出撃した。息は合っている。それに、危険を感じたことはなかった。うまくやれていると思う。
「俺は狩猟用の麻酔を打たれたら死んじまうよ。それに」
「?」
「今、無事でいるのはお前が頑張っているからだ」
「……」
「お前はゲッターに合っている。いや……ゲッターがお前に合っているのかもな」
「……俺が?」
「ああ。俺は普通の人間だ。お前がうまくリードしてくれているから、俺は生きている」
「そんな」
「いや、本当さ」
 達人は大きな右手で竜馬の頭をぽんぽんとする。
「なあ」
 竜馬が上目遣いで見る。
「うん?」
「……こんな人生を恨ンだことはねえのか?」
 達人はすっと真顔になる。だがそれも一瞬で、すぐにいつもの朗らかさが溢れた。
「忘れた」
 言って、竜馬の頭を撫でた。

   †   †   †

 珍しく「三時のおやつ」に誘われた。達人の部屋へ向かう。
 ——まるで何とかホイホイじゃねえか。
 食べ物に釣られているのか。
 それとも。
「おう、来たか」
 笑顔の達人を見るとほっとする。炒飯のときと同様に、エプロン姿だった。
「何だよ、おやつって。クッキーとかケーキとかか?」
「あー、そんな大層なものじゃないんだが」
 言い方をマズったかな、と達人が頬をかく。
「まあ、甘いものには違いないんだけどな」困ったように眉を下げた。
「何でもいいぜ。せっかく人が作ってくれるっていうンだ。出されたモンは全部食うぜ」
 竜馬の言葉に達人の顔がゆるむ。
「ん! それでこそ男だ」
「何だよ、それ」
 くすくすと笑いが漏れた。
「すぐにできるから、茶でも飲んで待ってろ」
 達人が冷蔵庫から烏龍茶のペットボトルを取り出した。
 大きな背中を眺めつつ二杯目の烏龍茶を注いだ頃、甘い香りが漂ってきた。
「へえ」
 竜馬の鼻がひくつく。
「珍しいンじゃねえの」
「そうかな?」
「俺は食ったことねえな」
「……家それぞれだからな」
 どちらの家庭も「一般的」とは言い難い。互いにどこまで踏み込んでいいものか、恐る恐る探るような沈黙が下りた。
 フライパンから卵に熱が通るふつふつとした微かな音が聞こえる。
「……ミチルがな」
 やがて達人が口を開いた。
「この玉子焼き、好きなんだ」
「……へえ」
「親が忙しいときは、代わりに俺が飯を作ってたんだ。玉子焼きはよくせがまれた。これはいつものやつにハチミツとバニラオイルを足すんだ。もっとおやつっぽくなる。あいつ、端っこが好きなんだよな」
「ああ、何か、わかる」
 かまぼこやナルト、焼豚の端を思い浮かべた。妙に特別感がある気がする。言うと、
「子供って、確かに端っこが好きだよな」
 達人も同意する。
「たまに砂糖を入れすぎたりもしてな。……それでも食べてくれた」
 竜馬は黙って耳を貸す。
「まあ、そのうち自分で作るようになったし、研究所ここなら食堂もあるからな。もう何年もこの玉子焼きは作ってやっていない」
「同じ建物にいるンだから、持ってってやりゃあいいじゃねえか」
「玉子焼きだけか」
 想像したのか、達人が小さく笑う。
「仲悪ぃわけじゃねえだろ」
「まあな」
 丸めた玉子焼きをまな板に移し、切っていく。
「ただ、父さんにはなあ」
 こちらのミチルも早乙女博士に対しては冷たい態度だった。
「わからんでもないんだ。俺も父さんも、いつ死んでもおかしくないからな」
「……」
「因果だよなあ」
 寂しそうに溜息をつく。だがすぐに「おっと」とおどけた声に変わる。
「せっかく来てくれたのに、湿っぽい話じゃつまらんよな」
「——そんな」
 達人が話してくれるなら何でもでもよかった。子供の頃に好きだった遊び。なりたかった職業。今日の昼に食べたものや、うっかり白衣を乾燥機に入れてしまって縮んだり——そんな些細なことでも構わなかった。
「できたぞ」
 白い皿に、鮮やかな黄色が並んでいた。
 どんな料理でも出来立ては素晴らしく旨そうだ。達人の手作りとあればなおさらに。若干の焦げ目はご愛嬌だった。
「久しぶりすぎて、加減を忘れた」
 達人は頭をかいたが、竜馬はまったく気にしない。
「手作り料理っぽくていいじゃねえか」
 にかにかとご機嫌な笑みで箸を伸ばした。達人がじっと玉子焼きの行方を追い、次いで竜馬の顔を見つめる。
「あっ、うめえ!」
 ぱあっと竜馬の表情が輝く。
 バターがほのかに香るほっくりとした玉子焼きは、まさに格別だった。
「すっげえうめえ!」
 ばくばくと食べる。
「お、おい」
「……あ、悪ぃ」
 あっという間に残り一切れとなっていた。達人が吹き出す。
「いいよ、全部食え。そのつもりで作ったんだ」
「あー……ン、じゃあ、半分な」
「いいのか」
「ああ」
 最後の一切れを半分に割り、箸で挿して達人の口元に持っていく。
「挿すのは行儀が悪いぞ」
「細けえこと言うなよ。ほい」
「あー」
 達人が口を開けて、玉子焼きを受け入れる。
 ——何か、これって。
 胸の中がむずむずする。
 達人とふたりきりの時間は竜馬を困惑させる。気負わずありのままでいられるのに、初めての感覚が湧いて心を揺らす。
 不安や哀しみなどの負の感情とは違う。温かく、くすぐったくて、居心地が悪いのはきっと慣れないせいで、決して嫌なものではない。
 ——達人のせいだ。
 人の傍らに立ち、コミュニケーションを取ろうとし、周囲を気にするようになったのも。
 達人が相手なら、自然にできる。
 それが竜馬にとっていいことなのかはわからない。自分が徐々に変わりゆくことに戸惑いはある。けれどももう少し、流されてもいいと感じていた。

 

 甘い玉子焼きの夢を見てから三日後。無性にまた食べたくなり、竜馬は食堂に向かった。
 席を探していたミチルが竜馬に気づく。
「よお」
 竜馬はミチルの視線の行き先がわかって声をかけた。
「食うか?」
「玉子焼き、だけ?」
「おやつだ、おやつ」
 竜馬は箸を挿して一切れ持ち上げる。
「おばちゃんに頼ンでな、砂糖たっぷりの甘え玉子焼き作ってもらった」
 わずかにミチルの片眉が上がる。
「おばちゃん、『うちの子も小さいとき大好きだったのよー』って喜ンで作ってくれたぜ」
「……そう」
「ひとつくれえなら、やるよ」
 皿を差し出す。
「…………」
 ミチルは逡巡しているようだった。何事にもはっきりとした態度を示す彼女が迷っているなら、個の部分でのことなのだろう。
「……じゃあ、いただくわ」
 やがてミチルはテーブルにトレイを置き、竜馬が手をつけた側と反対の一番端の玉子焼きを自分の皿に取った。
「ありがとう」
「おう」
 竜馬はぱくりと玉子焼きを口に入れる。味はまったく同じとはいかなかったが、それでも十分においしかった。
 ミチルは取り分けた玉子焼きを見つめている。
 ——達人、どうしたかな。
 向こうのミチルは、甘い玉子焼きにありつけただろうか。
 ——あんな兄貴がいたら、な。
 自慢の兄に違いない。しかし、失うことを思うと簡単に羨みもできなかった。
 ミチルを見上げる。
 静かな瞳。その心中は窺い知れなかった。
 食堂からの帰り道、部屋とは逆方向に曲がる。ぶらぶらと歩きドックに出る。修理中の機体はなく、閑散としていた。
 竜馬はきょろきょろと辺りを見回す。咎める人がないのを確認し、壁のハッチに近づく。ハンドルを回して口を開くと中に滑り込んだ。
 五分後。ドック最上部、巨大な可動式クレーンの上に竜馬の姿があった。
「おわっ、マジですっげえ眺めだな」
 吹き上げる風に髪が逆立つ。
 達人が教えてくれた。
「クレーンの上に出られるメンテナンス用の通路があるんだ。あそこからの眺め、なかなかだぞ」
 下を覗き込む。
 各階層にゴンドラが出番を控えて待機している。極太のケーブルが束ねられてあちこち這い回っているが、何がどこに繋がっているのかさっぱりわからなかった。名前も機能も知らない機械がたくさん並んでいる。ずっと下、基底部では米粒の大きさとなった作業員が数人。
 ここにゲッターロボが立ったらさぞかし壮観だろう。
「……これを見てたンだ」
 隣にいなくても、達人と同じ光景を見られて嬉しかった。
 時間があれば達人の軌跡をひとりでなぞる。誰にも、何の意味もない行動だった。だが竜馬にとってはひとつひとつが特別な思い出となった。

   †   †   †

 ミチルの研究室を訪ねる。
「なあ、訊きてえことがあンだけど」
 ミチルが怪訝そうに首を傾げた。
「あら、珍客到来とはこのことね。今日は槍でも降るのかしら」
 前半の意味はわからなかったが、後半の物言いで何となく察する。
「そういうときもあンだよ。いいだろ」
「ダメって言ってないでしょ。何よ」
研究所ここにいるのと、ゲッターに乗ってンのと、どっちが安全だ?」
「え——」
 思わぬ問いに声が漏れた。
「どっちが、死にやすい?」
「どっちって」
 竜馬の顔つきは真剣そのものだった。ミチルは戸惑う。
「父にじゃなくて、何で私に」
「あのジジイが答えると思うか?」
 そんなことを知って何になる、そう返ってくるだろう。あるいは、勝てばいい話だ、とでも。確かにミチルに訊ねるほうが賢明だった。
「それもそうね」
 納得する。
「危険度でいったら、パイロットよ。鬼獣と闘うんだもの、当然よ」
「なら」
「でも」鋭い目つき。
研究所ここにいたって死ぬときは死ぬわよ」
「……」
「バリアがあっても地中からの揺れは防げない。天井が落ちてきたり床が崩れたりすることもある。大きな機械の下敷きになったら死ぬし、バリアが消滅して鬼獣の攻撃でも受けたら、それこそ研究所ごと吹き飛んで終わりよ」
「……どっちも同じってことか?」
「ある意味、ゲッターに乗ってるほうがまだ安全よ」
「え」
「そもそも鬼相手に、私たちが何かできると思う? 銃が撃てたって、頭を吹き飛ばすなんて芸当が簡単にできると思う? 跳ね回っているものを、何匹も」
「……」
「素手で鬼を殺せるあなたたちと違うのよ。それなら、シェルター代わりにゲッターに閉じこもるほうが安全よ。生身で爆発に巻き込まれるのと、特殊装甲のゲッターの中と、どちらが安全かわかるでしょう?」
「…………」
「パイロットのほうが——まあ、あなたたちだから余計に、生き延びる確率は高いわ。ただ、何かあれば死亡率は百%でしょうけど」
「……そうかよ」
「これでいいかしら」
「ああ」
 十分だった。
 ゲッターに乗っても降りても、鬼と闘い続ける限りは死と隣り合わせだった。
「だから、私たちはゲッターとあなたたちの力を借りるしかないの」
「わあってるよ」
 ミチルは竜馬をじっと見つめた。
「……何だよ」
 心なしか視線が非難めいたものに思えて、居心地の悪さを感じた。
 深い息をひとつ吐き、ミチルは「何でもないわ」と首を横に振る。その後で俯いて、
「……ゲッターロボなんて……造るから」
 小さく呟いた。
「————」
 確かにそう聞こえた。
 ミチルの唇がきゅっと噛まれる。
「…………悪かったな」
 竜馬もミチルにだけ届くように言った。
「じゃあな」
 部屋を出る間際、振り向くとまだミチルは俯き佇んでいた。
 晴れない気持ちのまま自室に戻り、ベッドに身を投げ出す。我知らず溜息が押し出された。
 デスク上のカレンダーに目を向ける。毎晩ではないが達人に会えるのが当然のようになっていて、いつしか印をつけるのも忘れていた。
「……あっちにずっと……いられねえのかな」
 そうすれば、次はいつ会えるのかと気にする必要はなくなる。
 どうすればいいのだろうか。
 現実世界で死ねば、永遠に向こうにいられるだろうか。だが竜馬が見ている夢なのだから、生きているからこそではないか。死んだら二度と会えないのではないか。
 ——俺が死ンだら。
 目を閉じる。
『先に地獄で待っていやがれ』
 そう、約束した。
 自分が死んで地獄に堕ちても、きっと地獄も広い。そうそう簡単に再会できないだろう。それに達人が地獄にいるとは限らない。
 ——あんなにいい男が地獄になンて堕ちるかよ。
 向こうの時間は流れている。まだ隼人と弁慶は見つからない。
 もし存在していなかったら。
 また、溜息が零れた。
 達人はゲッターロボで出撃を続けるだろう。今はまだやれている。しかしもっと強い敵が現れたら、ふたり——場合によってはひとり——で対処できるのか。
 本来ならば三人、必要なのに。
 正直、達人が隼人や弁慶と渡り合えるとは思えない。達人も十分に強いが、あのふたりは規格外だ。向こうの世界に彼らがいないのだとしたら、それは決定的な痛手ではないのか。
 ——いや。
「……いなくったって、関係ねえよ」
 ——達人は、俺が守る。
 決めたことは覆さない。
「……俺が、守る」
 枕に顔をうずめた。

 

「無闇に突っ込むな! もっとよく見ろ!」
 隼人の鋭い声が飛ぶ。
「竜馬ぁ! いい加減にしろ!」
 弁慶が吠える。
「うるっせえ‼︎」
 ふたりを上回る声量で竜馬は一蹴する。ミチルの作戦も無視し、独断でトマホークを手にした。
「竜馬! トマホークは——」
 隼人が制止する。だが全部を言わせず鬼獣の胴体にトマホークを叩きつけた。鬼獣は身体を分断され——二体になった。
「な……!」
 驚愕に動きが止まる。二体の鬼獣はその隙を逃さずゲッター1に組みついてきた。
「クソッ! この野郎!」
 上体に張りついた一体を引き剥がそうとするが、離れない。やがてその背中が割れ、中から八本の爪が伸びてゲッターを絡め取った。脚に取りついた一体も同様だった。
 蜘蛛に捕らわれた憐れな獲物のように、ゲッター1は身をよじる。
「取れねえ!」
「竜馬! オープンゲットだ!」
 隼人の指示に逡巡する。
「……クソッ!」
 だがほかに思いつかない。そのとき、鬼獣の胴体が濃いオレンジ色に染まった。
 ——やべえ!
「オープンゲット‼︎」
 鬼獣が自爆する寸前、合体を解いて抱擁を逃れた。
「あっぶねえ」
 ひゅう、と息を吐く。すぐに弁慶の怒号がコックピット内に響いた。
「お前が勝手に攻撃するからだろうが!」
「うるせえな! 無事に終わったンだからいいだろうがよ!」
「無事だとぉ⁉︎ やられそうになっておいてよく言うぜ!」
「黙れ! てめえは何もしてねえだろ! 念仏唱えてただけだろうが!」
「何だとぉ⁉︎」
 格納庫に戻るまで通信機を介しての言い合いは続いた。
「流君」
 戻るなり、普段よりも冷徹な光を放つ双眸でミチルが出迎える。
「指示を無視するのはやめてくれないかしら」
 あからさまに刺を含んだ声音だった。
「そろそろ、三人で力を合わせるってことを覚えてくれないかしら」
 竜馬はミチルをまっすぐに見て言い放つ。
「ひとりでも勝てりゃ問題ねえだろ」
「え?」
「三人揃わなくてもよ、ひとりの力でも勝てりゃいいだろうがよ」
 がりがりと頭をかく。
「あなた、何言って——」
「なあ、ミチル。そのつり目、何とかしろよ」
「……は?」
「まともにしてりゃ、もうちっと可愛げもあンのによ」ニヤリとした。
「——」
 ミチルが絶句する。
「おい、竜馬! お前、何てこと」
 弁慶は焦ったようにミチルの顔色を見、竜馬を睨む。
「本当のことだぜ」
 くっくっ、と竜馬は肩で笑い、その場を離れる。
 夢の中のミチルはもう少し柔和で、素直な女だった。達人といられて楽しそうだった。
 それが、いつしか——。
「…………ま、無理もねえ、か」
 竜馬の口から呟きが落ちた。
 誰にも聞こえない。
 ただ隼人の視線だけは、竜馬の唇が何事かを紡いだ様を捉えていた。

   †   †   †

「達人ぉー」
 勝手知ったる何とやら。インターホンを使わず、じかにパスコードを入力して扉のロックを解除する。
「あれ、いねえのか」
 今日は非番だったはずだ。だがスケジュール通りにいかないのはいつものことだ。
「何だよ、つまンねえ」
 いない人間に向かって言う。
「……」
 文句をつけられるだけ、倖せだ。
 ——今の俺は。
 達人と一緒にいられる。
 奥に進み、靴を脱いで小上がりのスペースに入る。特に達人のプライベートエリアだった。ベッドの右サイド、下半分側に座る。ふたりで並んで話すときはここが竜馬の定位置で、枕側が達人の場所だった。
 部屋を見回す。
 いつ来ても整理整頓されている。竜馬なら持て余すほどの広さで、ひとりでいると心許ない空間だった。
 達人はひとりのときは何を思うのだろうか。
 関係は多少複雑だが、家族もいる。大勢の人に慕われてもいる。己の仕事——使命——に情熱を傾け、正義のために身を挺して闘う。きっと大事な仲間を何度も彼岸へ見送って、それでもあんなふうに笑って。
 頼もしい背中を思い浮かべる。竜馬とは何もかもが正反対だった。それなのに——だからなのか、惹かれていた。
 重心を左に寄せていき、ぽすりとベッドに身を横たえる。
「早く帰ってこねえかな」
 目線は扉に注がれたまま。
 飼い主の帰宅を待ちわびる犬はこんな気持ちなんだろうかと考える。早く顔を見て、安心したい。
 ——また、頭を撫でて欲しい。
 もう、達人の存在が当たり前になっていた。
 待ちきれず、ベッドに上がり込む。
 達人の匂いがした。
 ——達人。
 ここに生きているのだと実感する。
 シーツに残る香りを思いきり吸い込む。甘く感じる。胸がいっぱいになり、頭がぼうっとしてくる。
「あー……俺ってヘンタイ、かも」
 達人の匂いに包まれると、倖せな気持ちになった。心がゆるみ、身体がふわふわと浮くようだった。
 ——このまま、溺れたい。
 まるで達人に抱きしめられている気がする。
 目を伏せると、ゆっくりと眠りに落ちていった。

 

 気配がする。
 殺気ではない。だからまだ、まどろみに身を委ねる。
 柔らかいものが、そっと頬に触れる。
 ——?
 次に、唇に。
 ——何だ?
 確かめようと唇をわずかに動かすと、気配が消えた。
「……あ?」
 頭がぼんやりとしている。
 ——ああ、達人の部屋で……。
 目を開けると達人がこちらを覗き込んでいた。
「たつ」
 あまりの近さに一気に眠気が覚める。
「たつひ——」
 飛び起きて、額をぶつける。
「だっ——‼︎ りょう……まぁ」
 至近距離で下からヘッドバットを食らい、達人が思いきり仰け反った。
「————ッ‼︎」
 額を押さえて悶絶する。
「えっ⁉︎ あっ、悪ぃ……!」
「んなっ、くっそ!」
「おい、どっか切れてねえか⁉︎」
 慌てて達人の手をどけて見ようとして、不意に抱きつかれた。
「たつ——」
「竜馬ぁ、こんの……石頭っ」
「おわっ!」
 押し倒される。
「うらっ」
 身体をひょいと裏返しにされ、左脚を取られる。達人の両脚が巻きつけられ、固定されたのがわかった。
「うおっ、ちょっ、ちょっ、タンマッ!」
「だぁめぇだ……ぞ!」
 腕で足首をロックされ、爪先をねじられる。
「あだだだだ‼︎ おいっ! うおっ‼︎」
「ギブか?」
「んんッ! うぅ、くそっ」
「ほれ」
 また少し、力を加えねじられる。
「——!」
 たまらず竜馬はベッドをタップした。
「まいった! だから、おい!」
 じたじたともがく。
「達人ぉ!」
「……ようし」
 たっぷり五秒はそのままにしてから達人は技を解いた。
「お、おめえ……!」
 竜馬は真っ赤な顔で達人の下から這い出す。
「こんの……ッ」
 すぐさま飛びかかり、反撃に移る。
「やりやがったな!」
「お前が頭突きしたんだろうが!」
「折れるかと思ったじゃねえか!」
「お前がそんなヤワなわけないだろ!」
 子供のようにギャイギャイと喚き合いながら手をはたき、互いに襟元を狙う。そのうち、馬乗りになった竜馬がバランスを崩した。
「うわっ」
「お……っと」
 その胸に倒れ込む。達人は大きな手で竜馬を抱きとめた。
「————」
 すぐに身体を起こそうとするが、背中に回された手にぐいと力が込められて密着する。
「……ッ」
 頬から、胸から、背中から、達人の体温が侵食してくる。
「た、達人」
「うん?」
「……放せ……よ」
「だぁめ」
 甘えるように耳元でささやかれ、ぎゅ、とさらに抱きしめられる。
「……!」
 くらくらした。
 達人の匂いが全身にまとわりつく。シーツの残り香など比較にならない。
「自由にしたらお前、関節技とか寝技かけてくるだろう?」
「か、かけねえよ」
 声が上擦る。心拍数が尋常ではないほどに上がっていた。
「ほんとか」
 こくこくと頷く。
「じゃあ、放すぞ」
 解放される瞬間、首筋に達人の唇が触れた気がした。
「……ッッ‼︎」
 がば、と勢いよく上体を起こす。心臓が破裂しそうだった。達人の腹に置いた指先が細かく震えている。
 達人は下から微笑んだ。
「お前、結構抱き心地いいな」
「ばっ……!」
 バカじゃねえの。
 そう笑い飛ばせばいいだけの他愛のない冗談だ。
 なのに、うまくあしらえない。
「うん? どうした?」
 達人に跨ったまま、何も言えない。
「竜馬?」
 達人の手が竜馬の腿にかけられた。ようやく、
「ばぁーか!」
 金縛りが解けたように叫んで、べえ、と舌を出した。
 達人が破顔する——本当に楽しそうに。
 その笑顔に目を奪われる。
 胸が苦しい。
「……ッ」
 なぜか泣きたくなる衝動に駆られ、竜馬は反射的にきゅっと目を瞑った。
 ——達人……。
 そろそろと目蓋を開ける。
 だが達人の姿はなかった。
「え——」
 灰色が視界いっぱいに飛び込んできた。
「…………あ」
 茫然とする。
「ゆ、め」
 鼓動が跳ね回っている。まだ達人の匂いが鮮明に鼻腔の奥に残っていた。
「夢…………」
 ——あんな。
 たかがプロレスごっこだ。
 ——達人の。
 たくましい腕と胸を、初めて感じた。
 自分の息が熱い。
「……!」
 下腹部の違和感にぎくりとする。
 わかる。
 布の内側で硬くなっている。
「……おい」
 両手で顔を覆う。
 ——マジかよ。
 達人と触れ合ったからか。
「——いやっ、違う!」
 飛び起きる。
 健康な二十歳の男だから。
「朝はこういうモンだろがぁ!」
「くっそ! フツーだ、フツー!」
「っつうか、昨日も勃ってたっつうの!」
 聞く人もないのに、言い訳を繰り返した。
 それから一時間後。
 訓練のためにスフィアに乗り込もうとして気配に振り向く。弁慶がすす、と近寄り、後ろから右腕を首に回してきた。
「あにすンだよ」
 竜馬がぎろりと睨む。だが弁慶は「へへ」とニヤついている。その大きな鼻がひくりと膨らんだ。
「俺は鼻がいいんだ」
「はぁ?」
「お前も朝から元気だよな。……ま、俺も人のことは言えねえけどよ」
「ワケわっかンねえ。放しやがれ」
 弁慶が小声で訊く。
「何回抜いた? 今度、いい無修正の動画サイト教えてやるよ。何なら秘蔵のお宝ビデオ、貸してやろうか」
「——」
 竜馬の目が思いきり見開かれる。
「お前、どんな女が好みだよ」
「————ッ」
 ぱくぱくと口は動くが、まったく言葉が出てこなかった。
「何だ、お前。顔真っ赤だぞ。……意外だな」
 弁慶がうしし、と笑う。
「な、な、ンな——ッ」
 竜馬は弁慶の肘を下から押し上げると同時に身を屈めて拘束から抜け出す。素早く身体を回し、大男の尻に蹴りを入れた。
「あうふっ‼︎」
「き、気色悪ぃ声あげンな! クッソエロ坊主‼︎」
「おい、お前ら! 何じゃれている」
 隼人がうんざりした声で抗議する。
「うるっせえ‼︎ 俺はヒガイシャだ‼︎」
 竜馬が叫んだ。

 

 訓練は散々だった。集中しろとミチルにどやされ、わかっていることを隼人に一から十まで指示され、発端を知っている弁慶に含み笑いで頑張れよと言われる。苛々するほどに操縦の精度は下がり、同時に行われたいくつかの実験に関しては日を改めることになった。
「くっそ‼︎」
 イーグル号を降りてすぐに弁慶を探したが、逃げ足が異常に速いらしく、もう見当たらなかった。
「ふっざけンなぁッ‼︎」
 自室に戻るまでも気が収まらず、歩きながら時折喚いた。
 生理現象なのだし、猥談をしない相手ではない。普段なら気にもしない。むしろ女の胸や尻の話で盛り上がっただろう。
 それがよりにもよって。
 今日、気づかれるなんて。
「くっそ!」
 自室に入り、ロックをかける。
 構造と性質上、研究所には窓がない区画が多い。竜馬の部屋もそうだった。照明がなければ常に暗い。さらに扉を閉め切ると、静けさも相まって無人の宇宙か深海にでも放り出されたようだった。
「……っ!」
 扉を一発叩き、もたれる。
 しばらく暗闇の中で落ち着きを探す。
 やがて目が慣れ、いつもの室内が現れる。簡素な家電とインターホンなどの機器類だけがあちこちから微かな光を放ち、小さな稼働音を立てていた。
「……あンの野郎」
 閉じた空間に震える声と息が広がって消える。
 弁慶が相手なら、どうとでも文句を言って二、三発殴って終わりだ。明日か、何なら今日中にでも。
「……達人のせい、だからな」
 本人にも言えない。
 暗い天井を睨む。
 ——俺を、抱きしめるから。
 あんなふうに。
 ——全部……夢のせいだ。
 何もかも、全部。
「……何だよ」
 そのまま、ずるずると身体を落とし座り込む。
 溜息がひとつ、漏れた。
「…………ばっきゃろーが」
 掠れた声は闇に吸い込まれた。

 

 三 章   波 紋

 この向こうに達人の部屋がある。誰にも確認はしていないが、確信はあった。
 今はどうなっているのだろうか。元のままなのか。それとも、すっかりがらんどうになっているのか。
 ロックを解除するパスコードは知っている。変更されていなければ、開く。
 ——開けるか?
 それでどうなるのか。
 達人が生きていた証を見つけて、どうしようというのか。
「…………」
 左手で扉に触れる。
 どうしようもなかった。
 死者は永遠に生き返らない。夢も、夢でしかない。自分がしようとしているのは、達人がこの世にいないことを確かめるだけの行為だ。
 竜馬は嘆息する。
 いつからこんなにも溜息をつくようになったのか。
 守りたいと思えば力が湧いてくる。けれども、竜馬が生きている世界に達人はいない。リアルにふたりが存在する世界はもう、どこにもないのだ。
 ——今日は、やめよう。
 扉に額をそっと押し当てる。
 たかが一枚の扉。
 しかし、生者と死者を隔てている。向こう側を目蓋の裏に描き、後ろ髪を引かれる思いで立ち去った。
 竜馬の姿が見えなくなった後、気配もなくひとつの影が通路の角から滑り出てきた。影は先ほどまで竜馬が佇んでいた場所に立つ。
「……」
 隼人は、扉と竜馬が消えた先を交互に見やった。

   †   †   †

 達人は珍しく私服だった。
 パイロットスーツに劣らず男ぶりのいいライダースジャケット姿を眺めてから、竜馬はにんまり顔でヘルメットをかぶる。達人は複雑そうな表情だった。
「ツーリング行こうぜ」
 何度か誘っていた。だが都合が合わず実現しなかった。
 それがやっと叶う。
 二台でならと達人は条件をつけたが、竜馬はタンデムがいいと駄々を捏ねた。いくら危ないからと諭しても聞く耳を持たなかった。
「普段からゲッターに乗ってンのにバイクごときが危険かよ」
 その一言で達人が折れた。
「本当に、父さんみたいに頑固だよな」
 呆れたように——けれども決して嫌そうではなく——呟いた。
 敵襲に備え、すぐに戻れる範囲でしか動けない。
「遠くへは行けないぞ」
 達人の言葉に、竜馬は明るく「どこでもいいさ」と返した。
「ほら、早く行こうぜ」
「……ああ」
 促されて達人もヘルメットをかぶる。
 タンデムシートに座ると、視界に達人の背中が広がった。腰にしがみつく。
「じゃあ、出すぞ」
 達人の運転でバイクが走り出した。
 研究所へ続く山道は封鎖されている。一般車両の往来はない。対向車を気にせず自由に運転できるのは幸いだった。
 山間なので、カーブを攻めたり木立の切れ目から湖が見えたりと変化が多い。普通ならば楽しい道程だった。
 ちょうど峠を越えた辺りで休憩する。
「竜馬、その」
 達人がそわそわしながら切り出した。
「その……景色が見えるか?」
 竜馬はふるふると首を振って否定する。
「横向きゃちったあ見えるけど、だいたいアンタの背中」
「……やっぱりな」
 溜息とともに顔をしかめる。
「せっかくの景色が台無しだろう」
 申し訳なさそうに零す。
「……誰かにそう、言われたのか?」
 竜馬が探るように訊く。
「ああ、ミチルにな」
「ミチルに?」
「ああ。あいつが高校生の頃に一度、せがまれて乗せたんだ」
 知らない「女」ではなかったので、竜馬は心の奥でほっとした。
「『兄さんの背中しか見えないー!』ってな。しょうがないだろう」
 竜馬は小さく吹き出す。
「同じだな」
「そんなんだからタンデムは気が重い」
「だから二台にこだわってたのかよ」
「事故を起こしたときを考えてってのは本当だ。だが、正直それもある」
「けどよ、俺は楽しいぜ」
 額に手を当てて嘆く達人に言う。
「アンタの背中はでけえから、何か安心する」
 達人はぽかっと口を開ける。
「……そ、そう……か?」
「ああ。文句は言ったって、ミチルだってそう思ったンじゃねえのか」
 素直に告げた。
「そう、か」
 聞いて、達人はようやく微笑んだ。
 竜馬の鳶色の瞳はその笑顔を何度もなぞる。もしこの瞬間に目が潰れたとしても、いつでも精確に思い描けるように。
「どうかしたか?」
 達人が視線に気づいて優しく訊く。
「……なあ、もうちっと先まで行くだろ?」
 視線を外さず、竜馬が催促した。
「ああ。湖の畔まで行こう」
「じゃあ、さっさと行っちまおうぜ。呼び戻されたら敵わねえ」
 ニッと笑い、竜馬は目線を道の先に向けた。達人は頷いて、バイクのエンジンをかけた。

 葉擦れの音と鳥の鳴き声、清涼な風と土の匂い。空は新品の絵の具で鮮やかに塗り潰したようで、白い雲が流れなければ時間が止まっているのかとさえ思わせた。
「あ゛ー、平和! いいじゃねえか」
 竜馬が寝っ転がって思いきり伸びをする。達人が苦笑した。
「お前がそんなこと、言うとはな」
「まあ、なあ」
 へへ、と笑う。確かに「らしく」はない。
「こんなふうに気楽にのんびりしたことなンて、ねえかもなあ」
 新宿は昼も夜もなく雑多で、人間のあらゆる感情と欲が隙間なくひしめいている。いくら避けて通ろうとしても、トラブルのほうから寄ってくる街だった。竜馬のように金絡みであればなおさら。
 気を抜けばぬかるみに足を取られる。だが転ぶようなヘマをしたことはなかった。
 元から、穏やかな世界は好まなかった。だから筋者とのやりあいは楽しかった。それでも本気を出したことがなくて、ともすれば退屈さに窒息しそうな日々だった。「何もない」時間を貴重だと捉えたことも、倖せだと思うこともなかった。
 当然、望んだこともない。
 そうしてひとり、生きてきた。
 研究所に来てからも平穏とはかけ離れた毎日だった。
「……アンタだって、そうだろ?」
 傍らを見上げる。
「ああ……そうだな」
 達人は頷いた。
「ゲッター線の発見で、すべてが……世界が変わった」
 ゆっくりとまばたきをし、宙を見つめる。
「もう戻れない」呟きが落ちた。
 景観は美しく、風は柔らかく吹き抜ける。
 それなのに、達人の心には届いていないようだった。目には遠く遥か向こう、霞がかって見えない岸辺を探すような、寄る辺ない寂しさが満ちている。
「俺たちは闘い続けるしか、ないんだ」
 覚悟と言うには力強さをまとっていない。虚しさと呼ぶほど打ちのめされてもいない。
 心情はおそらく諦めにも似て——。
「俺も父さんも、業を背負ったんだ」
「ゴウ?」
「ああ。ゲッターロボを造った責任がある。どんなに鬼が怖くても、嫌だと思っても、死にたくなくても、降りることは許されない」
「……」
「たぶん、それがゲッターロボを造り出した者の…………運命なんだ」
 竜馬が飛び起きる。
「——違う」
「え」
「違う」
 低い声に達人が息を呑む。
「勝ちゃあいいんだ」
 ぎらりと竜馬の瞳が光る。
「運命なンて、ねえよ」
 達人の襟元を掴んで引き寄せる。
 胸の奥が熱い。散々に煽られて、怒りが出口を求めて渦巻いているようだった。
「あっても、ンなモンぶち壊してやるよ」
「……竜馬」
「鬼やゲッターに俺の一生を決められてたまるか。俺は、俺の意志で闘って、勝ってやる」
 挑むような眼差しで達人を射る。達人は身じろぎもせず、まっすぐに受けとめる。
「……そうだな。お前らしい、な」
 にこりとして、それから「頼む、服が伸びる」と困り顔になった。
「え、あ」
 竜馬はきょとんとし、すぐに理解して手を開いた。
「わ、悪ぃ」
「いいさ」
 ふ、と息をつき、達人は竜馬の鼻をつまむ。
「ぬ……あにすンだよ」
「何でだろうな。……竜馬、お前が可愛いんだ」
「はあぁ⁉︎」
 突然のことに素っ頓狂な声が出る。ぐい、と達人の手を押しのけて距離を取った。鼓動が速くなる。
「何というか」
 達人が真剣な顔つきで顎に指を当てる。
 その仕種にどきりとする。次にどんな言葉を紡ぐのか気になって、唇に釘付けになる。
「まったく人に懐かない犬が、俺からだけエサを食べて撫でさせてくれる、みたいな」
 おどけて目線をちろりとくれた。
「い、犬……かよ」
 脱力する。しかし食べ物に釣られた過去がある手前、文句も言えない。
「……まあ、しゃあねえか」
 ふん、と鼻を鳴らす。
 実際に達人を探して、追って、待ちわびて。我ながら犬みたいだとも思った。間違っていない。
 そのとき、大きな水音がした。魚が跳ね、湖面に消えるところだった。
「おい、見たか」
 達人の腕を取る。また違うところから魚が身をくねらせて飛び出した。
「でけえぞ! なあ、今度は」
 思わず腰を浮かせて、腕を引っ張る。
「釣りしようぜ!」
 はしゃいで振り向くと、達人がこちらを見ていた。
「達……」
 ふたつの瞳は眼前に広がる湖面と同じく静かに凪いでいる。じっと見つめられ、動きが止まる——動けなくなった。
 ——……たつ、ひと。
 やんちゃな弟を見守るでもなく、じゃれ合いを楽しむでもなく。
 ——何で、こんな顔。
 竜馬は混乱しながらも見惚れる。浮いた腰が地面に落ちても、視線は絡め取られたままだった。
 す、と達人の身体が前に乗り出す。
 ——え。
 達人が覆いかぶさるように近づき、ふたりの距離が詰められる。まばたきの間に竜馬が首元を引き寄せたときと同じほどになり、なおも迫る。
 ——キス?
 達人の左手がそっと竜馬の頬に触れた。
「!」
 ぱちんっ、と弾かれたように竜馬は我に返る。
「な、何だよ!」
 慌てて肩口を押し、顔を背ける。
「ひ、人の顔ジロジロ見ンじゃねえや!」
 まともに見返せない。
「ンなよぉ、カップルじゃある……めえし」
 言いながら急に照れくさくなり、語気が弱まる。体温が上がった気がした。
 ——何だよ。
 勘違いかもしれない。達人が平然としているのに自分だけ動揺すると、意識しているとバレてしまう。悟られたくない。けれども、じっとしていられなかった。
 たまらず竜馬は立ち上がる。もしかしたら顔が赤くなっているかもしれない。見られたくなかった。
「そろそろ帰ろうぜ。訓練だろ」
 尻をはたいて土を払う。返事を待たずに大股でずんずんと歩いた。
 達人が追いつくまでの時間で深呼吸を繰り返す。
 ——落ち着け、どうってことねえ。
 思い出すと妙に気恥ずかしくなる。しきりにほかのことを考える。博士の足のサイズ、ミチルの眼鏡の度数、隼人の鼻で笑う仕種——はムカついたので頭から追い出して弁慶の好きな菓子の商品名を羅列して——どうにかして落ち着きを取り戻した。
 一時間前と同じように、ふたりでバイクに跨る。エンジンをふかす音が青空に響く。
 竜馬は達人の腰に手を回した。
 もうこんな機会はないかもしれない。
 ——達人の、背中。
 そっと抱きつき、ヘルメットを押し当てた。
 ふと、手が包まれる。
 ——……これって。
 柔らかさと、温かさ。
 達人の手が重ねられているのだとわかり、反射的に指がぴくりと動いた。カッと顔が熱くなる。
 ——達人。
 今度は、きっと赤面している。心臓がどくどくと大きく脈打ち、そのたびに身体が揺れ動いている感覚になる。密着した胸から鼓動が達人に伝わって、音も聞こえてしまいそうで、
 ——やべえ。
 心が震える。
 自分が泣きそうな、情けない表情をしていることには気づかなかった。
 やがて、すうっとぬくもりが離れる。
 バイクが走り出す。
 ——もっと。
 この穏やかな時間が続けばいいのに。
 生まれて初めて「何もない」からこそ訪れる瞬間があるのだと知った。
 竜馬はもう少しだけ、指に力を込めてしがみついた。

 

 司令室に入るなり、ミチルの険のある声が飛んできた。
「流君! 訓練するって言ったでしょ!」
 見慣れたミチルについ吹き出す。すぐに三角になった目で凄まれ、慌てて抑える。それから、
「何だよ、五分前じゃねえか。それにちゃんと着替えてるぜ」
 口を尖らせた。
「あのねえ、説明とか段取りってものがあるの!」
 ミチルはいつになくぷりぷりしている。そこに「よう」と明るさを振りまきながら達人が入ってきた。
「兄さん!」
 いきなり睨まれ、達人は「おう……」と肩をすくめる。竜馬はピンとくる。
「ミチル」
「何よ」
 腕組みをして横目でこちらを見る。
「おめえ、そんなに達人といたいなら首輪つけて鎖で繋いでろよ」
 くつくつと笑う。
「——」
 意味を理解したミチルはぷるぷると震えて「流君!」と声を大きくした。後ろで幾人かの所員からこそこそと笑いが漏れる。ミチルは勢いよく振り向いて「自分の仕事をしてちょうだい」と注意した。
「まあまあ、ミチル」
 達人があやすようにミチルに近づき、その頭を撫でた。
 ——あ。
 竜馬の中に広がっていた楽しさが一瞬でしぼむ。
「竜馬も、あんまりミチルをいじめるな」
 優しく微笑まれて、竜馬はぎこちなく「ああ」と返す。
 ——何だ。
 ミチルが自分に嫉妬していたのはわかった。だからちょっとからかった。先刻までの出来事が、竜馬に優越感を与えていた。
 けれども達人の手のひらが自分だけのものではないと見せつけられて、竜馬もまた嫉妬した。
 ——俺だけ盛り上がって、何だか……バカみてえだな。
 グローブの中で指先が冷たくなっていく。口が渇く。一緒に感情もぱさぱさに乾いていくようだった。
 ミチルをからかったことを後悔した。
 自分の爪先に視線を落とす。さっきまで履いていたスニーカーは土に汚れても白く映えていたのに、今はブーツの小さな汚れがやけに目につき青がくすんで見える。
 ——ブーツ、汚ねえな。……たまには拭かねえとな。
 意識の遠いところで他人事のようにぼんやりと思った。
「さて、気を取り直してブリーフィングだ。竜馬」
 はっとして顔を上げる。達人と目が合うと、テレビの電源を落としたように視界が黒く染まった。
 ——ここでかよ。
 自分の舌打ちが頭の上から聞こえる。
「あー……」
 うっすらと天井が見えてきた。
 目覚めて、夢を振り払うように声をあげる。
「くそっ」
 起き上がり、タオルケットをぐしゃぐしゃに丸める。
 気分が悪い。
 自分に腹が立っていた。
 調子に乗って、自爆した。隼人や弁慶を相手にしているのとでは勝手が違う。
 ——何だよ、こんなの。
 どきどきして、舞い上がって、嫉妬して、最後は自己嫌悪である。
 そういうこと・・・・・・に無頓着な竜馬でも自覚する。
 ——何だよ。
 いや、自覚はしていた。認めたくなかったのだ。
 達人の笑顔が浮かぶ。
 きっと、初めからだった。
 初めから、好きだった。
「……くそっ」
 頭をかきむしる。
 ——どうしろっていうンだ。
 相手は自分と同性で。自由に会うことはできなくて、いつまで会えるのかもわからなくて。
 もう、この世にはいない。
 しかも——自分が殺した。
 好きだと認めてしまえば「未来」を考えてしまう。先のない未来なのだと理解していた。どこにも行けない思いを育てて、どうしろというのか。
 タオルケットの玉を拳で叩く。柔らかな布の重なりが潰れる。殴りがいがなくて、竜馬の気持ちは塵ひとつほども軽くならなかった。
「ちくしょう……」
 何より、竜馬自身が達人とどうなりたいのかわかっていなかった。

   †   †   †

 どうということのない敵だった。すぐ終わる——いつもの竜馬ならば。
『流君! 後ろ!』
「わあってるよ‼︎」
 ミチルに言われるまでもなく、敵がどう動くのかわかっていた。しかし反応が遅れる。
「チッ!」
 左肩に被弾する。ガクン、と前のめりになり速度が削がれた。さらに足元を狙われる。
「……クソがッ‼︎」
 掴まれ、地に投げつけられた。光線が追撃する。
 貫かれる前に跳ね返りを利用し回避した。
 ——集中しろ。
 言い聞かせないといけないほどに、闘いにのめり込めない。
 原因はわかっている。
 達人からの応答がない。
 鬼獣の吐き出す光線に、これ以上はバリアが保たない——聞いて、単独で出撃せざるを得なかった。
「隙ありッ!」
 胴体のコア目掛けてゲッタービームを放つ。だが鬼獣は素早く尾を巻きつけて防御した。
「何ィッ⁉︎」
 次の手を考える間もなく距離を詰められる。
「しまっ——」
 抱きつかれ肩口に噛みつかれる。機体に食い込んだ牙から電流が流れ込んだ。
「ぐ——あ、あぁっ!」
『流君!』
「あがっ、オ……プン、ゲット!」
 合体を解く。ゲットマシンを散らし、鬼獣を囲む。
「くっ」
 痺れがまだ残っていたが、引くまで待つ気は毛頭ない。
『流君、一旦退がって!』
「ばっきゃろー! 誰がンなこと!」
『流君‼︎』
 ミチルの指示には従わない。ゲットマシン各機の位置を確認する。
「チェンジゲッタァァ1‼︎」
 再び合体し鬼獣の後ろに回り込む。頭部に蹴りを入れ、動きが止まったところをトマホークで切断する。
「これで終わりだ!」
 のたうつ胴体中心部の核にゲッタービームを照射する。
 おぞましい咆哮とともに、鬼獣は四散した。

「手こずったわね」
 現れたミチルの表情は不機嫌を絵に描いたようだった。竜馬は「勝ったからいいじゃねえか」と不貞腐れる。
 グローブを噛んで剥ぎ取り、まだ痺れる手をぶらぶら揺らす。悪びれない態度にミチルがこれ見よがしに溜息をついた。白衣のポケットに手を入れたまま、無愛想に言う。
「できることならもっとスマートにしてくれたほうが、こちらの被害も費用も少なく収まるのよ」
 竜馬が凍りつく。
「私の言っていること、わかるでしょう?」
「おい、被害って」
 ——まさか。
 血相が変わる。
「……今日は死者は出ていないわ」
 誰の心配をしているのか聞かなくてもわかる。ミチルは簡潔に答えた。
「地揺れでいろいろ落ちてきてね。所員をかばって、少し頭部に裂傷を負っただけよ」
「頭に?」
「縫うほどじゃない。出血もたいしたことないわ」
「……そうか」
 安堵の息を漏らした竜馬に、ミチルが皮肉めいた笑みを浮かべる。
「仲がいいのは結構だけど、あなたが気にしなきゃいけないのは兄だけじゃないのよ」
「——」
「……男って、いいわね」
 一瞬だけ睨みつけ、踵を返す。
「……」
 竜馬は黙って見送った。
 達人の姿を確認できたのはそれから一時間後だった。やっと手の空いた医療スタッフを見つけ問うと、先頃まで後処理の指示を出し怪我人の介抱を手伝っていたという。今し方自室に戻ったと教えてくれた。
 急いで部屋を訪ねると、達人は普段通りパソコンと向かい合っていた。
「もう、いいのか」
 達人は「おう」と答えた。頭に包帯が巻かれている。
「こんなの、たいした怪我じゃない。寝てなんかいられないさ」
 笑い飛ばすが、竜馬の表情は晴れなかった。
「何だよ、その顔」
 達人が竜馬の頭を勢いよく撫でる。髪の毛がぐしゃぐしゃと跳ね回るが、竜馬は文句も言わず、されるがままだった。
「……竜馬?」
 雰囲気が違うことに気づき、達人が手を引っ込める。竜馬は目線を床に落として動かない。
「どうした?」
「……心配した」
 ぼそりと乾いた声が零れた。達人が目を細める。
「ミチルから聞いた」
 ぴくりと竜馬の肩が動いた。
「闘いに集中できていないようだった、とも」
「……」
 竜馬の拳が握られる。
「竜馬」
 達人が竜馬の肩に手を置く。竜馬は思わず顔を上げた。
「お前は、ゲッターロボのパイロットなんだ」
 真剣な眼差し。
「俺が、もし」
「——」
 達人が何を言おうとしてるのか直感でわかった。竜馬は睨みつけながら、拒む。
「やめろ」
 押さえつけるような、ピシリと硬い声に自分でも驚く。達人は一瞬たじろぐが、引かない。
「いや、一度、言っておかないといけない」
 荒らげるわけではないが、厳しい口調だった。
「俺がもし、死んだら——」
「やめてくれ!」
 竜馬はぎゅっと目を閉じ、かぶりを振った。
 聞きたくなかった。
「竜馬、聞け」
「やなこった!」
 肩にかけられた手を払いのける。
「俺が、俺が……守る」
 顔を見ずに絞り出す。
「アンタを死なせない」
「……竜馬」
 沈黙が続いた。
 やがて、達人が答える。静かで落ち着いた声だった。
「お前が守るのは、みんなだ」
 ふたりきりの部屋に響く。
「……」
 ミチルにも同じ意味の言葉を言われた。
 ——わかってる。
 だが竜馬自身の心は何がしたいのか、とうに選択していた。拳にぎりぎりと力が込められる。
「俺は、アンタを守りたい。…………アンタは、自分を勘定に入れねえだろ」
 ——俺は知ってる。
 きっ、と見据える。達人は目を逸らさない。
「入れていないわけじゃない。……一番、最後でいい」
「だから!」
 ——だから、それが。
 悔しい。
 頭の包帯は「あの日」を思い出させる。
 唇を噛みしめる。すぐに鉄の味がした。
「竜馬……」
 達人とこんなふうに言い合うためにこの世界にいるわけではない。
 ひどく、もどかしい。
 誰よりも達人に生きていて欲しいと願っているのに、伝えられない。
「……ッ」
 竜馬は部屋を飛び出した。背中越しに達人が「竜馬!」と叫ぶのが聞こえた。

   †   †   †

 ——俺の夢なンだよな?
 この世界は現実とそっくりだった。
 竜馬が初めて訪れたのは、本来なら達人が死んだ「あの日」からさほど経っていない頃だった。山頂の研究所に、竜馬が連れられてきたときの面々が集っていた。
 あの襲撃で元の研究所は壊滅したが達人は生き延びた。そこから現実と分岐した世界が始まっていた。
 その後、幾度かの闘いを経た。現れる鬼獣も異なるし、犠牲者も違う。そうして現実との解離が大きくなり始めていた。反対に、時間はどんどん進み現実へ近づいていた。
 なぜ、いつまでも隼人と弁慶は見つからないのか。竜馬が「現れて欲しくない」と強く願っているとでもいうのか。
 ひとりでも闘うと決めた。思いは変わらない。
 現実世界でも、ほとんどひとりで闘っているようなものだ。それでも勝てている。だが今、胸の内に不安が音もなく降り積もっていくのを感じていた。
 本当に、ひとりでもやれるのか。
 達人を守り抜くことができるのか。
 いつになれば守りきれたと安心できるのか。
 自分がいない間に襲撃があったら——。
「過去」をやり直していても違う「未来」に向かっていた。
 徐々に増していく不安は、じくじくとした嫌な痛みに変わる。
 あのふたりがいれば。
 隼人は、腹の底は見えないが頼りになる男なのは確かだった。事態が膠着しても冷静で、その助言で状況が打開できたことも一度や二度ではなかった。
 弁慶はきっと、今の竜馬の気持ちを誰よりも理解してくれるだろう。守りたい人がいて、そのためにはどんな闘いも厭わないと決めた心を決して笑いはしないはずだ。
 寄りかかる気はないし、慰め合いたいわけでもない。
 ただ。
 三人なら。
 ——もう少し、マシなンじゃねえのか。
 思ってから、自分の身勝手さと弱気に気づいて舌打ちをした。

 

 目覚めが悪かった。
 あの世界・・・・の夢ではない。もっと違う、息苦しい世界だった。
 真っ暗な空間のひずみに落ち込んでひたすらもがいているような、そしてそのまま押し潰されてしまいそうな、ひどく嫌な気分になる夢だった。
 言い様のない気持ち悪さが居座っている。
 ——気分が悪ぃ。
 身体が重く感じた。足を引きずるようにして司令室に入る。訓練の予定があった。
「竜馬、遅刻——」
 隼人が竜馬の顔を見るなり息を呑む。竜馬はちらと周囲を見て、
「弁慶の野郎だって、いねえじゃねえか」
 文句を吐く。
「武蔵坊君は遅れるってちゃんと——」
 ファイルから目を上げて竜馬を見ると、ミチルも隼人と同じように言葉を失った。
「……あンだよ」
 ふたりの反応に、竜馬が露骨に嫌がる。ミチルは隼人に一瞥をくれ、竜馬に近づいた。
「ちょっと、流君」
「あ?」
「あなた、具合が悪いんじゃないの?」
「は?」
 何を寝ぼけたことを——。
 続けようとして眩暈に襲われる。
「……ッ!」
 ぐるりと視界が回る。身体が浮く感じがして、膝から崩れる。
「流君!」
 身体が落ちる前に、隼人が抱きとめた。
「おい、竜馬!」
「……う、あ」
 瞳の焦点が合わない。
「神君、すぐ処置室に」
「ああ」
 ミチルは内線を取る。隼人は竜馬を抱き上げ、司令室を出た。
 慌ただしく、しかし慎重に生体データを確認する。
「調べた範囲では異常はないわ」
 異様に顔面が青白い以外は。
「極度の疲労か、瞬間的な血圧低下か」
「どのみち、様子見しかないわね」
「だが、こいつが倒れるとなると何かよほどの——」
 そのとき、所内に警報が響いた。
『研究所上空に空間の異常褶曲を確認! 収縮していきます! 特異点発生!』
 隼人とミチルは顔を見合わす。
「イーグル号はオートで」
 ミチルが短く指示すると、隼人は頷いて部屋を飛び出した。
 格納庫では弁慶が待機していた。遅れて訓練に来たはずなのに、ふたりのゲットマシンは残されていた。そこに警報が鳴り、やがて隼人が駆け込んできた。
 隼人がジャガー号に乗り込むのを確認し、ミチルが出撃を促す。
「おい、まだ竜馬が」
 弁慶を無視して無人のイーグル号が発進した。
「オートパイロット⁉︎」
「説明は後だ。出るぞ」
 隼人が発進する。弁慶が続く。
「竜馬に何か——」
 弁慶の声が上擦る。
「大丈夫だ。ただ、少し休ませたほうがいい」
「……すぐよくなるのか?」
「たぶん」
 そう答えるしかない。
「とにかく、今はあのデカブツを倒すぞ」
「お、おう!」
 ふたりは現れた鬼獣に向かった。

 竜馬は薄暗い廊下に佇んでいた。辺りには誰の気配もない。進めば、達人の部屋だ。
 記憶はこの前の最悪な言い合いで終わっている。
 達人を思い出す。
 哀しそうで、苦しそうだった。
 もちろん、その生命を守りたい。同時に、達人が望むことをさせてあげたかった。あんな顔をさせたかったわけではない。
 早く会って、謝りたい。「悪ぃ」と一言伝えて笑って、それで元通りになるはずだ。
 一歩踏み出し、ためらう。
 頭上の煤けてきている蛍光灯がぱちぱちとまたたく。今にもふつりと切れそうな心細い明滅は、竜馬の心境をそっくり映しているかのようだった。
 深呼吸して、踏み出す。
 進むごとに早足になる。
 部屋の前まで来て、扉を見つめて。
 インターホンを押そうとして——なおもためらう。
 ——何やってンだよ、押せよ。
 こんなことひとつで自分を鼓舞しなければならないのか。達人と真正面から向き合おうとすると、自分はこんなにも弱いのかと愕然とする。
 持ち上げた右手は震えていた。
 そのとき、所内に警報が響いた。
『研究所上空に空間の異常褶曲を確認! 収縮していきます! 特異点発生!』
 震える指先で扉にそっと触れる。
「……」
 歯を食いしばり、格納庫へ向かった。
『よう、竜馬!』
 イーグル号に搭乗すると通信機から軽快な達人の声が聞こえた。
 心音が跳ねる。
『悪いが、手が離せない。ひとりで出られるか』
「……へっ、誰にモノ言ってンだよ」
 ——いつも通りにしろ。
 自分に言い聞かせ、発進に備えマシンをチェックする。
『調整は俺がした。問題はないはずだ。頼んだぞ』
「……ああ」
 残り二機はオートパイロット。達人の調整なら、思いきり振り回しても大丈夫だ。
 ——やれるさ。
「ゲットマシン、発進‼︎」
 飛び出し、鬼獣を捕捉する。
「……でけえな、おい」
 まるででっぷりと太った青鬼だった。
「ま、いくらでかくても」
 動きが鈍くちゃ話にならねえ——。
 言うより速く突っ込む。鬼獣が気づいて振り向く。
「チェンジゲッター1!」
 合体と同時に股の間をすり抜け背後を取る。
「遅えんだ、よッ!」
 回し蹴りを脇腹にお見舞いする。ぐらついた隙をつき右腕をねじり上げて関節部分に膝を入れる。派手な音がして手がちぎれた。
 鬼獣の叫び声が浅間山に響く。
「ゲッターウイング!」
 飛翔し、鬼獣の動きを確認する。
 ——今!
「くたばりやがれ! ゲッタアァーッ、ビームッ!」
 それで、敵は跡形もなく消え失せた。
『竜馬、やったな』
 達人の声に、竜馬は目を閉じ大きく息を吐いてから応じた。
「当然だろ?」

 格納庫に戻る。達人が駆け寄ってくるのが見えた。
「——」
 目を逸らす。
 だがすぐに思い直し、視線を戻した。
「竜馬」
 変わらぬ微笑み。
 胸が潰れそうに痛くて、息苦しい。
「その、俺」
 切り出すが、言い淀む。
「……」
 喘ぐように浅く息を吸い、
「その……悪かった」
 弱々しく伝える。達人は動かない。
「……」
 沈黙が降る。竜馬はいたたまれなくなって目蓋をぎゅっと閉じた。
 ——ああ、もう逃げてえ。
 駆け出そうか迷う。すると達人の口から場にそぐわない科白が飛び出した。
「バーボンの二十年ものがあるんだ」
「え」
 目を開ける。
「珍しいだろ。ウイスキーじゃなくて、バーボンの熟成物だ」
 耳に慣れた優しい声音。
「普段飲むにはもったいなくてな。いつ開けようか迷ってたんだ。お前、バーボン飲めるだろ?」
「あ、ああ……」
 思わず相槌を打つ。
「今度、一緒に開けよう」
 目がなくなるほどに、達人がにっこりと笑った。
「——」
 さながら、徐々に冷えていく初冬の空気を一瞬で春の訪れに変貌させる、柔らかな陽の光。
「な?」
 嬉しさと申し訳なさと愛しさで胸がいっぱいになる。頷くのがやっとだった。
「俺も悪かった。突然あんなこと言われりゃ、動揺もするよな」
 竜馬は俯く。眉間に皺が寄っているのはわかった。きっと、みっともなく顔が歪んでいる。見せたくない。
「竜馬」
 達人のぬくもりが頭に触れた。
「お前がああ言ってくれて、嬉しかった」
 そっと髪の毛を撫でる。
「でもな、まず自分を一番に考えろ。ゲッターロボなしで俺たちは鬼どもに立ち向かえない。お前がいれば何とかなるんだ。だから、何を犠牲にしても、何があっても、お前は生きてくれ」
 思い出す。
『アレに俺が乗れば、どうにかなるのか』
『——なる』
 博士は断言した。
『俺の屍を越えていけ‼︎』
 達人は叫んだ。
 心に焼きついている。
「…………わかった」
 竜馬は小さく答えた。
 まだ、納得はできない。だが達人の願いなら、叶えてやりたいと思う。
「いい子だ」
 達人の声が嬉しそうに弾んだ。

 

 翌日、竜馬が目を覚ました。
 ちょうど丸一日、意識を失っていた。その日いっぱいを使って可能な限り検査が行われたが、特に異常は見当たらなかった。
「何にもねえったら」
 隼人がいくら訊いても、竜馬は繰り返すばかりだった。
「あれじゃねえの、『季節の変わり目』ってヤツ」
 からかうように言って、それきりだった。
「まったく何にもない、とは思えないけれど」
 様子を聞いてミチルが腕を組む。
「それは同感だが、あいつがそう言うんだ」
「……流君は、あなたには言わないでしょうね」
「不調は弱さで、弱さは『負け』だと思っている人種だからな」
 隼人は笑う。
「きっと、誰にも言わんだろうさ」
 ふたりはそれぞれ竜馬への違和感を抱きながら、これからのことを考えて押し黙った。

 

 四 章   引 金

 竜馬は立ち尽くす。
 達人とミチルが倒れている。白衣は赤く不気味に濡れている。
 ——何だ、これ。
 何が起きているのだろうか。
「ああっ、流さん‼︎」
 所員が駆け寄り、竜馬の腕を取る。
「早く!」
「……」
「ゲッターで出て下さい!」
「……え?」
「鬼獣が‼︎」
「——けど」
 達人を助けなければ。
「流さん! 達人さんとミチルさんは、もう……!」
「もう、何だよ」
「う……」
 ひどく冷たい竜馬の眼差しに、所員が後退りする。
「死ンだのかよ」
 乾いた、抑揚のない声。
「それとも、鬼に噛まれたのかよ」
 まばたきもできない。
「もしそうなら、鬼になっちまわねえか見てねえとな」
「な、流……さん……」
「鬼になったら、殺さねえとな」
 竜馬の頭を幾度も撫でてくれた手は血にまみれ、動かない。
 心は空っぽだった。
「苦しまねえように、一発で頭を潰さねえとな」
 達人の顔には苦悶の跡が刻まれている。ミチルのほうは恐怖だろうか。光のない、濁った瞳。
「……死ンじまったのかよ」
 ふたりの肌は出来の悪い蝋人形さながらに白い。
 何も、考えられない。
 目の焦点がぼやけてくる。
 ——あれ……涙、出ンのかな。
 他人事のように頭の隅で思った途端、視界が黒く塗り潰された。
「……ッ‼︎」
 次の瞬間、明るい場所に投げ出されていた。
「え……」
 修理ドックだった。
 目線を上げると、イーグル号があった。翼の整備中だろうか。
「竜馬」
「————」
 全身が硬直する。
「……竜馬?」
 聞き慣れた声が近づいてくる。竜馬は金縛りに遭ったようにまだ動けないでいた。両の目は大きく見開かれたままで、呼吸すらできない。
「竜馬!」
 肩を掴まれ、身体の向きを変えさせられた。
「——」
 達人だった。
「何だ、お前。大丈夫か?」
 両肩を揺すられる。
「う、あ」
「……おい」
 達人の面相が険しくなる。
「処置室に行こう」
「だ、いじょう、ぶ」
 ぎこちなく音を押し出し、竜馬は笑おうとした。だが顔中の筋肉が強張って思い通りにならない。
「大丈夫じゃないだろ」
 達人は左手を竜馬の背中に添え、促す。
 一歩、二歩。進むと膝がかくりと落ちる。操り人形のように不自然で心許なかった。
「竜馬」
「え? う、わ」
 抱き上げられる。
「このほうがいい」
 足早にドックを出る。
 ——達人。
 竜馬の身体に達人の体温と匂いが染み込んでくる。
 ——達人だ。
 ちかり、と達人の無惨な姿がフラッシュバックする。
 あれは「ただの夢」だ。
 そうでなければならない。
 竜馬は達人の胸に額を押し当てた。

 一通りバイタルチェックをし、採血とCTスキャンも済ませた。見た目には何も異常はなかった。
「とりあえずは心配なさそうだが、……だがなぁ」
「何だよ」
 ようやくまともに達人の顔が見られるようになった。
「心配だ」
 達人は太い眉を寄せる。悲愴な顔つき。
「……大げさだぜ」
 いらぬ心配をかけている。竜馬の胸がぎゅっと痛んだ。
「ちぃっとタチの悪ぃ夢を見たンだ。それで」
「夢?」
「ああ」達人から目を逸らす。
「もう、大丈夫だ」
 ——まだ、生きている・・・・・
 自分がここにいる意味がまだある。竜馬は右の拳を握る。
 達人はじっと竜馬を見つめた。
「夕方の訓練は中止にするから、今日はもう休め」
「けど」
「イーグル号もまだ整備中だし。さっき、見ただろう?」
「……ああ」
「な」
 達人が笑う。眉は心配そうに八の字に下げられたままだった。その様に、竜馬は素直に「わかった」と答えた。
 自室まで達人に付き添われて戻る。促されてベッドに座ると、頭を撫でられた。
「ほら、横になるんだ」
「……なあ」
「何だ」
「晩飯食わねえと、夜中に腹ぁ減って起きちまう」
「——」
 ぽかんと達人の口が開く。やがて、
「ふっ、はははっ!」
 声をあげて笑った。
「お前、俺がどれだけ心配してると思って、ふ、くくくっ」
「ちょ、何だよ……!」
「あっはは! お前らしい!」
 目尻を指で拭う。
「笑いすぎて涙が出てきたじゃねえか——くくっ」
「……達人」
 心配顔よりよほどいい。つられて、竜馬も口角を上げる。
 今度は思った通りに笑えた。
「夜にまた覗きにくるよ。そのときに起きていたら一緒に何か食ってもいい」
 達人の提案に頷く。
「さ、わかったら横になるんだ。ほら、服も脱いで楽な格好になれ」
「……見られてると、脱ぎづれえ」
「お前、いまさらそれを言うか」
 着替えや検査、シャワールームで毎度のように下着姿はおろか裸もさらしている。確かにいまさらだなのが、
「それとこれとは別だろぉ? 俺はハタチの恥じらうお年頃なンだ」
 ぷくりと頬を膨らませた。
「はいはい、わかったよ。……ちゃんと、休むんだぞ」
「ン」
 ふ、と安心したように目を細めて達人は出ていった。竜馬は服を脱ぎ、約束通りベッドに潜り込む。
 ——本当に、よかった。
 ヘッドボードの調光スイッチで照明を落とす。緊急時に備え少しだけ明るさを残して目を閉じた。
 深呼吸をいくつか繰り返すと、すぐに睡魔が意識を刈り取った。

 

 けたたましい警報で飛び起きる。時計を確認する。深夜二時。
 素早くスボンを穿き、ブーツに足を突っ込むと駆け出した。
『研究棟、Bブロックに鬼が侵入! 数は不明!』
 スピーカーから状況がわかった。達人の声ではない。
 ——急げ。
 きっと達人も向かっている。
 予感がした。

 Bブロックへ続く通路に入ると、ふたつの動くものがあった。
 体格のいい男が鬼と組み合っている。
「達人‼︎」
 紛うことはない。達人の背中だった。そこに別の鬼が迫る。
「後ろ!」
 達人がわずかに振り向く。気づいたはずだ。
 ——間に合う。
 竜馬が跳ねる。
「ンなろぉッ!」
 覆いかぶさる寸前の頭を蹴りで砕く。
「竜馬!」
「こっちは任せろ!」
 一、二、三——五匹。
 ふ、と息を吐き、重心を下げて対峙する。
 竜馬の身体がぴたりと静止する——転瞬、鬼たちの間隙を縫って舞う。
 ——大丈夫だ、動く。
 身体が軽かった。考える前に動く。
「オラァッ!」
 あっという間に終わる。達人も三匹の鬼を倒していた。
「おい! 大丈夫か! 噛まれてねえか!」
 駆け寄り、腕を掴む。脚、腹、肩、首、順に目線で辿る。返り血は浴びていても、衣服の中から染み出す血は確認できなかった。だが返事がない。
「達人⁉︎」
 掴んだ腕を揺すり、顔を仰ぎ見る。
「……大丈夫だ」
 遠慮がちな声が降った。
「……何だよ、心配すンじゃねえか」
 竜馬の表情から硬さが消える。
 ——よかった。
 ほう、と大きく息をつく。
「格納庫に行こうぜ」促す。
「でけえのが出るかもしれ……あれ?」
 ぐらりと視界が揺れる。
「竜馬?」
「大丈、夫」
 ——おかしい。
 夢から覚めるときにこんな眩暈はしたことがない。
「達人、俺」
 竜馬の顔が不安で歪む。達人の姿がぼやけて、引き伸ばされるように消えていく。
 ——達人。
 達人が手を差し出す。その手を取ろうとするが、身体が重く、動かない。
「たつ——」
 竜馬の意識はそこでふつりと途切れた。身体が沈む。
 抱きとめる隼人は青褪めていた。

「神君!」
 ミチルが処置室に飛び込んできた。
 竜馬はベッドに寝かされ、腕からは点滴の管が伸びていた。バイタルモニタは正常値を示している。
「最低限の処置だけはした」
 隼人が口を開いた。
「もう一度、検査をしたほうがいい。徹底的に」
「何があったの」
「せん妄症状だと思う」
「……どういうこと?」
「俺を、何度も『達人』と呼んだ」
「——‼︎」
「顔も声も体格も違うはずなのに、ずっとそう認識していたようだ」
「どうして……兄さんを」
「俺が鬼と揉み合っているのを見て逆上して……最後は俺が鬼に噛まれたと思って一瞬だが錯乱しかけた」
「……!」
 ミチルがよろめく。後退りの分だけヒールが鳴る。
「あんたの兄ってなあ、鬼に噛まれたのか?」
 ミチルはふいと視線を外し壁を見つめた。肩で大きく息をする。目を閉じてもうひとつ呼吸してから「そうよ」と返した。
「鬼獣との闘いで、とだけ」
 報告書はそうだった。
「嘘ではないし、被害報告ならそれで十分だわ。……あなたならすぐ調べられるでしょ」
「そこまで悪趣味じゃない」
 ミチルは隼人に目線をくれて、すぐに足元に落とした。
「……鬼に噛まれて、プロトゲッターで出撃して闘っている最中に鬼化が始まった。……父の指示で流君がイーグル号で体当たりして、鬼獣を押さえている兄ごと破壊したのよ」
 きっと、誰もが仕方がなかったと言い聞かせたはずだ。そうでなければ前に進めない。達人も浮かばれない。
「流君が兄について訊いてきたことはない。おそらく、父にも」
「平気そうでも、実際にはトラウマを抱えていたのか。あるいは」
「……薬物か機能的な病気か。この前は異常はなかったけど、もっと時間をかけて調べないと」
 隼人はもうひとつの可能性を口にする。
「もしくはゲッター線の影響か」
 ミチルは眉をひそめる。
「そんな報告はあがっていないわ」
「そうはいっても、あの出力で竜馬ほど乗った奴はいないだろう?」
 プロトゲッターはゲッター線を動力とする点は新型と同じだが、出力はかなり小さい。そのうえパイロットの寿命は短く、大抵は遺体も残らない。そもそも生体への影響をある程度長期的にモニタリングできるだけのデータがないのだから、報告がないのも当たり前だった。
「……その通りだわ。条件が限られているけど、今までのパイロットの検査データは残っているはずだから、何か手掛かりがないか、少し当たってみるわ」
「……頼む」
「あら、流君のこと、嫌いじゃなかったの?」
 ミチルはからかうように笑う。
「俺の目的のためにも、まだ必要なんでね。それに、少し鬱陶しい程度だ」
 目を合わせずに隼人が答えた。
「意外に男同士も複雑ね。……まあどのみち、流君抜きじゃ困るのは私たちも同じだから」
 言って、竜馬を見つめた。

 

 床にうっすらと白い埃が積もっている。コンピュータの類や書類は残っていなかった。空っぽの書架、テーブルやベッドなどの家具類、いくつかのトレーニング機器がそのままにされている。
「……」
 埃の上に靴跡があった。辿る。同じ靴底で複数の足跡。おそらくは日を変え、何度も訪れている。中央のテーブルにはバーボンと日本酒の瓶が置かれていた。飲みかけで、ほとんど埃も付着していない。テーブルも綺麗だった。
 瓶と並んだ卓上カレンダーを手に取る。日付に丸印がついていた。二日続いては三日空き、一日つけば一週間途切れ、規則性は見出だせなかった。印は一箇月ほど前で終わっていた。
 キッチンの前に立つ。広げた布巾の上に洗われたロックグラスが伏している——ふたつ。
 誰かが、ここでひっそりと酒を飲んでいる。
 それくらいは何でもない。隼人もしないではない。けれども、主人もいない閉ざされた部屋に誰が。
 身内ならわかるが、ミチルは違う。早乙女博士はいつも下駄だ。ほかの所員だろうか。達人という男は皆に慕われているようだった。悼む気持ちはそれぞれにあるだろう。
 順当に考えるならそうだった。
 しかし、隼人には違う答えがすでにあった。
「……竜馬」
 間違いない。
 それを確かめるために、ここに来たのだった。

   †   †   †

 蛍光灯の強い白色が目に染みて、竜馬は目蓋を再び閉じた。
 ——ここは。
 人の気配がする。規則的な電子音、アルコールの匂い。背中には硬いベッド。
 処置室にいるのだと気づく。
 ——どっち・・・だ。
 ゆっくり目を開けて何度かまばたきをする。
 無機質な天井と、その隅に監視カメラ。
 ふと懐かしさを覚える。
 人生が変わった「あの日」。早乙女研究所の天井。
 けれども、今の自分は違う。達人が遺したものを受け取った。
 ヒーローになりたいわけでもないし、安い正義感や青臭い使命感に駆られるほど純粋でもない。だが約束した以上はゲッターロボに乗り、闘うのだ。
 いつか塵芥となって地獄に行くまでは。
 ——闘う。
 竜馬にとっては呼吸と同じで、生きることそのものだった。研究所ここに来て、はっきりとわかった。理由はいらない。
 もちろん、達人の遺志を守りたい気持ちや、いたずらに誰かが死んでいくのを見過ごしたくない思いもあった。しかし、それが強烈な動機づけになるものではなかった。
 達人が死ななくても、存在しなくても、おそらくは闘っている。ゲッターロボが目の前にあれば、乗っている。
 ——俺らしいって……そういうことなンだろうな。
 今まで、こんなにも自分の心と向き合うことはなかった。新宿にいた頃がやけに遠く感じる。
「竜馬」
 ふと達人の声がして、竜馬の息が跳ねる。ぎこちなく左へ顔を動かすと、達人が微笑んでいた。
「どうだ、どこか違和感はないか」
「——あ」
 うまく言葉が出ない。
 ——達人。
 竜馬の唇の動きに答える。
「急に倒れたんだ。幸い、頭もぶつけていないし、ケガもしていない」
「…………悪ぃ」
 達人の無事への安堵と心配をかけたことへの心苦しさから、竜馬は深い溜息をついた。
「気にするな。優秀なパイロットは人類の希望だからな」
 事もなげな返事に、竜馬はそうだな、と合わせる。
「できる範囲のメディカルチェックはやった。問題はなさそうだが、少しでもおかしいと感じることがあったら言え」
 竜馬は横たわったまま拳を握り、膝を曲げて脚を蹴り出す。いくつか動作を確かめ、大丈夫だと伝えた。
「そうか、よかった」
 達人が心底ほっとしたように目を閉じた。竜馬は見つめる。
 どんな形であれ、達人が喜ぶならそれでよかった。流竜馬としてではなく「ゲッターロボのパイロット」という存在でも。
「鬼にならなくてよかっただろ?」
 だからいつも通りの軽口を叩く。
 瞬間、達人が強張る。
 ——え。
 つと達人が顔を背けた。
 わずかな時間、電子の脈拍音が室内を支配する。
「……達人?」
 白衣の肩がぴくりと動いた。次いで「ああ」と掠れた声が押し出された。
「そうだな……」
 振り向いて、達人は竜馬の左頬に右手を添えた。ぬくもりが広がる。
「達——」
「お前が鬼にならなくて……よかった」
 薄く笑ってはいるが苦しそうで、竜馬は不安に駆られる。
「達人……?」
 だがすぐに柔和な表情に戻る。
「いや、済まない。お前に心配されたんじゃ、あべこべだ」
「……」
「バイタルデータは遠隔でチェックしているから、何かあったらすぐにわかる。お前はこのまま休め。いいな」
 竜馬は頷く。達人の手はそのままするりと上に滑り、頭を撫でた。
「……ガキじゃあるめえし」
 そうは言いながら大きな手をしばらく自由にさせる。指の感触が心地いい。芽生えた不安が少しずつほぐれていくようだった。
「おやすみ」
 最後に髪の毛をくしゃりと弄び、達人の体温が離れる。
「……ああ、おやすみ」
 竜馬も答える。
 達人が背を向けた。
 大きな背中——竜馬の、大好きな。
 ——俺とは違う。背負ってるものが、重すぎる。
 それでも達人はいつも笑っている。
 強い男だ、と思う。
 ——だから、きっと。
 機器を確認し、達人は振り向かず出ていく。竜馬はその背中が視界から消えるまで見つめ、やがて目を閉じた。
 願う。
 いつまで続くかわからないこの世界で、最期に見るのが、触れるのが、達人であればいい——。

   †   †   †

 竜馬が倒れてから二日後の夜。ミチルは隼人を呼び出した。
「この前言っていたプロトゲッターのパイロットたちの検査データなんだけど」
 首を横に振る。
「参考になりそうなものはなかった。その代わり」
 ミチルは紙の束を差し出す。
「流君の検査結果よ」
 隼人はパラパラとめくりながら素早く目を走らせる。
「異常なし、健康体か」
「最後の二枚を見て」
「……これか」
 脳波グラフだった。隼人の細い眉がぴくりと上がる。
αアルファθシータδデルタ…………βベータ? ここでも起きないのか?」
 グラフを指でなぞり、ある一点で止めた。
「おかしいでしょ? ここで完全に脳は覚醒しているの。それなのに、目覚めない」
「そんなことが——レム睡眠じゃなくてか」
「違うわ。現に、グラフがそうなってるのよ。意識消失でも睡眠中でもない。薬物反応や腫瘍、出血もない。原因は見当たらない」
「……つまり」
「彼の脳だけが起きて、どこかの世界をさまよっている、って言えばいいのかしらね」
 にわかには信じられなかった。
「博士の見解は?」
「父は……気にしていない」
 ミチルから溜息が漏れた。
「何?」
「笑っちゃうでしょ、ゲッターのパイロットなのに。『心配いらない』ですって」
 呆れたように赤い唇が歪む。
 報告を受けたときは確かに驚いていた。しかし様子を聞くと、すぐに平静を取り戻した。
「どういうことだ?」
「さあ……。流君の頑丈さを過信しているのか、それとも」
 ミチルは上目遣いで隼人を見た。
「……原因を知っているか」
 隼人の言葉に頷く。
「どこにも出していないデータがあるんじゃないかしら」
 爪を噛む。
「また、泥棒の真似事ね」
 自虐的に言った。

 

 翌日、竜馬が目覚めた。
 所員の連絡を受け、ミチルと隼人がすぐさま駆けつける。ふたりを見ると竜馬は呑気に「よう」と言った。
「お前」
 隼人が続けようとして口をつぐむ。
「あンだよ、そのツラ
 竜馬はニヤリと笑う。ミチルが割り入った。
「自分の名前と年齢、生年月日を言って」
「は? おめえ、何言って」
「いいから言いなさい!」
 有無を言わさぬ強い口調と眼差しだった。竜馬は気圧され唾を飲む。
「さあ!」
「わ、わあったよ。流竜馬、二十歳。生年月日は——」
 おとなしく従った。
 十分後、廊下を歩きながらミチルと隼人が言葉を交わす。
「受け答えも問題なさそうね。でも、もう少し検査が必要だし体力も落ちているでしょうから、しばらくはイーグル号はオートにするわ。神君、お願いね」
「ああ」
「それと、父の部屋に妙なレポートがあったの」
「妙?」
「兄が搭乗したプロトゲッターの起動実験のレポートなんだけど、ざっと確認した限り、報告にあがっているものと別物なのよ」
「何」
「正確に言うと、研究開発に必要な最低限の報告しかしていない。父が独自に調べて得たデータがそのまま死蔵されているの」
「博士しか知らないデータということか」
「そう。紙の現物しか見当たらないから、持ち出すのはちょっと、ね。もう少し時間があればコピーを取って全部確認できると思う」
「わかった」
 ふたりが去って少し経った頃、弁慶がひょっこり顔を出した。
「竜馬ぁ」
「……あンだよ」
「あー」
 弁慶は何か気の利いたことを言おうとして視線を上に向けた。だが何も思い浮かばなかったようで、無言で傍らの椅子に腰を下ろした。
「とりあえず、見舞いだ、見舞い」
 へへっと笑う。
「ンなことされるようなモンでもねえよ」
 竜馬はそっぽを向く。
「でもよぉ、三日も意識が戻らなかったんだぜ。ただごとじゃねえだろ」
「見ろ、ピンピンしてンだろ。たいしたことじゃねえよ」
「……お前、素直じゃねえなあ」
 弁慶の巨体から大きな溜息が吐き出される。
「みんな、心配したんだぜ」
「……」
 おう、とも悪かったな、とも言えず、竜馬は口をへの字に曲げた。素直になるのはどこか負けた気がして——なぜかわからなかったが——難しかった。
 ——達人の前では気を許せるのに。
 意地を張っているのだろうか。心を許す価値のない相手だと思っているのだろうか。
 ——ンなの、わかンねえよ。
 ちろりと見る。
 目が合うと、弁慶はニカッと笑った。陽気さが溢れる。どう返せばいいのかわからず、竜馬は再び顔を背けた。
 沈黙が下りる。
 弁慶は何があったか訊くでもなく、そこにいた。
「……なあ」
 ようやく竜馬が口を開く。
「あれがしてえ、これが食いてえってえいうのは、ボンノーって言うんだろ」
 弁慶はくりくりとした目を何度かまばたきさせてから、大きく頷いた。
「ああ、そうだ」
「……それって、悪ぃことなのかよ」
「えっ」
「たとえば、誰かを助けてえと思うことも、悪ぃことなのかよ」
 問う竜馬の表情は落ち着いている。弁慶は少しの間じっと竜馬を見つめ、やがてゆっくり話し出した。
「何かしたいっていう欲の気持ちは確かに煩悩だ。でも、煩悩ってなくならないんだぜ」
「……え」
「人間は仏じゃないから、煩悩はあって当たり前、消すことはできない。けどよぉ、そこをコントロールするのが大事なんだよ。人を助けたいっていうのは慈悲の心だ。それって、仏が宿っている証だと思うぜ」
 仏、と竜馬は胸の内で呟いた。自分とは縁遠い言葉だ。
「なあ、弁慶。もう一度、やり直せるとしたら」
「……?」
「……あのときに戻って、仲間を助けてえって思うか」
 弁慶は息を呑み、それから「ああ」と力強く答えた。
「でも、戻れない。だからゲッターに乗って鬼どもをやっつけて、仇を討ちたい」
「……」
「竜馬、和尚や仲間の仇を討ちたいっていうのも、煩悩だぜ」
「ジヒなのかよ、それとも、よくねえボンノーなのかよ」
 弁慶は「うーん」と唸り天井を睨んで考える。
「……そうだなあ」
 腕組みをする。珍しく、いつもの眠気はなりを潜めているらしかった。それだけ本気で考えているのだろう。
「悪いことだとは俺は思わねえ。ただ、それだけに囚われていると周りが見えなくなっちまって、悪い方向に進むんだと思う」
「……」
「囚われる」という言葉が重く響いた。
 ——俺は。
 囚われているのだろうか。
 やり直せるチャンスがあった。すぐさま飛びついて、今も必死にしがみついている。引き換えに、現実世界を軽んじているのだろうか。
「みんな」を守るのだと諭された。
 ——わかって、いる。
 早乙女博士が言っていた。ゲッターロボは心を合わせて乗るものなのだと。三人の心を合わせるのだと。
 ——達人も。
 そう、言っていた。
 朗らかな笑顔を思い出す。
「……竜馬?」
 弁慶が心配そうに顔を寄せる。
「……何でもねえよ」
 かぶりを振って平然を装う。
 ——それでも、俺は。
 どうしても達人を諦められなかった。

「あのくらいの竜馬が、しおらしくてちょうどいいのになぁ」
 弁慶がへらっと笑う。途端にミチルの「武蔵坊君」という冷たい声が飛んだ。
「いや、ミチルさん! 今のはほら、言葉のあやってもんで」
 あたふたと手を振って否定する。ミチルはふう、と息をついて腰に手を当てる。
「なら、最初から言わないでくれるかしら」
「悪かったよう」
 大男はシュンと項垂れた。
「やっぱりよぉ」
 それから零す。
「竜馬はよぉ、もちろんムカつくこともあるけどもよ、ギャンギャン煩くないとこっちの調子が出ねえや。……隼人もそう思うだろ?」
 弁慶が右側を見る。孤高を気取るように佇む男は、口を開く代わりにフン、と鼻を鳴らした。
「三人、揃う必要があるのよ」
 ミチルは交互にふたりを見つめた。

 

 五 章   破 綻

 飛び起きる。
 喉がカラカラだった。汗で額に、頬に、髪の毛がべったり張りつく。胸の中がひどくむかついている。
「う——」
 胃の内容物がごぽごぽと逆流してくる。竜馬はベッドから飛び降り、トイレに駆け込んだ。
「う、げえ……っ」
 どろどろになった夕飯と、やがて胃液が迫り上がってきた。
「ぐう……っ、げほっ……」
 何度も嘔吐する。そのたびに涙と鼻水も流れ出る。苦しさからなおも吐き戻す。
 ——また。
 達人が死んだ。
 繰り返される。
 幾度も、幾度も。
 助けが間に合わない。竜馬を、ミチルをかばって目の前で死ぬ。鬼になって、やむなく竜馬に殺される。ゲッター1の攻防の煽りを食って——。
 ——俺が……達人を殺している。
 守るために乗っているはずなのに、そのゲッターのせいで達人が死んでいる。
 ——嫌だ。
 夢だとしても自分が許せなかった。
 目覚めて、どちらの世界なのかを確認する。悪夢が現実ではない・・・・・・ことを確かめる。達人が生きている・・・・・とわかるまで、何をしても気が気ではなかった。

 狂いそうだった。

   †   †   †

「竜馬! 何度言ったらわかる!」
「いちいち指図すンじゃねえ!」
 鬼獣を前に竜馬と隼人の言い合いが続く。倒れてから、竜馬は以前にも増して頑なになった。視野も狭まり、とにかく真正面から攻撃を仕掛けて力任せに叩き潰そうとする。
「おめえらがいなくても勝てる」
「俺ひとりで、やれるさ」
 呪文のように呟く。
 口が悪く喧嘩っ早いが、あっけらかんとして裏表のないのが竜馬だった。それがいつしか、俯き加減で重苦しい空気をまとった男になっていた。もう闘いを楽しむ余裕もない。ただ、戦闘の際に尋常ではない殺気が爆発的に膨れ上がるだけだった。
 弁慶も異様な雰囲気をひしひしと感じ取っていた。
「竜馬、待て!」
 その声は届かない。
「うおおおぉぉッ‼︎」
 雄叫びをあげながら鬼獣に突っ込む。
「竜馬‼︎」
 隼人が怒鳴った直後、鬼獣の口から巨大な光弾が放たれた。
「ぐあッ‼︎」
 腕でガードをするが、吹き飛ばされる。
「……ちくしょう!」
 竜馬の目は血走っていた。息も荒く、まるで獲物にとどめを刺す間際の昂った肉食動物のようだった。
「竜馬! 一旦離れろ!」
「うるせえっ! 隼人の言うことなンか——」
 目の端に何かが入ったのに気づいて止まる。
「——」
 首をゆっくり巡らす。
「……ッ!」
 研究所だった。
 幸いバリアは消滅していなかった。もしバリアがなかったら、ゲッター1の機体によって建物が崩れていただろう。被害者が出ていたかもしれない。
「————ッ」
 竜馬の全身が強張る。
「あ、あ——」
 ドクンドクンと、脈動の音が急速に大きくなり頭の中に響く。その奥から不快な金属音に似た耳鳴りが聞こえてくる。
 ——達人!
「夢」で見た。
 地についたこの手をどけると、瓦礫と、その下に数名の所員に混じって達人の姿が——。
『流君‼︎』
「竜馬⁉︎」
「う……はあっ、はあっ」
 操縦桿を握る手に力が入らない。
「竜馬! 鬼獣が!」
 弁慶が呼ぶ。それでも竜馬は動けないでいた。
「イーグル号をオートに切り替えろ‼︎」
 隼人が叫んだ。
『——いいわ! 神君!』
「オープンゲット! 弁慶! ゲッター3で押し戻せ!」
「わ、わかった‼︎」
 誰の目にも竜馬の異変は明らかだった。しかし今は鬼獣を倒すのが先だった。
「この野郎! 大雪山おろしっ‼︎」
 ゲッター3は鬼獣を投げ飛ばし、追尾のミサイルを撃ち込む。
「隼人、代われ! オープンゲット!」
「おう!」
 ゲッター2で追撃する。そのままドリルアームで頭部を粉砕し、戦闘が終わった。

 格納庫に戻っても、竜馬が降りてこなかった。
「中でへばってんのかなぁ……」
 弁慶が心配そうにカタパルトを見上げる。モニタに映る竜馬は終始俯いていた。
「……見てこよう」
 隼人はイーグル号に向かった。
「竜馬」
 外からキャノピーを開けると、操縦桿を握ったまま竜馬がわなないていた。
「……竜馬」
 腕を取ると、身体が跳ねる。
「う……う、あ」
「しっかりしろ」
 ヘルメットを脱がす。竜馬が目をいっぱいに見開いてこちらを向いた。隼人の口元から舌打ちが漏れる。
「おい!」左頬をはたく。
「——ッ」
「竜馬!」
「……あ」
 今度は軽く叩く。
「あ……はや、と」
 瞳はまだふらついている。
「隼人……俺……?」
「鬼獣は倒した」
「鬼獣——」
 再び竜馬の瞳孔が開く。
「ゲッターに乗せろ!」
 隼人の手首を掴む。
「闘わせろ!」
「竜馬! ……つうっ!」
 折れそうなほど強い力だった。
「ゲッターに乗って、闘って、俺は勝たなきゃいけねえンだ!」
 錯乱したように叫んだ。隼人は素早く手首を返し、逆に竜馬の手を掴む。ねじりながらぎりぎりと指に力を込める。
「う——あッ!」
 竜馬の顔が歪んだ。
「何のために?」
 隼人が問う。
「くッ!」
「なあ、竜馬」
「うッ……勝たねえと……勝たねえと、俺はっ……!」
 双眸が哀しげに細められた。
「達人のために?」
「————ッ」
 竜馬が動きを止めた。
 ——達人。
「あ…………あ……う」
 ——俺は、達人を。
「竜馬! しっかりしろ!」
 肩を揺さぶる。竜馬の瞳はここではないほかの場所をさまよっているかのように焦点が合わず、光なく不気味に淀んでいた。
「竜馬‼︎」
「……た……つひ……」
 小さくその人の名前を呼び、竜馬は崩れ落ちた。

   †   †   †

「少し立ち入ったことを訊ねるかもしれないけど、こういう事態だからわかってちょうだい」
 ミチルの声は硬い。
「何でもいいわ。流君の様子で変だと思ったことがあれば、教えてくれないかしら」
 見つめられ、弁慶は下を向いた。
「武蔵坊君?」
「何か、あるんだろう?」
 右側をちらりと見ると、隼人が目で促してきた。
「……」
 視線を膝の上に戻す。
「どんなことでもいいの。流君の状態を知る手掛かりが欲しいのよ」
「正直、あんまり言いたくねえんだよな」
 弁慶は素直に答えた。
 頭には申し訳なさそうな竜馬の顔が浮かんでいた。その何日か後で、すっきりした表情で礼を言われた。たぶん、竜馬の中ではひとつ踏ん切りがついたのだ。事の大小はわからない。それが竜馬にとってどんな意味を持つのかも。
 それでも、人の秘密に触れるようなことを話すのは気が引けた。
「どうしても、か」
 隼人が訊く。
「俺たちがそれぞれ見聞きしたものを合わせれば、竜馬を救う手掛かりがあるかもしれん。それでもか」
「竜馬のため」を持ち出されると弱かった。
「……竜馬には後で謝るさ」
 はあ、と弁慶は大きな溜息をつくと夢の話を訊かれたと答えた。
「もう……二箇月ちょっと前にもなるかな。仲間や和尚の夢を見るか、俺が引導を渡した場面も見るか、と。あいつにしちゃ、妙に真剣でよぉ」
 ミチルと隼人は顔を見合わせた。
「そう。武蔵坊君、どうもありがとう」
「いや、いいんだ」
「おそらく、時系列としてはそれが最初ね」
 弁慶は首を傾げた。
「きっと、流君は私の兄を助けようとする夢を見ている」
「ミチルさんの……兄さん?」
「ええ。私、兄が——ああ、そう、この人」
 弁慶の視線がデスク上の家族写真に向けられているのに気づく。
「父と一緒にゲッター線の研究をしていたんだけど、流君が研究所ここに来てすぐに——」
「知ってる」
 弁慶の言葉にふたりが意外そうに目を大きくした。
「こんなときにちょっとあれだけど……長くいるっていう食堂のおばちゃんにミチルさんの好物とか訊いたことがあるんだ。そのときに」
「……そう」
「申し訳ない」
「別に、謝ることじゃないわ」
 深々と頭を下げた弁慶にミチルが言った。
「そういえば」弁慶がはっとして顔を上げる。
「どうしたの」
「…………誰かを助けたいと思うことも、煩悩なのか……悪いことなのかって、竜馬が」
「いつ?」
「三日間意識がなくて、その後、目覚めてから」
「そう」
「もう一度、やり直せるとしたら——」
 竜馬はどんな気持ちだったのか。
「そう、言ってた」
 ミチルは頷いて手元のファイルを開いた。
「私と神君も、流君の不可解な言動に遭遇している」
 特に達人の部屋の場所やパスコードは、じかに本人から聞いたとしか思えない。ほかにも、限られた人間しか知らない場所で竜馬を見かけたという報告をいくつか受けていた。
「状況から考えるに、流君はリアルな夢を見ている。この現実の世界と同じくらいのね。そこには私の兄が生きていて・・・・・、流君は兄が死なない・・・・世界を構築しようとして——」
 弁慶が席を立つ。
「俺、もういいかな」
 隼人がどうした、と問うと、
「その話、俺があんまり知る必要はないかなって。それに、難しい話になると寝ちまうしな」
 ファイルを指差して笑った。
「義理堅いな」
「もう話しちまったからな、全然だ。何かあったら教えてくれればいいし、必要なら呼んでくれ」
 右手をひらひら振って、弁慶は部屋を出ていった。
「……まあ、勝手な推測でしかないから、するほうもされるほうも、楽しい気分にはならないわね」
 ミチルは閉じた扉を見つめる。
「現状を把握するのが第一だ。感情は必要ない」
 隼人が事もなげに言った。ミチルはその冷静な面持ちを少しの間、眺める。それから自分に言い聞かせるように「そうね」とぽつりと零した。
「……それで、このレポートなんだけど」
 ファイルを見せる。
「これは」
 隼人の顔色が変わる。
 ゲッター線が心身へ及ぼす影響について書かれていた。まさしく隼人が求めていたものだ。
 プロトゲッターは出力の制御がうまくいかず、実験中に何度か暴走を起こしていた。程度の差はあれ、パイロットは通常よりも短時間でより多くのゲッター線を浴びてしまう。報告書では、パイロットは過度のアドレナリンが検出されたくらいで、健康上は特に問題はないとあった。
 だが綴じられた用紙には詳細な聞き取りと身体検査の結果が記録されていた。パイロットは早乙女達人。
 手書きの、癖の強い文字が走る。
「これが最初の——一番ひどい暴走事故のとき」
「夢に死者が出てくる……?」
 隼人は思わず口に出した。
「ええ。炉心開発中の事故で亡くなった技術者や、実験中に亡くなったパイロットたちが時折現れたそうよ。……現実と同じリアルさで」
 しかも、その際の脳波は覚醒状態を示していた。
「流君のように前後不覚にはならなかったけれど、同じ現象だと思う」
 夢だけではなく、覚醒時にも彼らは出現したという。
「姿が見えるときも、声だけのときもあったみたい。ほとんどすぐに消えてしまって、言葉も不明瞭。でも」
 ある箇所を指差す。隼人が読み上げる。
「ゲッター、パワー、倖せだ、ありえない力が、もっと、お前も早く——」
「断片的に聞き取れたワードよ」
「『倖せ』?」
「そう」
 ミチルはページをめくる。
「これが暴走直後の検査結果」
 神経伝達物質や脳内ホルモンの分泌量が異常に増えていた。
「セロトニン、βベータエンドルフィン、ドーパミン、オキシトシン——フン、オンパレードじゃないか」
「ドラッグでトリップしているかのような、いわゆる多幸感を感じていたと思われる。それが日が経つと徐々に減り、通常レベルに戻る。同時に、夢も見なくなる」
 達人は七日で元の状態に戻っていた。
「ゲッター線を多量に浴びると多幸感に包まれると?」
「ええ。兄も万能感や多幸感があると答えている。正直、リアルな死者の夢がこれらの過剰分泌のせいなのかはわからない。でも、根本的にゲッター線の仕業なのだとしたら、ワードとは繋がるわ」
「しかし」
 隼人は竜馬の様子を思い返す。
「あの闘いぶりは万能感どころか、ただの無茶だ。がむしゃらに突っ込んでいただけだ。それに、何にでも噛みつくような煩い男が、終いには部屋の隅でひとりぶつくさ言うような陰気な男になっていたじゃないか」
 イーグル号の中で怯えていた竜馬。絶望感すら滲ませた悲愴な顔つきが忘れられない。
 あの、孤独で哀しげな瞳。
「多幸感なんてあるわけがない」
 端正な顔を歪めて吐き捨てた。ミチルがむっとする。
「ちょっと、私に当たらないでくれる?」
「——」
「心配なのはわかるけど、これは」
「誰が——」
 心配など。
 言いかけて口をつぐむ。自ら「感情は必要ない」と述べておいて、やり場のない苛立ちから今し方言葉を投げつけたばかりではないか。
 誰も頼ろうとせず、心が剥がれ落ちていくような竜馬を見ているしかできなかった。
 隼人は居心地の悪さを感じていた。それは、何もできないでいる自分たちへの虚しさ、不甲斐なさからだったのかもしれない。
「いや……済まない」
「いいのよ。いくら調べたって、結局は推測でしかないし、原因がわかったとしても、どうすれば流君が戻ってこられるかもわからない。苛々するのも当然よ。でも……待つしかないのよ」
「……ああ」
 隼人はレポートの文字に視線を落とした。

 

 十日経っても竜馬は目覚めなかった。

 

 隼人は弁慶の部屋を訪ねた。
 入ってすぐ、風呂敷の包みが目について立ち止まる。
「ああ、これか」
 弁慶は包みを解く。ポテトチップスの袋が溢れ出てきた。
「……何だこれは」
 同じような包みがもうひとつあった。眉毛を下げて弁慶が頭をかく。
「竜馬が早くよくなるようにと思ってよう、ポテチ断ちしてたんだ。けどよぉ、いつもの癖でつい買っちまって」
「……」
 隼人はしゃがんで一袋を手に取る。
「なあ、これ持っていってくれよ」
 弁慶が何袋かを押しつける。隼人の眉間に皺が寄った。
「後で竜馬と食えばいいだろう? 俺はこういうのは好かん」
「でもよぉ、ここにあるとうっかり食っちまいそうで」
 でへへ、とおどける。
「……」
 そうではないのだろう、と隼人は思う。竜馬が目覚めなければ、この山は増える。少しずつ希望を食い潰しながら不安が肥大化していく様を眺めるのは、誰だって嫌だ。
「……食堂に置いて、好きな奴に持っていってもらおう」
「ああ、それがいいな! さっすが隼人」
「厨房に行けば食材が入っていた段ボールがもらえる。それに一言書いて置いておけばいい」
「そうするよ」
 弁慶は安心したように息を吐いて、菓子の袋を風呂敷で包み直す。
「……ところでよう」
「何だ」
「竜馬は……どうなっちまうんだ」
 きゅ、と風呂敷の端を縛る。
「……わからん」
 隼人は無愛想に返して、立ち上がる。
「前々回は一日、前回は三日。今回はすでに十日も経っている。身体は健康そのもので、脳も起きている状態なんだ。ただ」
「ただ?」
こっちの世界・・・・・・で目覚めない」
 帰れないのか。
 帰りたくないのか。
「……ミチルさんが言ってたことだけどよぉ」
「ああ」
「……どんな夢見てんのかわからねえけどよぉ…………ずっとひとりはしんどいよなあ」 
 弁慶は風呂敷包みをそっと撫でた。
「俺……研究所ここに来なかったら、どうなってたんだろうな」
「……」
「お前たちと会ってなかったら、どうなってたんだろうな」
「……さあな」
 沈黙が流れた。
 やがて、弁慶も立ち上がった。
「……んで、隼人の用事って、何なんだ?」
「何?」
「用があって来たんだろ」
 隼人は虚をつかれたように固まった。
「隼人?」
「…………」
「もしかして、特に用はなかったのか?」
「……悪いか」
 肯定の代わりに悪態をついた。
「へへ、珍しいな」
 弁慶が笑う。
「……あの馬鹿とつきあっていれば、たまにはこういうときもあるさ」
「お前も、竜馬と一緒だな」
「何だと」
「素直じゃねえってことだ」
「——」
 隼人はふいと顔を背け、小さく舌打ちをした。

   †   †   †

 暗がりに目を凝らす。
 何も見えない。
 手を伸ばす。
 自分の指先が闇に沈んで消えた。
 既視感のある世界だった。
 身体の形通りの空間しか感じない。かと思うと、果てのない広がりに放り出されて漂っているかのような心細さも感じる。
 まるで空間のひずみに閉じ込められたようだった。自分の焦りと迷いが生み出した世界なのだろうか、と竜馬は考える。
 諦めを受け入れたのなら、押し潰されて闇に溶けてしまうのだろうか。
 ——それも、いいかもしれねえ。
 達人は救えない。
 死者は死者であり、二度と生き返らない。夢の世界で生命を永らえても所詮はまやかしで、現実にはなりえない。
 ——それでも。
 いつかどこかで綻びると、頭の片隅では思っていた。けれどもそれを運命だとは認めたくなくて、抗った。
 ——それでも、俺は。
 達人が好きだった。
 一目で惹かれた。
 達人の眼差しは値踏みをしなかったし、まっすぐで力強く、温かかった。
 普段から向けられる視線のほとんどが恐怖と敵意だっただけに、竜馬は敏感に悟った。達人はどこの馬の骨ともわからない人間を信頼し、生命を賭して守ってくれたのだ。
 それが嬉しかった。
 夢の中で達人と向き合うたび、自分の心が裸にされていくようだった。他人をもっと知りたいと——ずっと一緒にいたいと、初めて思った。
「たつひと」
 呟いてみる。
 声は唇から零れた瞬間に余韻も残さず暗がりに吸い込まれた。
 ただ静寂が横たわる。
 竜馬は溜息をついて、目を閉じた。
 嫌な夢だ。
 だが、ここには自分ひとりだ。達人はいない。今、目の前で死んでしまうことは、ない。ほんの少しだけ安心して、すぐにそう感じた自分を情けなく思った。
「竜馬」
 不意に呼ばれる。
「達人」 
 確認するより早く、男の名を口にした。
 振り向くと果たして、白衣姿の達人が闇の中に浮かび上がっていた。
「何で、おめえ——」
 誘うようにすっと達人の右手が差し出された。
「……達人?」
「竜馬」
 微笑む。
「おいで」
「え……」
「一緒にいよう」
 大きな手が、竜馬を待つ。
「…………」
 竜馬は達人の手のひらと顔を見比べる。達人はいつものように、優しげな眼差し。
「ずっと、ふたりきりでいられるところに行こう」
「……ずっと?」
「ああ」
 達人が頷く。
 願ってもないことだった。
 もとより、生命くらいしか捨てるものなどない。
 何もかも忘れて、達人とふたりで夢の狭間にでも永遠に閉じ込められるのなら、そのほうが倖せだろう。
 ——もう一度。
 触れて欲しい。抱きしめて欲しい。
 竜馬が一歩踏み出す。達人はさらに手を伸ばす。
 ——ずっと。
 傍にいたい。
 応えるように竜馬が左手を前に出す。
 ——行く先は……地獄なンだろうか。
 ぼんやりと思った。
 ——そうだな、きっと。
 指が触れ合う寸前。
 ふと、竜馬が止まる。
「竜馬?」
 訝しげに達人が問う。
「……あれ?」
 ——地獄。
 達人の最期がよみがえる。
 ——ゲッターロボと、俺を守って……。
 いつか、言っていた。
『お前は生きてくれ』と。
 達人の目を見る。
 ふたつの瞳がまばたきもせず竜馬を捉えている。その奥に、ほのかな緑色の光が炎のように揺らめいていた。
 竜馬は反射的に手を引っ込めた。
 ——違う。
 達人ではない。
 直感だった。
「どうした、竜馬」
 甘えたくなる、達人の声。
 ——これは「ただの夢」だ。
 達人のいるあの世界・・・・ではなく、混乱した自分が見ている夢なのだ。
 言い聞かせる。
「竜馬」
 哀しげに顔を歪め、達人の姿が霧散した。
「……ッ」
 きらきらとした緑翠色の小さな光の粒が蛍の群れのように竜馬の身体にまとわりつき、やがて闇に溶けて消えた。
 竜馬は俯く。
 胸のずうっと深い場所がひりひりしていた。

 このままでいいはずがない。

 わかるのはそれだけだった。

   †   †   †

 逡巡したのち、竜馬はインターホンを押した。
『……竜馬か、入れ』
 掠れた声が返ってきた。中からロックが解除され、自動扉が開く。
 室内は暗かった。複数のモニタ画面だけが光を放ち、盛んに文字と数字を吐き出している。
「……達人?」
 達人はデスクで何か考え込んでいるようだった。ちらりと竜馬を見てわずかに微笑む。だが、記憶にある朗らかな笑みとは明らかに違っていた。鬱々としているのは暗がりのせいだけだろうか。
 竜馬は歩を進め、達人の前に立った。目は見ない。
「どうした? 眠れないのか?」
 それでも達人は優しく迎える。
「……ああ」
 眠ったら、もう会えないかもしれない。
 もしまた会えたら、今度こそ離れがたくなる。
「……ッ」
 胸が苦しい。
 達人への思慕が膨れ上がりすぎて身動きができない。
 窒息しそうだった。
 ——本当に、溺れ死ねたらいいのに。
 今ならばきっと、そのほうが倖せだ。
「竜馬?」
 いつまでも黙っている男に異変を感じたのか、達人が不審そうに訊ねる。
「……達人」
 もう、どうにもならない。
 終わらせるべきだ——。
 竜馬はさらに一歩踏み出す。達人の膝の間に身体を入れると、手を伸ばし彼の首にかけた。
「——」
 達人の喉が唾を飲み込み、上下する。竜馬は息を止める。
 位置を誤らなければ、体躯のいい達人であってもすぐに気を失うだろう。苦しみは続かないはずだ。
 力を込めるだけでいい。
 鬼を殺すように——いつものように、ひと思いに。
「————ッ」
 しかし、できない。
 竜馬の指先はただの小枝のように達人の首に添えられているだけだった。脈動が、達人の生命が確かにあることを伝えてくる。
「……そんなんじゃ、殺せないだろう?」
 言われ、竜馬はびくりと身体を震わせた。
「う…………は、……はぁっ」
 うまく呼吸ができない。
「お前なら、簡単だろう? ただ、力を入れればいい」
 達人の顔つきはすべてを受け入れた穏やかさに満ちていた。
「う……く、俺、は」
「何をためらう」
「俺は……達人…………アンタを」
 天井を仰ぐ。
「……俺は、アンタが」
 ——失いたくない。
 思いを振り絞る。
「アンタが……好き、なンだ」
「————」
 告白に、達人の双眸が見開かれた。
「竜馬、お前」
「達人」
 竜馬は達人を見つめてから、こつりと額を合わせた。
「達人、アンタ、科学者だろ? 頭いいんだろ? 笑うなよ」
 声が上擦る。
「この世界は、俺の夢なンだ。アンタは、鬼に噛まれた。それで鬼になった。でも、ギリギリでこらえて、敵を押さえつけて」
 守った。
 ゲッターロボと、流竜馬を。
「だから、俺がゲッターに乗って、アンタを——アンタを」
 達人の手が竜馬の手に重ねられた。
「誰も、誰も俺を責めない。ほかに道はなかったと。わかってる。……けど、俺は」
「俺を、恨まないのか」
「——何で、俺が。アンタを」
 思わず顔を離す。
「身勝手にお前を巻き込んで、ゲッターロボとこの闘いを押しつけた」
 竜馬は即座に首を振って否定する。
「そりゃあとんでもねえ世界に連れてこられたとは思った。今だってワケわかンねえよ。……でもよ、新宿マチにいるときと変わらねえ」
「変わらない?」
「ああ。結局はタマの奪り合いだ——規模がでけえってだけの。だから、退屈はしねえ」
 あのまま混沌とした街で暮らしていたら、きっといつか野垂れ死んでいただろう。もちろん、ヤクザやチンピラ崩れの半端者に殺されるとは思っていない。
 ただ、人は死ぬ。
 脆いくらい簡単に。
 適当に生きて死ぬのも自分らしいが、今のように前のめりで生き急ぐのも悪くない。
「選ばれちまったンなら仕方ねえし、そもそも闘う目的なんかねえ。……ただよ、ケンカ売られたら、男なら買うだろ?」
「…………そうだな」
「俺はアンタといて、俺の生き方がわかった気がする」
 悩むより目の前の壁をぶち壊して進む生き方が性に合っている。失敗して死ぬのなら、それも仕方ない。
「簡単に死ぬ気はねえけどよ……鬼との闘いでヘマして死ンじまっても、アンタは許してくれるか?」
 竜馬の問いに達人はぐっと口を真一文字に結び、それから答えた。心なしか、声に震えが混じっている。
「俺にはお前を許す資格なんか、ない」
 その顔が今にも泣き出しそうに歪む。
 達人も苦しんでいたのだと、初めて知った。
「……なあ、達人」
 呼びかける竜馬は平静さを取り戻していた。
「ゲッターロボはアンタから渡されたと思ってる。俺はこんなンだから、アンタのようには闘えない。……けど、地獄でアンタとまた会ったときに、がっかりされるような生き方はしたくねえ。それなのに、どうして恨むなンて——」
「竜馬……」
「俺が、アンタともっといたいと思った。だから死ンだアンタを、いつまでもこうやって縛りつけている。……信じられるか? 俺のいる世界はここじゃなくて、そこにはアンタが」
 ——どこにもいない。
 苦しい現実だった。
「初めはアンタが動いて、喋って、笑ってンのを見ているだけでよかったンだ。…………時々、頭を撫でてくれンのが嬉しかった」
 だが、人は与えられるほどに貪る。「ない」ことに不安を覚え、あるだけ食らい尽くそうとする。求め続ける様は餓鬼だ。何も知らなければ、何も望まなかったのに。
 もう「ない」ことにはできない。それは人という生き物の、哀しい性でありこのうえなく残酷な欠陥だった。
「アンタがいねえ世界は寂しい。けどそれよりも、またアンタを失うのは……もっと耐えられねえ」
「だから、俺を殺そうとしたのか?」
 こくりと頷く。
「何度も……何度もアンタが死ぬ夢を見るンだ。誰かをかばって死ンだり、鬼になっちまって俺が殺したり。俺がゲッター1で闘って研究所ごと潰しちまうことも——」
 様々な死に顔が記憶に残っている。
「アンタを二度と死なせたくなくて……助けてえと思ったのによぉ。そうしようとすればするほど、殺しちまうンだ。……頭がおかしくなっちまいそうだった」
 実際、狂っているのかもしれなかった。
「運命なンて、ぶち壊してやるって言ったのに、このザマだ」
 わずかに口の端を上げるが、瞳には哀しみが湛えられ、零れ落ちそうだった。
「俺はバカだから、この世界の終わらせ方を知らねえ。鬼と闘ってあっさりと逝きゃあいいンだろうが、アンタも知っての通り、身体だけは丈夫なンでね。それに」
 達人の頬を撫でる。
「…………アンタが守ってくれた生命を、ワザと放り出すこともできねえ」
「……竜馬」
 だから、と竜馬は続けた。
「こうすることしか、思い浮かばなかった」
 自分の意志で、自分の手で終わらせる。
 その罪と後悔を永遠に抱え込んで生きていくのがひとつの決着——竜馬が言うところの「オトシマエ」だった。
「…………馬鹿だな」
 達人がぽつりと呟いた。
「……何だよ、だからさっき言ったろ。『俺はバカだから』って」
「いや、お前のことじゃない」
 言うなり竜馬の腰を抱き寄せる。
「——た、つ」
 達人は竜馬の胸元にぐいと額を押しつけた。
「……!」
 腕の中で竜馬が弱々しく身じろぐ。鬼の襲撃に一度も怯まなかった男が。
「馬鹿なのは、俺のほうだ」
 どんな表情なのか竜馬からは見えなかった。ただ、抱きとめている手の大きさと温かさが冷たくなった心を溶かしていく。
「お前に、つらい思いをさせたのは俺のせいだ。……済まない」
「……どういう、ことだ」
「この世界があるのは、俺のせいだ」
 達人はもっと力を込めて竜馬を抱きしめた。

 

 六 章   夢 幻

 ベッドに並んで腰を下ろす。指定席のように達人の右側に竜馬。
「ゲッター線が関与していると思う」
 達人が口を開いた。
 ゲッター線を多量に浴びると、死者の夢や幻覚を見ることがある。
「俺も見たんだ」
 プロトゲッターの暴走の話を聞かせる。
 生者の脳に作用して記憶が現実のごとく再生されているのかもしれないし、死者との意識の共有化が行われているのかもしれない。時空の歪み上に人の思念が具現化されていて、夢を通じてアクセスしているのかもしれない。
「気づいたら、この世界があった。今まで通りに生きている・・・・・。だけど時々『意識だけ』になったり『無』になることもあるんだ」
 竜馬は鼻の頭をかいて「意味わっかンねえけど」と普段と同じ反応をする。
「だろうな」
 これまた笑う達人もいつも通りだった。
「ま、要は俺の未練が強すぎたんだろう。いわゆるユーレイってやつさ」
 まったく事の重大さを感じさせない軽い口調だった。
「そんなにお気楽に言うことかよ」
 さすがに竜馬も呆れる。
「実際、そんなもんだからしょうがないだろ。ただな、頭の奥がちりちりして、時折変になるんだ」
「変?」
「奥のほうに誰かがいるような、俺じゃない何かがいるような——いや」
 続けようとしてかぶりを振る。
「……そんなことは今はいいんだ」
 竜馬を見つめる。
「俺はこの世界で生きている・・・・・とわかって、お前に会いたいと思った」
「……」
「ずっと、お前が気にかかっていた。もしゲッター線のせいだとしたら、また会えるんじゃないかと考え続けていた。……そうしたら、現れたんだ」
 達人は竜馬の腿に右手を乗せた。
「——」
「まるでおとぎ話だ。魔法のようにお前が現れて——科学者の端くれなのに、おかしな言い方だよな——でも、嬉しかった」
 俺も、と答えたかったが、達人のぬくもりを感じているだけで竜馬の胸はいっぱいだった。
「俺のときは、こんなふうに意思の疎通はできなかった。竜馬が俺より大量にゲッター線を浴びているのか、過敏なのか、それとも」
 竜馬の脚に置いた手を頬に伸ばし、指の背でさする。
「ゲッター線に見込まれているからなのか」
「……言ってること……よくわかンねえ、けど」
「ん?」
「……ずいぶん、冷静なユーレイ……だな」
「性分なんでね」
「らしいぜ。……へへ」
 達人の指に、くすぐったそうに目を細める。
「…………なあ」
「何だ」
「俺だけか」
「うん?」
「ミチルや……ジジイにも会ってンのか」
 問いに達人が目を見張り、
「……いいや」
 寂しげに言った。
「何でだよ。ちっとくれえ、顔出してやりゃあいいだろが」
「……そうだな」
「形があるうちだろ。化けて出ておけ」
 竜馬らしい物言いに達人が苦笑する。
「そうだな。お前のことでいっぱいだったんだよ」
「……ッ!」
 一気に顔が火照る。
 面映ゆさに俯く。その頭を達人の手がそっと撫でた。
「面白い男だなと思った。……もっと一緒に生きてみたかった。だから、少しでもこの世界でふたりで過ごしたかった。もし恨まれ、憎まれていても……お前になら殺されてもいいと思っていた」
「そんな」
 ふたりで取り留めのない話をたくさんして、酒を飲んで、食事もして。バイクにも乗ったし当然ゲッターロボで出撃もして——。
 その瞬間の達人の佇まい、表情、息遣いまでもが思い出される。
「…………ユーレイ、なンだな」
 おずおずと左手を達人の腿に伸ばす。
「……触れるのに」
「そうだな」
 達人は頭を撫でていた手を下ろし、ためらいなく竜馬の手に重ねた。
「……!」
 びくりと身体が強張る。
「お前、意外と初心うぶだよな」
 達人がくっくっと笑う。竜馬はぷいと顔を背ける。
「自分はどうなンだよ」
「慣れてるわけないだろ」
 左手で竜馬の顔を自分のほうへ向ける。
 ——あ。
 真摯な眼差しに絡め取られる。
「あんなふうに好きだと言われたこともなけりゃ、誰かとずっと一緒にいたいと思ったこともない」
 瞳に熱が浮かぶ。
「お前が初めてだ」
「たつ——」
 キスをされる。
 ——ああ。
 時間って本当に止まるんだ、と竜馬が頭の隅で妙に冷静な感想を抱く。目を閉じ身を任せると、達人の右手が背中に回されて力が込められた。
 いつかのプロレスごっこのときと同じように。
 だが、あのときとは違う抱擁。
「ん!」
 急に舌を入れられて、今度は目を見開く。
「んんンッ!」
 唇を離そうとするが、後頭部をぐっと引き寄せられ、口づけが深くなる。
「んっ……ん、ン!」
 口の端から涎が零れた。
「ぷあ……っ、んっ、んうっ」
 逃れようとしても敵わない。ぐちゅぐちゅと咥内を舐られる。
「んふっ、んんっ……!」
 舌で歯茎をなぞられ、指で皮膚を撫でられるたびに声が跳ねる。達人の唾液がまるで麻薬のように頭を痺れさせる。
「あっ……んふ、ンんッ!」
 ぞわぞわと身体の内側から湧き出る感覚があった。
 ——このままじゃ、やべえ。
「ふっ、ンッ、んむっ」
 キスだけでイキそうだった。背中に回された手がするりと下りてくる。
「——!」
 腰を通り仙骨の周りをさすられ、また背中へ向けて撫で上げられる。途端に、広がっていた快感が塊となって腰の奥に一斉に集まってきた。
「あっ——!」
 顎が上がり、きゅ、と達人の白衣を握りしめる。身体が勝手に震えて、自分の中から熱が放たれるのを感じた。
「あっ、ああっ……!」
「……竜、馬?」
 止められない。
 こんなことでイクなんて——。
「竜馬、お前」
 達人は腕の中で痙攣する竜馬を見つめる。
「もしかして……イッたのか?」
 竜馬は目蓋を固く閉じ、まだ小さく震えていた。達人は竜馬の艶やかな黒髪にそっと口づける。
「う……ふっ、ふうっ……」
 不意に竜馬の瞳から涙が零れた。
「えっ、おい!」
 達人がギョッとして仰け反る。
「竜馬? おい……」
「……の……せい……」
「うん?」
「た……達人の……っ、せいだから、な」
 ぽろぽろと大粒の涙が溢れてくる。
「こんなの……っ、俺ぇっ……!」
 舞い上がるような嬉しさに加え猛烈な恥ずかしさで胸が詰まり、頭が爆発しそうになっていた。声の大きさも、震えも、涙もコントロールできない。
「あのとき、だって……うぅ」
 達人がふざけて抱きしめるから。
「抱き心地いい」なんて言うから。
「あの……せいでっ、俺っ」
 身体は正直だった。蓋をしていた心を暴いて突きつけて、去り際に哀しさと虚しさを落としていった。
 あれから、自分の気持ちに歯止めが効かなくなった。
「せ、責任、ひっく、取り……やがれ……っ」
 感情が流れ出て、やまない。
「竜馬……」
 達人は竜馬の頬を撫で、指で涙を拭う。
「俺のせいでって言われて、嬉しいことなんて……初めてだ」
 優しくキスをする。
「もちろん、せ」
 そこで動きが止まった。
「……うっ……くっ、た……つ、ひ……っ?」
「う……ん? んん?」
 達人が首を傾げる。そして、
「りょ、竜馬‼︎」
 慌ててベッドに飛び乗り、土下座した。
「っく、……う?」
 竜馬はぽかんと見つめる。忙しくまたたきすると、溜まった涙がぱたぱたと落ちた。
「……竜馬ぁ」
 平伏したまま、達人は顔だけをちらりと上げる。
「な……だよ、……ひっく」
「俺は、大事なことを忘れていた」
 起き上がり、いざり寄る。膝頭がつく距離で畏まると竜馬の左手を取った。
「竜馬」
「……ン?」
「好きだ」
「…………ッ」
「肝心なことを言っていない。俺はやっぱり馬鹿だ」
 困ったような笑顔で、竜馬の手の甲にキスをする。
「好きだ」
「たつ……ひと……」
「すぐに、お前になら全部を任せられると思った。たぶん、そのときから——」
 視線が交わる。
「一緒にいればいるほど好きになって、どうにもならなくなった」
 竜馬の胸に込み上げるものがあった。
「俺はここにしかいられなくて、きっと……もうすぐ消えてしまう」
 ——わかってる。
 竜馬は唇を噛む。
 いつまでも続かないとわかっていた。
「それでも、お前が好きだ。……お前を抱きたい」
 微かに、だが確かに竜馬が頷く。
「お前に枷を与えてしまいそうで怖い。……だが、嘘はつきたくない。今だけでいい。お前は、俺だけのものだ」
 眼差しは優しく、穏やかだった。柔らかく竜馬を包み込む。
「お前を泣かせた『オトシマエ』はつけないとな」
 竜馬が哀しげな顔のまま、くすりと笑う。
「竜馬、愛してる」
 一度は笑った竜馬の口元がまた歪む。抑えきれず、再び涙が零れた。
「達人……俺も」
 その先は、キスに溶けた。

   †   †   †

 唇を重ねるたびに、ふたりの吐息と体温が混じり合う。
「ン……たつ、ひと」
「……何だ?」
「その、俺……」
 言い淀む。達人が軽く唇を食んで促す。
「ほら、何だよ」
「う、ん。……あの」
 もじもじと身を揺する。
「パンツ……気持ち悪ぃから……もう、脱ぎてぇ……」
 語尾は消え入りそうだった。
「脱がしてやろうか?」
 悪戯めいて達人が訊く。竜馬は息を呑み、それから耳まで赤くして頷いた。
「すごい誘い方だな」
 達人は笑う。
「だ、誰のせいだよ……!」
「ふふ、可愛いな」
「な……!」
 文句を言おうと開きかけた唇は再び口づけで塞がれた。ゆっくりと押し倒される。
「……いいんだな?」
 問われ、竜馬にいつもの不敵さが戻る。
「あったりめえだろ」
 ニッと口の端を上げる。
「そうか。なら、お前が泣いて『やっぱやめろ』って言っても、やめないからな」
「言わねえよ。言うわけ、ねえだろ」
「…………竜馬」
「ン?」
「お前はどうしてそう、いちいち俺を刺激するんだ」
「何だよ、俺のせい——」
 見上げると、先ほどまでの柔和さは消え、代わりに精悍で覚悟をまとった男の顔があった。
 竜馬の胸が高鳴る。
 ——ああ、俺。
 今から、この男に抱かれる。
 ようやく実感が湧いてくる。
「……達人」
 厚い胸板に触れる。指先に達人の鼓動を感じた。
「達人、俺」
「……何だ?」
「倖せだ」
 微笑んだ。
「…………竜馬」
 達人の目が細められる。それは泣きそうな表情にも見えた。
「……俺も、倖せだよ」
 ふたりは、もう何度目かわからない口づけを交わした。

 達人の指と唇が肌を撫でていく。心地いい熱が降ると、小さな快感が次々に芽吹く。竜馬は素直に身を委ねる。
「ん、あっ……」
 胸をなぞられる。達人の男らしい手が自分を求めて這う様はいやらしくて、嬉しい。
「……んん」
 大きな手のひらでゆっくりと胸を愛撫されると、ざわざわとした感覚に震える。ちょうど、くすぐったさと気持ちよさの間のような不思議な刺激だった。下から包み込まれ、乳首をいじられる。
「んッ」
「痛くないか」
 勃った乳首を指の腹で捏ね回され、軽く押し込まれる。
「んっ……痛くねえ、けどぉ……あ、あ」
「けど?」
「先が……ん、へ、変……ふ、う」
「先?」
 達人が指で乳頭を弾く。
「ぁあんッ」
 声をあげてから、竜馬は思わず右手で口を覆った。
「うん、いい声だな」
 達人は満足そうに頷き、胸に口づける。
「はあ……あ、うぅんっ」
 乳首を避けて舐められる。竜馬の唇から喘ぎが零れていく。
「んっ」
 キスマークがつけられる。気づいた竜馬が赤くなった。「俺のもの」と達人はにかりと笑い、また印をつけていく。
「あ、ン……消えちまう、のに」
「でも今は俺のものだ」
 乳首を口に含む。
「ひゃあっ、あっ、あぁっ」
 ぷっくりとした膨らみを舌でつつかれ、吸われる。
「あ! んぁあっ」
 胸の先がじんじんと熱い。達人の唇と舌が動くと痺れるような刺激が背中から頭に抜けていった。
「あ、あっ」
「片方だけだと、不公平だな」
「……え? ひゃあんっ!」
 反対側も舐められる。
「あっ、あっ」
 くすぐったさはどんどん快感に上塗りされていく。達人が唇を離したときには、竜馬の息があがっていた。
「竜馬、まだこれからだからな」
 胸に置いた手を腹までするりと撫で下ろす。
「ふっ……んっ」
 腰を愛で、腿をさすり、達人の手は下へ下へ滑り落ちていく。竜馬の肉体が吐息とともにしなる。どの方向に動いても筋肉が形よく浮き上がった。
「お前の身体は綺麗だな」
 達人が左足の甲にキスをした。親指を口に含む。
「ぅわっ!」
 初めての感触に大きな声が出る。
「お、おい! うあっ、そこ、やめ……っ」
「『やめない』って言っただろ」
 達人はしれっと言い、指の股に舌を差し込む。
「ひっ……あ、あっ」
 爪先からぞくぞくとした感覚が生まれ、膝を飛び越えて腰の奥を直撃する。
「あぁああ——やっ、それっ」
 竜馬が仰け反る。身をよじっても達人はやめない。
「だめ……だ……っ、あっ!」
 丁寧に一本ずつ小指までしゃぶられる。指の股は特に念入りに舐められた。
「はっ、はふっ、うあぁ……あぁんっ!」
 意識が全部持っていかれる。
「こ、んな」
 竜馬の目に涙が浮かぶ。ペニスが勃起しきって充血していた。
「気持ちよかったのか」
 もう一度甲に口づけて、達人が訊ねた。竜馬は涙目で毒づく。
「バッカ……ヤロウ……」
「気持ちよかったんだろう? こんなにして」
 達人は人差し指と中指でペニスの裏側をなぞり上げた。
「ああぁぁッ——」
 竜馬の腰が浮く。達人は長い指を巻きつけ、きゅ、とペニスを握った。
「ンッ——!」
 そのまましごく。
「あっあっ……たつ、ひ——」
 うねうねと下肢が蠢く。散々に煽られ、はち切れんばかりだった。
「イクから……あっ、だめ……!」
「だめ? まだイキたくないか?」
「あっ……ん、イキてえけ、ど……はっ、はあんっ!」
 ちかちかと目蓋の裏に火花が散る。
「あ、あっ!」
 達人の手を押しのけようとしたが間に合わなかった。二度目の射精も勢いは衰えず、達人の指と竜馬自身の腹を白濁が濡らした。
「ッ……あっ……はあ……っ、んっ」
「お前、可愛いうえに色っぽいな。そういうのを卑怯だって言うんだぞ」
 達人はまだひくついているペニスにキスをして、先端を吸った。
「ひあぁッ、や、あ」
「誰にも渡したくないな」
 腿を押し上げる。達人の口が生き物のように陰部に吸いつき、あちこちを舐めてはついばむ。
「んっ、あっ、あ!」
 竜馬が身悶えする。肌と唇が触れ合う音が聞こえて、羞恥心を煽る。
「やっ、あっ……なん、てとこ、んっ……舐めて……んあッ」
 尻の穴にも生暖かい舌を感じた。
「!」
 緊張で身体が跳ねる。
「た……あ、達……ひ……っ」
「どうした?」
 達人が窄まりにキスをする。
「ンッ! そ……そこ、はぁ……っ」
「少しほぐしておかないとな」
 右の中指でそっと押す。ゆっくりと揉むようにして指を這わせる。
「う……んぅ」
「痛いのか?」
 竜馬は首を横に振る。だが苦しそうな表情に見えた。達人は指を離す。
「無理しなくていいぞ」
「違っ……ちが、う」
 震えながら達人を見る。
「は、恥ずか……し……っ」
 言い終える前に両腕で顔を覆ってしまった。
「——竜馬」
 達人は微笑み、竜馬の腕に口づける。
「全部、見たい」
「……うぅ」
 腕をどかすと子供のように頬を紅潮させて半ベソをかいていた。
「……ああ、可愛いな、お前」
 額にキスをする。
「俺しか知らない、竜馬だ」
「ふ、う……」
 竜馬が涙目で頷く。
「……していい、から」
「よし、言ったな」
 再び達人の手が竜馬を求めた。
「ん、ン……」
「竜馬、もっと楽にしろ」
「ンなこと、あ、あ……っ」
 達人の指が挿入はいってくる。
「あ……指……ン、あ」
 違和感はあったが、痛みはなかった。じかに触れられ、喜びが膨れ上がる。
「は、あ……っ」
 指が動くたびに竜馬の中が熱くなった。その熱に蕩けていくように、窄まりが徐々に開いていくのがわかった。
「きつかったら言えよ」
「ふ、う……っ」
 指が増やされる。
「あ、ンん——ッ」
 反射的に強張るが、すぐにゆるむ。
「だ、だい、じょう……ぶ」
「……よかった。痛かったら、いつでも言えよ」
 達人は竜馬の下腹に口づけた。
「ン!」
「一回抜くぞ」
 指が中をなぞりながら引き抜かれる。撫でられる感覚の奥にわずかな快感が生まれ、「ああぁ」と声をあげる。
「やらしい声」
 指の代わりに舌が差し込まれた。ぐにゅぐにゅと中で動く。
「ああっ……」
 竜馬の肉がひくひくと応える。
「あっ! あ、あ……もう……俺ぇ……っ」
 思考がぐずぐずに溶け出していく。
「くらくら、する……あっ、あう……っ」
 達人は穴の縁をぺろりと舐め、笑う。
「一度に全部、起こりすぎだもんな」
 そしてまた竜馬の肌を吸った。
「んぅ……」
「ここなら、ほかの奴からは見えないかな」
 左脚を押し広げてその付け根、会陰部との境目に口をつける。
「あっ……な、何、ンんッ」
「ん、俺だけのものだ」
 唇を離すと愛の印がひとつ、ついていた。
「…………たつひ、と」
 胸が締めつけられる。
 今度は切なさで泣きそうだった。
「……なあ……俺も」
 もらった分の思いを返したい。心から好きなのだと、もっと伝えたい。
「気持ちよく……させてえ」
 手を伸ばす。
 達人はその手を取り、竜馬を抱き起こす。
「ん……俺にも……舐めさせろ」
 耳元でささやいた。
「これまた……ストレートだな」
 達人が苦笑する。
「……人のケツに指と舌、挿れたクセに」
 唇を突き出して拗ねた。
「俺も、パンツ脱がしてやるから……な」
 ふんと鼻を鳴らして達人のボクサーパンツを脱がしにかかった。だが布の下から現れた達人自身を認めるとおとなしくなってしまった。
「竜馬?」
「…………でけぇ」
 雄々しい屹立に思わず呟く。
「これ……その……全部……?」
 自分の中に、と思うと不安で瞳が揺れた。竜馬はそっと達人を上目遣いで見て、また視線を戻す。
 ペニスからは竜馬を求めて先走りが滴っていた。
「……」
 ためらいがちに指を伸ばす。
 硬く、熱い。
「りょ、うま」
 触れられて、達人の身体がぴくりと揺れた。竜馬はそろそろと指を滑らせる。
「う、んっ」
 達人が目を伏せる。
 ——まるで。
 熱の塊だった。指に絡みつく熱さが伝播して、竜馬の顔も火照る。
 ——これが。
 潤んだ瞳で見つめる。
 愛おしい。
 こきゅ、と喉が鳴った。
「……お前にそんな顔されると……興奮する」
 はあ、と達人の吐息が聞こえ、手の中でペニスが動いた。
「……ッ!」
 心なしか、また膨らんだ気がした。
 ——達人、の。
「はあ……たつ、ひと」
 誘われるように唇を開き、昂りに口づけた。ちろりと舌先で舐める。
「あ、あっ」
 達人が意外にも可愛らしい声をあげた。それに気をよくし、竜馬はもう少し大胆に唇でペニスをなぞり始める。
「んうっ……」
 根元から舐め上げて先端を吸うたびに達人が喘ぐので嬉しくなる。指を添え、陰茎をしごく。
「うっ……りょう、ま」
 舌で裏筋をつついては撫で、唇を押しつける。ちゅう、と音を立てて吸いつくと達人の腰がぶるりと震えた。
「もう、いい……」
 しかし竜馬はやめない。
「お返しだ」ペニスを咥える。
「んっ……竜馬ぁ、こら……っ」
 構わず続ける。カリの部分に唇を引っ掛けるように頭を前後に動かしては亀頭を舌で愛撫する。
「こら、りょう——」
 引き剥がそうとするが、竜馬は抗い深く咥え込んだ。達人は目を瞑る。
「う——」
 そのまま、精を吐き出す。竜馬は口で受けとめた。
「んっ……竜馬ぁ……」
 ——達人の……出てる……。
 雄の濃い匂いが眩暈をもたらす。射精が終わるまで離れなかった。
「ん、んっ……」
 竜馬がようやくペニスを解放する。苦しそうに涙を浮かべ、口をぎゅっと引き結んでいた。達人がすぐに気づく。
「あ、おい、出せ」
 慌てて皿代わりに手を差し出す。もう片方の手で枕元のボックスティッシュを引っ掴む。
「ほら」
 わたわたとティッシュをむしり出して添えた。
「んーっ、んっ」
 竜馬は首を振って嫌がり、口の中のものを飲み込んだ。
「うわっ、おい、竜馬!」
 達人が竜馬の口をこじ開けて親指を差し入れる。唾液と混じった残滓が白い糸を引いた。
「ホントに飲んだのかよ。……無茶しやがって」
「ふぁっ……ふぇ……」
 涙の滲む目で達人の指を舐め、しゃぶる。
「んっ、竜馬」
「だって……よぉ……達人、の……汗も涎も……精液も全部……欲しい」
 きっと、この先に同じ瞬間は訪れないから。
 今も、いつ消えてしまうかわからないから。
「……竜馬!」
 達人は竜馬をかき抱いた。
 ——達人。
 たくましい腕が自分を求めている。それはこのうえない喜びだった。同時に、肉体が分かたれていることがひどくもどかしい。
 大きな背中に手を回す。指先に、達人の肌と肉を感じる。
 早く、ひとつになりたい——。
「たつひと」
 一音ずつ思いを込めて名前を呼ぶと、もっと強く抱きしめられた。

   †   †   †

「うっ、あっ……」
 圧迫感に呻き声が押し出される。
「う、ぐ、んひ……ッ」
 息苦しさに、空気を求めて喘ぐ。
「抜いて、もう少し慣らそうか」
 言う達人にすぐさま「嫌だ」と返す。
「いい……この、まま」
 竜馬は苦悶の顔つきで催促した。
「でも」
「いいって……んっ」
 脚を達人の腰に絡める。
「あっ、りょう……!」
 ぐ、と両脚で引き寄せられ、達人が竜馬の中へ進んでいく。
「あっ、ああっ」
 みしみしと身体が軋む。指とは違い、肉が押し潰されていく。痛みが、この瞬間が現実だという実感を与えた。
「あ、は、あぁ……っ」
「竜馬……んっ、ゆっくり、息をしろ」
「ん、は、は……ッ」
 竜馬は浅い呼吸を繰り返す。達人は待つ。
「ふ、う、はぁっ……」
 呼吸が落ち着くタイミングに合わせて少しずつ達人のペニスが竜馬の中を満たしていく。
「あと……少しで、全部」
「ん……っ、ふ、う……はあぁっ」
 深く息を吐き終わるとペニスが奥まで挿入はいってきた。
「————ッ!」
 衝撃に仰け反る。
「あ、あ……!」
「りょ、竜馬ぁ……っ」
 達人も苦しそうに息を吐く。
「あ……は、挿入……った……?」
 みっちりと下腹の中が埋められている。
「ああ……お前の、中……はあ……っ」
「たつ、ひとぉ……ッ」
 ——達人ので、俺ン中……いっぱいだ。
「……たつひ、と」
 自然にきゅう、と締めつけが強くなる。達人が弾かれたように顎を上げた。
「あんまり締める、な。イッちまう……」
 こらえているのか、達人の眉間に皺が生じる。それがやけに官能的で、そそられる。
 達人が欲しくてたまらない。
「ン、はあ……もう、いい、ぜ……」
 誘う。
「ああ……動く、ぞ」
 ゆっくりと達人が腰を引き、その分をまた奥へ押し進める。
「——ッ」
 思わず唇を噛み、目蓋を固く閉じる。だがすぐに頭を横に振り、目を開ける。
 達人の動きが徐々に律動的になる。
「んっ……ん、ンッ」
 迫り上がる違和感に目を閉じたくなるのを必死で留める。上になった達人だけを瞳に映す。
 ——何て、倖せな。
 達人は睫毛を伏せ吐息をついて、時折耐えられないとばかりに小さく喘ぎを漏らして——。
 ——俺で、気持ちよくなってくれてンのか。
 肉棒が割り入ってくる瞬間の痛みはあったが、気にならなかった。
 ただ、倖せだった。
「竜馬……」
 目が合う。
「た、つひ、と」
 呼ぶと、感情でいっぱいの心が震える。
 達人が覆いかぶさり、キスをする。舌を絡ませ合うごとに鈍く残る痛みが拡散していく。やがて、圧迫される肉の奥から別の感覚が湧き上がってきた。
「ン、んあ、あっ……」
 竜馬の唇から少しずつ零れ出す。
「あ、あ……ん、ちっ……と、よくな……て、きた……あっ」
 ペニスの動きに合わせ、中と穴の縁に交互に違う快感がほのかに生まれる。
「は、はあっ、あ、あっ——んぅ」
 喘ぎが次々に溢れて大きくなっていく。呼応するように達人の動きが深く、速くなる。
「ンんッ、あ、はあッ!」
 奥を突かれて叫ぶ。腰が浮く。
「悪い、痛かったか?」
 達人が止まり、竜馬の腰をさすった。
「ン……痛えの、と……ンんッ、何か違……」
 瞬間的な衝撃による反射の声と、もうひとつの感覚がもたらす声だった。先ほどから腹の奥でさざなみのようにその感覚が存在を増しては引いていく。
「大丈……夫。動け、よ」
「……ああ」
 まだ少し迷うように、達人の顔は曇っている。
「早く動いて……気持ちよく、なろう……ぜ」
 達人の下腹を撫でる。汗ばんだ肌が指先に吸いついた。
「わかった。つらかったら言えよ」
 コクリと頷き、竜馬は深呼吸をひとつして力を抜く。
 再び、達人が律動を始める。
 そのとき、竜馬の中に快感が一気に広がった。
「んあんッ」
 あがった声には甘さが溶けていた。
「え、え? あ——ああぁッ」
 自分の嬌声に驚くが、起こったことを確認する間もなく次の波が押し寄せた。
「あんっ、あっ、あっ」
 波はゆるゆると収束しようとするが、その前に達人にかき混ぜられて、舞い上がる。
「ふっ……あ、ああぁンッ!」
「りょ、竜馬……っ」
 達人の声が切迫する。
「あっ——あ、たつひ……ッ」
「うっ、はあっ……竜、馬っ!」
 猛々しい肉棒がぐっと奥まで刺さった。
「んうっ!」
 達人が呻いて射精する。
「ひっ……あッ……!」
 思いの丈を注がれ、竜馬は打ち震えた。
「あ……っ、あっ」
「……りょう、ま」
「……中、が……ンッ」
 奥に宿った熱が達人に絡みついている。
「たつ……ひと……」
 やっと、本当にひとつになれた気がした。
「あっ、まだ……出て……っ」
 竜馬の身体が小さく跳ねる。
「んっ……」
 繋がったまま、抱き合う。
「我慢、できなかった……」
 達人がささやくと、
「……嬉しい」
 竜馬が答えた。それから「へへ」と照れる。
「竜馬」
 口づけを交わす。
「ん、ん……」
 胸や腹を撫でられ、首筋を吸われ、興奮がまた立ち上り始める。そうしているうちに、竜馬が異変に気づいた。
「ン……達人?」
「あー……んー」達人はばつが悪そうに唸った。
「えーと」
 再び達人のペニスが膨張していた。
「ぶふっ」
 竜馬が吹き出す。
「何だよ、その情けねえツラぁ」
 くつくつと笑う。
「元気でいいじゃねえか。ン? 男の面子も立つだろ。……勃ってンのは別のモンだけどな」
「笑うなよ」
「だって、おめえ——」
 軽く中を突かれて、竜馬からはそれ以上の言葉は出なくなる。
「あっ……ン」
 たちまち身体が達人を求めてくねる。
「竜馬」
 左の耳朶に息がかかる。
「んっ」
「お前を、気持ちよくさせたい」
「——ッ」
 甘い響きが脳を撫でる。頭が痺れて気が遠くなりそうだった。
 肉棒を咥え込んだまま抱き起こされる。達人に跨り、向かい合った。
「う、あっ……」
 先刻よりも深く、奥まで貫かれる。
「ぐ……ぅ」
 内臓が全部押し上げられるようで、竜馬が喘ぐ。
「あ……さすが、に……ちっと……うぅ」
「ん、悪い」
 達人は竜馬の尻を持ち上げ、挿入角度をずらす。
「ン……もう、キツくねえ」
 ふうっ、と息を吐いた竜馬に、達人が訊く。
「動いてみるか?」
「……俺が?」
「そのほうが、一番よさそうなところがわかるだろ」
「ン」
 素直に頷き、竜馬がそろそろと動く。
「……ん、ん」
 ぎこちなく腰を上下させる。
「ん、あ」
「いい眺め」
 達人は上体をやや後ろに倒し、竜馬の姿態を見つめた。
「ば……か」
 竜馬が笑む——上気した顔で、艶っぽく。
「いやらしくて、最高だな」
 悪戯を楽しむように、達人は竜馬の乳首をつまみ、割れた腹筋をなぞり、ペニスをしごく。
「ん……あぁ……あっ」
 やがて臍の奥からじわじわと滲み出る感覚があった。
「あっ……中っ……じんじん、する……ンッ」
 達人は少しだけ突き上げる。
「——ッ」
 びくんと竜馬が仰け反る。
「ふっ——う、うっ」
 悩ましげに竜馬の眉根が寄せられた。達人は竜馬の腰に手を添え、もう一度突いた。
「はぁんっ!」
 明らかに色のついた声が零れた。
「ここが気持ちいいのか?」
「あ、ああ……ン、いいっ」
「わかった」
 その場所を狙い、腰を動かす。
「あ、あ、あっ、ん、あぁっ」
 揺さぶられるたびに竜馬の声が踊る。同じ角度とリズムで達人は抽挿を続ける。
「あ、んんうっ、は、あぁッ」
 顎が上がり、竜馬の唇が開きっぱなしになる。勃起したペニスの先から透明な雫が溢れ続ける。
「あっあっ……俺っ、——あんッ!」
 きゅっと目を閉じる。下腹がうねり、震えが広がって身体が硬直した。
「あっ——あ、あぁっ!」
 びくびくと小刻みに悶えて、達する。
「んあぁっ……あっ……ふっ」
 初めての快感と、まだ体内を駆け回る余韻に浸かる。竜馬はうっすらと涙を浮かべ、恍惚の表情で吐息を漏らした。
 その息が終わらぬうちに、達人が腰を穿つ。
「あ゛っ——」
 竜馬が大きく反る。
「あっ、やめっ! あっあっ、ああッ‼︎」
 同じところを責められ、抗う間もなく波にさらわれる。
「またっ……あ゛ぁっ、ひッ!」
 達人は竜馬を抱きしめる。
「ああッ!」
 イクと同時に思いきり引き寄せられてペニスが深々と刺さった。
「————ッ‼︎」
 強烈な刺激に、頭の中が弾けて真っ白になる。
 無意識のうちに竜馬の脚が達人の腰にしがみつく。腸壁が、離すまいと達人を包み込んで締め上げた。肉棒が自分の中でぴくぴくと蠢いているのを感じる。
「んひっ……」
 身体の内側全部が性感帯になったようだった。
「お前の中……ん、すごい、な」
 達人が気持ちよさそうに目を細める。
「溶けそう」
 腕にぎゅっと力を込める。
「んあっ……あっ、お、俺、も……」
 蕩けきった顔で竜馬が答える。
「すげえ……気持ち……い……い……はあっ、う、うあっ……」
「よかった」
「俺ン、中……はあっ……達人の、カタチに変わり……そう……っ」
「——」
 達人のペニスが膨らみ、硬度を増した。
「んあうっ」
「また、そういうことを言う」
 唇をついばむ。
「はあ……っ、俺たち……相性ばっちし……じゃねえ、か」
 竜馬が笑う。
「だな」
 達人も笑い、また口づける。
「竜馬、俺もイッていいか」
「ン……いいぜ……」
「じゃあ、後ろからしたい」
 一瞬、竜馬が恥じらうように身をすくめた。
「いいだろ?」
 乞いに、はにかんでからそっと耳打ちした。
「達人のしてえこと……全部、して」

 四つん這いになった竜馬の尻を大きな手が撫で回す。
 竜馬が喘ぐ。
 ペニスの先端が双丘の間を割り、挿入ってくる。
「ああぁっ」
 一度陽根を受け入れた穴は簡単に開いた。
「はあぁぁッ……」
 竜馬が息を吐くのに合わせ、達人のペニスが押し進んできた。穴の縁からぞくぞくとした快感がまっすぐに脳髄まで走る。
「ああッ……な、中っ……んんん……ッ!」
 埋め尽くされると、再び胸の内も倖せで満たされた。
「ひっ……あっ」
 達人はまだ動いていないのに、竜馬がひくひくと反応し出した。
「あッ、あはッ……んひっ」
 尻が揺れる。そのたびに身体がさらわれるような浮遊感に包まれる。
「あっ、あっ……どうし、よう……っく、あんッ」
「竜馬……」
「あ゛っ、俺……っ、キモチ、イ、イ……ッ!」
 竜馬の指がシーツをきつく握りしめる。中が収縮する。流されまいと、懸命にこらえているのがわかる。達人は反り返った竜馬の背中をさすった。
「俺も……お前のここ、気持ちいいぞ」
 くん、と突く。
「んあッ!」
 竜馬が跳ねる。
「あっ……あっ」
 反射的に逃げようとする腰を達人ががっしりと掴んだ。
「ああ……我慢、できない……っ」
「あはあっ! あっ、あうっ……!」
 腰を固定されてペニスを撃ち込まれる。そのたびに大きな声があがる。
「はんっ……! あ、あっ、あっ! たつ、んあっ、あっあっ!」
 達人に合わせ、だらしなく乱れていく。竜馬の中に残る精液がかき混ぜられ、淫猥な音とともに白い泡を立てながら結合部から滴り落ちてきた。
「ンあっ、あっ、あぁっ——」
 意識が焼き切れそうなほどの気持ちよさに、もっと奥まで満たされたくなる。
「ああっ……もっと……! はあぁんっ!」
「こう、か……?」
「んんんッ、ン゛あぁッ」
 深く迎え入れられるように肩を低くし、尻を上げる。
「んはっ、あ゛あ゛っ、ンンッ!」
 下半身から圧迫するような快感の波が押し寄せてきた。
「竜馬……竜馬……っ!」
 太いペニスが肉壁を抉り、引きずっては欲を煽り立てる。
「あ゛っ——いいッ」
 竜馬が叫んだ。
「……っ、ここか……っ」
 肉をぐりぐりと捏ね回す。
「——ッ‼︎」
 竜馬がぶるぶると震える。肉襞がのたうち、全身で感じていることを伝えてきた。
「あ゛……あ゛…………う、ゔッ……」
 達人が腰を引き、ぐっと押し込む。
「ひあぁッ!」
「竜馬……」
 深く突く。その後で浅いところを何度もこすり上げる。そしてまた奥まで突き刺す。
「うあぁ……っ、あ゛あ゛っ……!」
「はあっ、はあっ……竜、馬っ」
 達人の荒い呼吸とともにペニスが竜馬の内側に口づける。
「あ゛、あ゛ッ! ひッ——うああ゛ッ!」
 竜馬の肢体がガクガクと痙攣した。
「うっ……出るっ、竜馬ぁっ!」
「あッ……あ、あッ……!」
 息も絶え絶えに、竜馬は最奥で達人の精を飲み込んだ。
「はあっ、うっ……お前も、出せ……」
 達人が背中に覆いかぶさる。指が伸びて竜馬の陰茎をしごいた。
「……ッ、うあぁッ……」
 散々に濡れてなおも涎を垂らしている竜馬のペニスが、達人の手の中で震えた。

 

「やっぱ恥ずかしいな」
 竜馬が伏し目でボヤく。
「さっきまでもっと凄いことしてたろ」
 対照的に達人は爽やかな笑顔。
「そうだけどよぉ」
 自分でやると言ったのに、達人がさせろと譲らなかった。したいことをしていい、と言った手前、任せるしかなかった。
「ン」
 ティッシュで隠部を拭き取られる。
「変な気分……赤ン坊みてえ」
「デカくて、口の悪い赤ん坊だよな」
「へへ、違えねえ」
「でも、素直で可愛い」
「——」
 不意打ちに胸が詰まる。
「ん、よし」
 達人は竜馬の頬に軽くキスをして身体を返し、ゴミ箱に丸めたティッシュを捨てる。
 ——あ。
 大きな背中が目の前にあった。
 ——達人の……背中。
 抱きつく。
「りょ——」
「このまま」
 ぎゅうっとしがみつく。
 達人は胸に回された竜馬の手に自分の手を重ねた。竜馬は目を閉じ、ぬくもりを味わう。
「…………達人」
「……何だ」
「好きだ」
 きゅ、と達人の指に力がこもる。
「好きだ。好きだ」
 温かい背に頬を押しつける。
「……大好きだ」
 倖せを噛みしめる。
 儚い夢でも、この時間は確かだった。
「竜馬」
「うン……?」
「俺も、背中から抱っこしたい」
「え……」
「交代」
 そっと竜馬の右腕を剥がし、口づける。その手を取ったまま、向き直る。
「おいで」
 竜馬は戸惑いつつ身体を反転させ、達人の脚の間に収まるようにゆっくり後退りをした。
「つかまえた」
 たくましい腕が竜馬の首元に回され、抱きしめられる。
 全身が達人に包まれた。
「背中……あったけえ」
 寄りかかり、竜馬は吐息を漏らす。
 達人の腕に指を滑らす。応じるように竜馬の首筋に唇が下りてきた。
「ン……」
「竜馬、好きだ」
「…………知ってる」
 竜馬が小さく笑う。
「ん、この」
「ひゃ……っ」
 かぷりと首筋に噛みつかれた。
「あ、ン」
「……お前を、こっちに閉じ込めておきたい」
「…………」
「帰したくない」
「そんなこと……できンのかよ……?」
 達人は少し考えてから「たぶん」と答えた。
「…………なら、俺」
「だめだ」
 言いかけた竜馬を抑える。
「お前には、お前の居場所がある」
「煽っておいて、ひでえな」
「……悪い」
 もうひとつ、首筋に口づける。
「ン……許してやる」
 竜馬も達人の腕にキスをした。
 そのとき、達人が弾かれたように顔を上げた。
「もしかして」
 竜馬が振り向く。
「俺がお前にまた会えたのは」達人の瞳が揺れる。
「もしかしたら、俺を使ってお前を——」
 食い入るように見つめている竜馬に気づき、言葉を止めた。
「——いや。これは、俺の意志だ」
 竜馬の首元に顔をうずめる。
「達人……?」
 そのまま、動かない。
「……どうしたンだよ?」
 達人は微かな声で「何でもない」と返した。
「竜馬」
 顔を上げると、いつもの達人だった。
「竜馬、俺は、今ここにいる俺だけだ」
「え……?」
「俺がお前に会うのは、これが最後だ。もし次に会えたとしても、それはきっと俺じゃない」
「何……言ってンだよ」
 意味が理解できなかった。
「達人は……達人だろ……?」
「ああ」
「『次』って何だよ……?」
 また会えるのなら。
 叶わないとわかっていても、願うのは自由なはずだ。
「なあ……『俺じゃない』って、どういうことだよ」
 腕の中で身をよじり、向き合う。
「消えねえでくれよ……」
 答えはない。双眸がただ静かに竜馬を見つめた。
 その胸にすがる。汗と混じってさらに甘くなった匂いが鼻の奥にくすぶった。
「なあ、何か……言えよ」
 達人の鼓動だけが聞こえる。
 沈黙が心を抉っていく。
 ——達人。
 涙でじわりと視界がぼやけてきたとき、
心中立しんじゅうだてでもするか」
 唐突に達人が言った。
「……何?」
「愛の誓い」
 にかっと笑い、ベッドサイドの小物入れをあさる。
「あった」
 折りたたみ式の小さなナイフ。
「何を——」
 刃を左手薬指の腹に滑らす。すぐに血がぷくりと膨れ出る。それを竜馬の口元に運んだ。
「……」
 竜馬は指を口に含み、軽く吸う。
「……ちゃんと、人間の血だ」
 達人の目を見る。
「そうだろ?」
「俺もやる」
 ナイフを要求する。
「おい、勢いつけすぎて切り落とすなよ」
「刃物の使い方もわかンねえチンピラヤクザじゃあるめえし」
 心配すンな、と竜馬も同じように自分の左薬指に傷をつけた。達人は竜馬の手を取り、赤い指を舐める。
「まじないっつうか、あやしい儀式みてえだな」
 竜馬が笑う。
「秘密の儀式だな。お互いの血を取り込んで、これでずっと、お前と一緒だ」
 指を吸う。達人の言葉は竜馬の耳をくすぐった。
「まるでプロポーズじゃねえか」
「だから、左手の薬指なんだ」
「——」
 照れくさくて茶化したのに、大真面目な答えが思考を止める。
「竜馬」
 柔らかい声で名前を呼ばれる。
 竜馬の目から涙が零れてぱたり、とシーツに落ちた。

   †   †   †

 一生分には到底、足りない。
 だからふたりは抱きしめ合って、キスを交わす。
 何度も。
 互いの肌の熱を刻みつけるように。
 いつ、夢が淡く消え失せたとしても覚えていられるように。
「竜馬」
 達人の指が髪をすいて地肌をなぞる。竜馬はうっとりと酔う。
「……うン?」
「もう、気に病む必要はないからな」
「え……?」
 何を指しているのか、すぐにはわからなかった。
「俺の死は、決してお前のせいじゃない」
「————」
 達人は強張った竜馬の背中をなだめるようにさすった。
「お前は、正しい」
「……達人」
「あれはもう、過去のことだ。お前が俺を思って、助けようとしてくれたのは本当に嬉しい。忘れたくなければ、無理に忘れる必要もない。だがな」
 竜馬の顔を覗き込む。
「時間は進んでいるんだ」
 見る間に竜馬の瞳が歪む。その頬を達人の手が包んだ。
「わかるだろ?」
 竜馬は目を閉じ口を引き結び、こらえる。
「なあ、竜馬」
 頬を撫でる。
「男は、最後はツラとここだぞ」
 達人は拳を作り、竜馬の胸に触れた。
「お前の背負っているものが何であっても、お前らしくいればきっと大丈夫だ」
「たつ……ひ、と」
「……俺がいなくても、やれるだろ?」
 微かに震えながら、竜馬が答える。
「……決まってらあ」
 長い睫毛を上げて達人を見る。
「ずっと……ひとりでやってきたンだ」
 ——元に戻る、だけだ。
「それに、俺はこれからも……ひとりだ」
「違うだろ」達人が返す。
「一緒に闘ってくれる仲間がいるんだろう?」
「…………」
「そうだろ?」
「……あんな、ヤツら」
 小さく呟くと「竜馬」と諫める声が飛んだ。
「互いに生命張って闘ってんだ。立派な仲間だ」
 ——仲間?
 聞き返す瞳に、達人は微笑む。
「もう少し信じろ。そうすれば、もっとゲッターの力を引き出せる」
「……信じる?」
「ああ」
 額に達人の唇が下りる。
「お前はずっとひとりでいたから、ただ慣れていないだけだ」
「え……」
「心を預け慣れていないだけだ。まだほかのパイロットを信じきれないなら、俺を信じろ」
「……」
「初めて、俺とゲッターに乗ったときを思い出せ」
 ——あ。
「な」
 今度は鼻先にキスをする。
「大丈夫。お前なら、うまくやれるさ」
 達人の言葉は素直な響きで竜馬の心に染みていく。
 ——仲間……。
 こくりと竜馬が頷いた。その頭を達人の手が撫でる。
「いい子だ」
 声も笑顔も体温も、すべてが優しい。
 ——離れたく、ねえ。
 一秒でも長く傍にいたい。
「……なあ」
 唇をねだる。達人がすぐに気づいて応じる。
 そっと、柔く、生まれたての生命を慈しむように触れ合う。胸の奥深くから愛おしさがとめどなく溢れてくる。
 ふたりの魂が少しずつ溶けて混じり合うような、不思議な心地よさを感じた。
「……もう一回、してもいいか?」
 達人が低く耳元でささやく。頭の奥が痺れて、眩む。
「竜馬。もっと、お前が欲しい」
 甘く掠れた声がたちまち官能を呼び起こす。竜馬の中がきゅう、と疼いて熱を持つ。
「……何回でも、いいぜ」
 竜馬は答える。
 ふたりは視線を絡ませ合い、深く口づけた。

 

 七 章   払 暁

「月ごとのゲッター線量の測定値推移よ」
 隼人は目で追う。竜馬が「夢」を見始めただろう三箇月ほど前から平均値が上がっていた。
「こっちは日ごとのグラフ」
 ミチルが「ほら、ここ」と指し示す。数値が突出している日が複数あった。
「竜馬が倒れる前日?」
「ええ。特に三回目はこんなに。線量が多く測定される日はあるけど、ここまで大きな数値になるのは滅多にないわ」
「考えられる要因は」
「いいえ。炉心の調整もしていないし、影響を受けそうな大きな太陽フレアも観測されていない」
「ふう、ん」
 隼人の切長の目がさらに細くなる。
「原因はともかく、このゲッター線量の増加が関係しているのは間違いないと思うの。兄は短時間で大量のゲッター線を浴びた。そしてゲッターに関わって亡くなった人たちの夢を見た」
 レポートは達人が出撃を重ね、新たに死者の夢を見ると書き足されていた。暴走事故のときほどクリアではなく、死者全員が、ということではないものの、やはり炉心の実験や訓練、戦闘で生命を落とした人々が現れていた。
 特定の人物の夢を見ること自体は不思議ではない。繰り返すことも、時間をおいて夢の続きを見ることも。
「兄はもともと研究開発もパイロットもやっていたのだから、ほかの人より長時間ゲッター線にさらされている。それに……最期もプロトゲッターで迎えたのだからゲッター線を浴びたはず。流君の夢に現れること自体の説明はつく」
 ゲッター線が死者の夢を見せる。
「……死者、か」
 隼人が呟く。
「ゲッター線に、死ぬ間際の人間の意識が焼きつくとでもいうのか」
 通常の夢とは異なり、単に生者の記憶だけで生成されているのではない。死者の念が混じり合った夢だ。
「それに特定の人物だけというのもな」
「そうね。指名なんて、普通はできない」
「『普通』なら、な」
 思わずミチルが笑った。
「ゲッター線のせいにするのは簡単だけど、謎を解くのは本当に厄介だわ。しかも、必ずしも解けるものじゃない」
「まったくだ」
 少しだけ空気が和らぐ。
 しかしそれで事態が好転するものでもない。隼人の顔つきはすぐに厳しさを取り戻す。
「……竜馬だけというのは?」
「それが」ミチルが腕を組む。
「わかれば苦労はないわ」
 血液検査の結果は異常がなかった。観測されたゲッター線量は多くとも、竜馬だけが過剰に体内に取り込んだとは思えなかった。
「体内で生成される物質由来ではないとしたら、そのときだけ過敏に……たとえば体調がひどく悪くて、精神的な問題があって、とかで特に影響を受けやすくなっていたのかもしれない、としか」
「竜馬——いや」
 竜馬だから・・・・・じゃないのか。
 隼人は問いを呑み込んだ。
 ゲッター線を媒介にして生者と死者の意識が一時的にしろ繋がるのなら、研究所の誰もが当事者になる可能性はある。特に早乙女博士、ミチル、隼人に弁慶も。
 だが現実との境目が曖昧になるほどの回数と鮮やかさで、挙げ句の果てに昏倒するまで翻弄されているのは竜馬だけだ。まともに考えるのならば、生者と死者との間に何かほかの要因が存在するはずだった。
 初対面で次の瞬間にはその死に関わっているというのは相当な衝撃だったはずだ。それでも今回の事態に至るまで、竜馬に悩むような素振りや異常な兆候はまったくなかった。自分なりにうまくケジメをつけていたのだろう。感情を綺麗に隠してしまえるほど器用な男とは思えない。
 竜馬の思いの強さが引き寄せたのではないとしたら、誰が、何が夢を見せているのか。
 死者の意志か。
 あるいは。
 ゲッター線そのもの・・・・・・・・・か。
 隼人の中に疑問が浮かび上がってくる。
 ゲッター線には指向性があるのではないか。
 しかも、特異な。
「…………」
「神君?」
 呼びかけられ、はっとする。
「何か、気になることが?」
「……いや、何でもない」
 さすがに飛躍しすぎだと自分に言い聞かせる。
 けれども、胸の奥に違和感が残った。
「……」
 引き返せなくなる予感と、妙な焦燥感がさざなみを立てていた。
「ゲッター線ってなあ……何なんだ」
 唇を噛む。
 ゲッター線の底知れなさ——そのほんの一端——に触れた気がした。

 

 隼人とミチルはベッド脇に立つ。
 竜馬はただ眠っているようにしか見えない。
「……兄は、流君が見ている『夢』の中で生きている・・・・・んだわ」
 ミチルが静かに言う。
「神君もそう思っているんでしょう?」
「……状況から、そう判断するしかない」
 達人からじかに聞かなければ知り得ない情報を、竜馬はいくつも知っていた。
「一緒の時間を過ごしていたら、情も湧くわよね。……流君ならきっと、なおさら」
 達人を必死に救おうとしていたことだけはわかる。
 隼人は竜馬を見つめる。
 たったひとりで、何を思い、背負っているのか。今この瞬間も苦悩しているのか。
 竜馬の表情には何も浮かんでいない。
「こいつが誰かを守ろうとするなんてな」
 ゲッターロボに乗せろという悲痛な哀願。
 いつも勝ち気で自信に溢れた竜馬はひとかけらも残っていなかった。切なく歪んだ顔が隼人の脳裏にこびりついている。
 あの感情は仲間や兄と慕う相手へのものではなく。
 むしろ——。
「……それこそ、余計な詮索だな」
 考えを断ち切るように目を閉じ息を吐いた。
「これ以上、並んで突っ立っていても仕方あるまい」
 ミチルを向く。
「俺たちができることは、もうないだろ」
「え……」
「とりあえず、生きているんだ。気の済むまで向こう・・・にいさせてやれ」
 ミチルが「そんな」と顔色を変える。
「博士も心配していないんだろ」
「でも、このままじゃ流君——」
 言葉が途切れ、ミチルの目が見開かれる。視線を辿り、隼人もまた。
「——」
 竜馬が泣いていた。
 静かに、厳かに。
 まるで、誰かを悼むように。
「流……君」
「出よう」
 隼人は踵を返す。
「ちょっと、神君……!」
「生命反応に異常がないなら、放っておいても問題ないだろう」
「…………そうね」
 ミチルは手早く機器類をチェックする。
「神君?」
 すでに隼人は姿を消していた。
「まったく」
 彼なりの優しさなのだと、ミチルもわかっていた。
「……流君」
 バイタルデータは確かに竜馬が生きていると示している。肉体的な損傷はない。
 ただ、竜馬の心だけがここにいなかった。
「ねえ、流君」
 そっと話しかける。
「……あなたがいるべきなのは、この世界なのよ」
 答えはなかった。

   †   †   †

 目を開ける。
 暗い。
 寒い。
 傍らに誰のぬくもりもないと、はっきりわかる。
 ——ああ。
 もう、いないのだと直感する。
「う……」
 ぎゅ、と強く目を閉じる。
 けれども、達人を感じることはできなかった。
 ——夢……。
 目覚めれば、消えてしまう。
 ——消えて、しまった。
 ゆっくりと目蓋を開ける。
 ——ここは。
 完全な暗闇ではなかった。
 光源へそろそろと瞳を向ける。
 バイタルチェック用のモニタ画面だった。点滴の管が伸びて、右腕に繋がっているのが確認できた。
 ——俺……。
 ひとりきり、処置室にいるのだと理解する。
 いつからなのか。
 現実とも、夢の世界ともつかない記憶が混じる。
 達人、隼人、弁慶。
 達人、ミチル、達人——。
 次々に現れては消えていく。
 ——アイツら。
 ゲットマシンの映像モニタに心配そうな弁慶。次の場面では血相を変えて竜馬の名前を叫んでいる。隼人には手首を強く掴まれて何事かを問われた。表情は朧げで、何の感情の表れだったのか、それ以上は思い出せなかった。
 どのくらい、夢を見ていたのか。
 できることなら。
 ——もう少し……だけ。
 叶わないとわかっていても、願う。
「……うぅ」
 たちまち涙が滲む。拭いたくて左腕を持ち上げようとするが、力が入らない。
「……くっ」
 拳を握ると、ぴりっと小さな刺激が走った。
 ——え。
 針で突いたような痛み。
 少しずつ腕を上げる。固まった筋肉がぎしぎしと音を立てているようだった。
 ——何だ?
 やっと顔前に掲げ、そっと拳を開く。うっすらとした光にかざすと、薬指の腹に傷が浮かび上がった。
「————」
 真新しい傷痕。
 薄いかさぶたに血の色が滲んでいる。
「あ…………あ、う……ッ」
 涙が一気に込み上げ、溢れ出した。
「うっ……あ、たつ…………ひ……」
 冷たくなった頬を、温かい涙が伝い落ちていく。
 それはまるで、達人の指が頬を撫でているようなぬくもりだった。
「た……ひ、と……たつひと……っ、う、うあぁっ……」
 抑えきれない。

 ひたすらに哀しくて、
 寂しくて、
 このうえなく——愛しい。

「……ッ」
 竜馬の胸の奥に確かにある、思い。

 最初で最後の、たったひとつの純情だった。

   †   †   †

 泣き腫らした顔には触れず、ミチルは淡々と竜馬が倒れて以降のことと、現状の検査結果について述べた。
「具体的なことはわからないけど、あなたが兄と会っていたのは知っているわ」
 竜馬の目が泳ぐ。
「あなたが兄を助けようとしてくれたことも」
「……」
「もっと落ち着いてからでいいわ。何があったか、可能な範囲で構わないから教えてちょうだい」
「……ケンキューかよ」
 視線を合わせずに訊く。
「研究? そうね。少なくとも、興味本位ではないわ。今回の件はゲッター線に原因がありそうなの」
「…………ゲッター線に?」
「ゲッター線の影響で、まるで現実と同じような夢を見ることがあるようなのよ」
「……白衣着てるヤツは、そんなの調べてばっかだな」
 溜息をつき「仕方のねえヤツらだぜ」と呆れたように呟いた。ミチルは応じず、睫毛を伏せる。
 沈黙が続き、竜馬はようやくミチルを見る。
 赤い唇が開きかけては閉じる。幾度か迷うように繰り返し、
「ねえ、流君」
 呼びかけた。
「……あンだよ」
「昨日……兄さんの夢を見たの」
 竜馬の呼吸が止まる。
「子供の頃は、忙しい両親の代わりによく兄さんがご飯を作ってくれた。私、砂糖が入った甘い玉子焼きが大好きだったの」
 いつか食堂でくれたわよね、と訊かれ、ためらった後で竜馬は「ああ」と答えた。
「最後に食べたのはずうっと昔」
「……」
「でも、昨日食べたわ」
 ミチルが顔を上げる。瞳は少し充血していた。
「昔、私があげたエプロンを着けていたわ」
 くすっと笑う。夢の中で最初に見たような柔らかさ。
「何年ぶりかしら。兄さんの背中を眺めながら料理を待っているなんて——」
「……」
「ありがとう」
 あどけなさが宿る可愛らしい笑顔だった。
 ——達人。
 真面目で律儀な彼らしい。
 この分だときっと、早乙女博士のところにも現れたのだろう。
「……いや、俺は何もしてねえよ」
 鼻の下を指でこする。こういう場面は、妙に居心地が悪い。
「私が言いたかっただけよ」
 ミチルは「この話はこれでお終い」と締めた。
「流君から、何か質問があれば」
 声音はいつものぱきりとした調子に戻っていた。
「…………アイツら」
 無愛想な男と、巨体の男を思い浮かべる。
「アイツらは……どうしてンだ」
 顔を見せないパイロット二名について訊ねた。
「神君と武蔵坊君には、しばらく見舞いには来ないでって言ってある」
 竜馬がきょとんとする。
「何で」
「だって、あなたまだ病み上がりなのに、派手に喧嘩されても困るもの」
「たいしたことねえだろ。……ツラァ出さねえから、鬼にでもやられちまったかと思ったぜ」
 ふん、と鼻で笑う。
「心配いらないわ」
「だ、な、心配、してねえし!」
 上擦った声で返してから、不機嫌そうに口を曲げた。
「その顔」
「は?」
「見られてもいいなら、ふたりを呼ぶけど?」
「——」
 あからさまに泣いた痕跡を見せられるはずもなく、竜馬はいよいよ顔をしかめてぷいと横を向いた。
「……仲よくしろとは言わないけれど、あなたたちはもう少し歩み寄ったほうがいいわね」
 ミチルはふう、と息をつく。
「生命張って闘う仲間なんだから、信頼しなさいよ」
 教師然と言った。
「————」
 はっとしてミチルを見る。
 毅然とした、まっすぐな眼差し。
「おめえ——」
 竜馬はその目をじっと見つめる。
「何よ」
「……いや」
 何でもねえ、と首を横に振った。
「そう。なら」
 ファイルから一枚の紙を取り出して竜馬に差し出した。
「あン?」
「あなた、二週間も寝たきりだったの。今すぐ暴れたいかもしれないけど、検査と回復プログラムにつきあってもらうから。これはその予定表よ」
「回復? ぷ、ぷろ?」
「リハビリテーション——リハビリよ。要は、寝たきりで食事も運動も満足にできていなかったから、早く元の身体に戻るように訓練しましょうってこと」
「はあ? 俺はまだ死なねえぜ」
「口だけは元通りに回るみたいね。……大丈夫よ。それだけ元気なら、リハビリもそんなにかからないでしょうから」
 白衣の裾が翻る。
 扉へ歩き出して、ふと止まる。
「くれぐれも、勝手に出歩かないでちょうだいね」
 ちらりと横目で釘を刺した。
「それじゃ、また」
 再びコツコツとヒールの音が鳴る。
「ミチル」
 扉のセンサーが反応する一歩手前で、竜馬が呼びとめた。
「……何かしら」
 首だけで振り向く。
「おめえ……達人と同じこと言うンだな」
 竜馬が笑った。
 ミチルはわずかに眉根を寄せる。大きな瞳が泣きそうに揺れた。
 だがそれもほんの一瞬で、すぐに、
「だって、兄妹ですもの」
 ミチルの顔が華やいだ。

   †   †   †

 ようやく検査とリハビリから解放された。
 退屈で面倒な日々だったが、ひとりきりの時間が少なかったのは幸いだったのかもしれない。自分の殻に閉じこもって沈む暇もなかった。
 否応なしに時間は流れていく。前を向かなければ、歩けない。一歩踏み出さなければ、進めない。
 処置室から自室へ戻るまでの道筋があたかもそのことを象徴しているようだった。
 ——また、戻る。
 闘いの日々へ。
 それが竜馬の進む道だった。

 闘い続けることが竜馬の運命なのだとしたら。

 ——闘ってやるさ。
 そして。
 ——勝ってやる。
 その運命ごと破壊するためにまた闘う。
 立ち向かい、抗うことこそが竜馬の背負った業なのかもしれない。

 果てのない、永遠。

 通路を曲がる。
 隼人の姿があった。
 腕を組み壁にもたれて、竜馬を待ち伏せているようだった。
「よう」
 竜馬は軽い調子で話しかける。
「俺が寝てる間も鬼が出たンだって?」
 ミチルに聞いていた。
「俺がいねえと、満足に闘えなかったろ」
 からかう。
 だが隼人は答えず、感情の読み取れない双眸を竜馬に向けた。
「……ンだよ」
 竜馬も負けじと視線をぶつける。
 しばらく睨み合う。それから小さく息をついて隼人が口を開いた。
「何があった」
 ふと、竜馬の表情から険が消えた。
「おめえ……いい性格してンな」
 笑う。
 ただ、挑発とは違っていた。素直に面白がっているような、呆れてもいるような。
「フツー、気を遣って何も訊かねえンじゃねえの」
「お前に遣う気などない」
 隼人の返事は素っ気ない。竜馬は苛立つ素振りもなく、
「へーへー、そうだろうなぁ」
 がりがりと頭をかいた。
 相手にせず立ち去ることもできるのに、その場から動かない。
 やがて、竜馬がぽつりと言った。
「……夢を、見ていたンだ」
 天井を仰ぎ、目を閉じる。
 薬指の傷は塞がってしまった。まだうっすらと線が残っているが、もうすぐ消えるだろう——夢のように。
 けれども、竜馬の身体には達人の証がひとつ残っていた。
 左脚の付け根のずっと深い内側に、達人の口づけの痕が刻まれている。ひとつだけ現れて、消える気配はまったくなかった。
 ——いつか、消えても。
 消えないものを、達人にもらった。
 達人は「枷を与えてしまう」と心配していたが、そんなことは一切なかった。むしろ、竜馬の心を解放した。
 救おうと躍起になっていたが、自分こそが救われたのだとわかった。だからもう、悲嘆に暮れることもない。過去をなぞるためのカレンダーも必要ない。
 目蓋の裏にその人の笑顔を描く。
「けど……もう、見ねえ」
 続けて、唇が小さく「二度と」と動いた。
 ゆっくりと目を開ける。鳶色の瞳はどこか遠くを見ていて——そして隼人に焦点が結ばれた。
 ふたりは無言で見つめ合う。
 そのとき、警報が鳴り響いた。
『鬼獣よ! 急いで!』
 ミチルの声がスピーカーから流れる。
「ッしゃ! いっちょ暴れてやっか。リハビリってヤツだ」
 竜馬が迷いなく駆け出す。隼人もすぐさま続く。
「乗れるのか」
 問いに竜馬が振り向く。
「なら、その目で確かめろや」
 隼人の記憶にあるまま、不敵に笑った。
 ベアー号にはすでに弁慶が待機していた。
「竜馬、お前!」
 コックピットに着座すると太い声が広がった。
 続く言葉はわかっていた。だから竜馬は先手を打つ。
「ヘヘっ、大丈夫かどうか、すぐに見せてやるぜ!」
 弁慶がぽかんとし、それからニヤリとする。
「情けない闘い方すんじゃねえぞ!」
「うるっせえ! 誰に向かって言ってやがる! てめえこそな!」
 賑やかな応酬にミチルが割り込む。
『いい加減にして! 全機、いつでも発進可能よ!』
 三人の声が威勢よく「おう‼︎」と重なった。

 

〈完〉