子カムイ、早乙女研究所に来たばかりの頃。隼人が七夕をしようと笹を用意してくれました。
カムイは母親のことは「母上」呼び(子供の頃はそう呼んで、のちに「母さん」呼びになる幻覚)。約3,000文字。pixivにもあげています。
◆◆◆
何を書けばいいのか、と訊くと、何でもいいのだと返ってきた。
「——なんでも、ですか」
カムイは呆けて隼人を仰ぎ見る。
「何を願ってもいい」
それは、初めての衝撃だった。
「たとえば——そうだな、欲しいものがあれば、食べたいものでも、おもちゃでも、本でもいい。行きたいところがあれば、そこに行きたいと書けばいい。人間の子供は『宇宙に行きたい』とか『かっこいいスポーツカーに乗りたい』とか、いろいろ書くぞ」
「……人間の世界では、そうなのですか」
恐竜帝国では、個の願いを口にすることはできない。思ったとしても、気取られてはいけない。皆がこぞって願うのは、恐竜帝国の繁栄と、皇帝の血が永遠に続くことなのだ。だから——。
「会いたい人に、会いたいと願ったっていい」
「——」
隼人の言葉に目を見張る。
『会いたい人』——カムイは短冊を持つ指先に力を込める。
会いたい人。
隣にいて欲しい人。
一緒に時間を過ごしたい人。
思わない日はない。
「…………でも」
カムイは小さく呟く。
「願っても、叶うわけではない、ですよね……」
消えゆく言葉尻には虚しさと諦めが滲む。
文字としてはっきりと目の前に現れたら、遠い、遠い夢の話なのだと見せつけられてしまう。自分の力で叶えるのは難しいことなのだと、突きつけられてしまう。
「願う」行為は、同時に叶わない現実を知ることだ。
それなら、いくらかでも叶うチャンスのあることを願ったほうがいい。もしも叶わなくても、ひどく落ち込むことにはならない。
『母上に、元気ですと伝えてください』
そう、書き始める。これだって、本心からの願いだ。
「……確かに、何でもは叶わない」
今度は隼人が呟いた。
「むしろ、叶わないことのほうが多い」
母上、とまで書いたカムイが手を止める。
「金が欲しいと願っても、空から金が降ってくるわけでもない」
「そう……ですね」
「だが、願うのは自由だ。突拍子もないことでもいい」
「それなら……あそこの木にキャンディの実がたくさんなりますように、でもいいのですか」
「もちろんだ」
カムイの口元が少しほころぶ。
「……本当に、自由なんですね」
「ああ」
地上は初めてのことばかりだ。恐竜帝国と人間の世界。どちらがどう違うのか、まだ全然わからない。ただ、知ることは面白いと思った。
「人間は、叶わなくても願い事をするのですね」
「不思議か」
「はい。合理的ではありません。与えられないものをいくら願っても、それは——」
言いかけて、やめる。
さすがに「むだではないでしょうか」とは言い過ぎだと思った。七夕を楽しみにしている人たちもきっとたくさんいるのだ。それをカムイが一蹴していいはずがない。
「すみません」
カムイの目が、申し訳なさそうに隼人を見る。隼人は微笑んで、カムイの頭を撫でた。
「カムイ」
「……はい」
「確かに、願っただけでは何も変わらない」
ある日、目覚めたら空を飛べるようになっているわけではない。物語で読んだ英雄になれるわけでもない。無邪気な夢は、いつか現実を知る。
「ただ、願うということは、心の在り方を定める方法のひとつだと思う」
「心の……在り方……?」
隼人は頷く。
宇宙に行きたい——ではそのためには何をすればいいのか。何を学べばいいのか。どう日々を過ごせばいいのか。
「その願いを叶えるためには、自分はどう在るべきなのか——」
「どう、在るべきなのか……」
「心が定まれば、行く道も定まる。その道を行けば、いつか願った未来に辿り着ける——かもしれない」
未来という言葉は、カムイにはピンと来ない。けれども、何となく隼人が言いたいことはわかった。
「神さんにとって、『願い事』とはそのようなものなのですね」
隼人は目を細め、もう一度カムイの頭を撫でた。
カムイは短冊を見つめる。
叶う叶わないではない。
すう、と息を吸い、胸に溜める。それを大きく吐き切って、カムイは改めて短冊に書き込んでいく。
「できたか」
「はい」
「では、飾ろうか」
窓の外、陽に照らされたデッキには、立派な笹が飾られていた。
どこがいいだろうか、と視線をあちこちにやる。
「あそこがいいだろう」
と、隼人が指を差す。そちらを見れば、ずいぶんと高い場所だった。脚立がなければ、カムイの身長では到底届かない。
「あそこが一番、天に近い場所だ」
「天——」
カムイは首をめいっぱい後ろに倒す。胸が晴れやかになるような、澄んだ青空が広がっていた。
壁も、天井もない。本物の天だ。そこに浮かぶのは、本物の太陽と雲。夜になれば、本物の月と星が現れる。
母もこの天を見ていたのだ——カムイの心が震える。一番天に近い場所に、願いをかけるのだ。カムイは短冊をきゅっと握りしめた。
隼人が「よし」と言ってカムイの後ろに立った。
「カムイ、短冊を落とすなよ」
「え、神さ、——ぅわっ」
両脇に隼人の手が差し込まれる。次の瞬間、カムイの身体は浮き上がっていた。
「うわぁっ」
自分でも驚くような声が出てしまった。
「どうだ、カムイ」
「あ……」
大きく見開いた目で辺りを見回す。隼人の肩の上から見る景色は別世界のようだった。
「……すごく、いい眺めです」
「そうか——そうだろう」
カムイの驚きと喜びが伝わったのか、いつになく隼人は嬉しそうに表情をゆるめた。
「そら、しっかり結べよ」
「はい」
カムイは思い切り手を伸ばし、一番高いところに短冊を結ぶ。
願いを込めて。
「——結びました」
隼人の顔を覗き込む。隼人の目は、風に揺れる笹に注がれていた。
「……神さん?」
「懐かしいと思ってな」
「懐かしい? 七夕がですか」
「ああ。……まだ、旧早乙女研究所にいた頃だ。皆で飾り付けをした」
それは、今となっては夢の世界のように遠い出来事だった。
「では、神さんも願い事をしませんか」
「何だと?」
カムイの提案に、隼人は上を向く。カムイはじっと隼人を見つめた。
「…………俺はいい」
隼人は苦笑混じりに首を横に振った。
「俺はもう、ここまで歩いてきてしまった」
その言葉が何を含むのか、カムイには知りようがなかった。
「……わかりました。では、神さん」
「何だ」
「来年も笹を飾ってください。また、七夕がしたいです」
「ああ、わかった」
「もう、来年の願い事は決めました」
カムイが言うと、少しの間をおいて隼人がくすりと笑った。
「気が早いな」
「はい」
カムイも笑う。
「七夕って素敵ですね」
「ああ。だがカムイ、本番はこれからだぞ」
「え」
「夜にまた来よう。今日は晴れているから、天の川が綺麗に見えるぞ」
「天の川……」
カムイは天を見上げる。
夜になれば、この空を埋めるように星々が現れる。それは、皆の願いの数だけあるのかもしれない——そう思った。
清しい風が吹き抜けていく。
『母上の願い事が叶いますように』
カムイの思いを乗せた短冊が、夏の風にそよりと揺れた。
