やがて、夜(よ)は明ける

チェンゲ隼竜

過去、つきあってました。タワーでの再会・和解直後。
竜馬から誘われ、「竜馬が望むのなら」と夜を共にする隼人のお気持ち話。このお話は2度目の夜、行為のあとの場面です。ハピエン。約6,000文字。あとでpixivにも載せます。
・もともと恋人同士の設定。
・銃は返されたけれども、それは「一緒に闘う仲間」としての和解であり、「恋人同士」としての決着はまだついていないと隼人は思っています。竜馬の真意を図りかね、これが最後の逢瀬かも、と思っています。
・隼人には顔以外にもバリバリ傷がついている設定。
・竜馬は行為のときも包帯・手錠はつけたままです。

◆◆◆

 背中を向けたときだった。
 ベッドが軋む。起き上がる気配と触れられた感覚に、隼人はサイドテーブルに伸ばした手を止めた。
 指先の感触。見えなくてもわかった。包帯越しでもその下の熱がわかった——さっきまで抱き合っていたのだから。
「俺の知らねえ傷」
 腰にかけて伸びる傷痕を竜馬の指先がなぞっていく。
「いつ、どこで?」
「それは——」
 隼人は答えようとして口をつぐむ。そして逡巡する。
 細かい傷ならいざ知らず、加療が必要な深手を負ったのだから覚えている。けれども訊かれたからといって話していいものか。
 自分の手で深く深く傷つけてしまった相手に、己の上辺についた傷を語るなど悪趣味以外の何物でもない。それならいっそ、忘れたフリがいい——本当にそうだろうか。竜馬が知りたいと言うのなら。
 ひと呼吸ほどの間に、目まぐるしく考える。
 ふ、と微かな笑みが背後で零れた。
「またそうやって、考え込む」
 指先は少し左上に戻り、今度は斜め下に滑っていく。
「何でもかんでも独りで考えて、考えまくって——全部、呑み込んで」
 当然だ、と隼人は思う。この世界に生きて闘い続けると覚悟を決めた以上、犠牲に報いるには己をすべて差し出すしかないのだ。
「ここ」
 ゆっくりと肌をなぞりながら、竜馬が呟く。
「十字架みてえ」
 右に滑った指が一旦離れ、今度はまっすぐに引き下ろされた。
「……ああ」
 隼人は少しのためらいのあと、やはりためらいがちに張りのない返事をする。
 縫合が済んだのち、鏡を見て同じように思った。傷口を覆うガーゼに赤い十字が滲んでいくのをじっと見つめていた。
 あのときの隼人の視線をなぞるように、竜馬の指先が傷痕をもう一度なぞる。
「……」
 肉が盛り上がった傷痕は、ほんの少しだけ感覚が鈍くなる。薄い膜越しに触れられているような感触。それでも、竜馬の指の動きをしっかりと拾っていた。
 包帯越しの体温で十字が刻まれて、そっと離れていく。
 あとには、しん・・と降る沈黙のみ。隼人はベッドの縁に腰掛けたまま動けずにいた。
 傷痕はまだ竜馬の体温を宿している。その熱に呼び覚まされたように、忘れていた痛みが肉の奥でじくりと湧いた。
 竜馬を思えば、肉体の傷など些細なことだった。だからどれほど血を流そうが足りなかった。むしろ、痛みが欲しかった。あがない切れないとわかっているからこそ、生命を削ってきた。
 竜馬の、生気に満ちたあの笑顔。隼人に向けられる、深い信頼と愛情に溢れた眼差し。屈託のない存在そのもの。熱くて、明るくて、猛々しい。太陽のような——否。太陽そのもの。
 二度と戻らない。
 銃を返され、再び仲間として闘いに向かう立場になったとしても、時は戻らない。
 過去は、子供の頃に聞いた御伽噺おとぎばなしのように曖昧で儚い。それほどに現実味がなくなってしまった。ただ、ひどく懐かしい。ひびのひとつもない関係だった頃が懐かしい。深い場所に追いやった記憶の蓋を開けたくなる。隼人の目が虚ろに時間を遡ろうとしたとき。
「——しっかし」
 停滞した空気を割って竜馬の声があがった。隼人の意識は現実いまに立ち返る。
「よくもまあ、こんだけ傷つけまくったな」
 苦笑いにはあきれが含まれていた。
「切られて突かれて、えぐられて焼かれて。もうボッコボコじゃねえかよ」
 悲壮感はなく、軽口のトーン。けれどもそこに、わずかな寂寥せきりょう感が含まれている——ように隼人には感じられた。
『俺が知らない過去』
『俺が存在しなかった時間』
『俺が隣にいたならば、きっとつかなかった傷』
 そんなことを思い、どこかで寂しいと感じてくれているのだろうか。考えて隼人の唇が自虐的に歪む。
 どうしたって、都合のいい解釈だ。竜馬が「こう感じているかもしれない」と想像することすら、本来なら烏滸おこがましい行為だ。
 きゅっと拳を作り、改めて手を伸ばす。サイドテーブルからグラスを取って、あおる。腑抜けた考えを喉奥に押し流してしまいたい。すっかりぬるくなった水が心地よさのかけらもなく食道を落ちていった。
「なあ」
 竜馬が問う。
「人工皮膚だってあんのに、わざわざこの傷痕、全部残してんのか」
 隼人は振り向かずに答える。
「傷は時間が経てば塞がる。それで事足りる」
 肉体の痛みは、隼人を殺す者ではないからだ。
「けど、これとか……ここも。塞がったって、でかい引きれは動くのに邪魔だろ。あとからでも十分、形成手術できただろ」
「別に、どうってことない」
「ああ?」
「皮膚は伸びる。それに、むさ苦しい男の身体に、しかも見えないところに貴重な人工皮膚を使うより、もっと必要なところに回してもらったほうが有意義というものだ」
「……ふーん」
「……」
 どこまで言葉を紡ぐか。隼人はひとつまばたきをしながら迷い、竜馬の素っ気ない相槌をいいことに口を噤んだ。
 竜馬はまだ、傷痕を眺めている。
 何を考えているのか。思っても、隼人に訊く勇気はなかった。さりとて沈黙をじっと耐えるだけの我慢もなく、間を取り繕うべくグラスを口に運んで——。
「十字架を背負ってるつもりか?」
 見計らったように竜馬の声が飛んだ。
 隼人の目が見開かれる。わずかな緊張が空気を震わせる。変化を察知した竜馬が再び小さく笑った。
「ちょうど、心臓の真裏」
 包帯に包まれた竜馬の手のひらがそっとあてがわれる。
「——」
 また、熱が伝わってくる。
「傷痕を後生大事に背負っていくことで、償っている実感でも欲しかったのか」
 どく、と体内に鼓動が響いた。
 隼人は目を閉じる。静かに息を深く吸う。
 竜馬は正しい。
 割り切ったはずだったのに、姑息にも救いを求め続けていた身勝手さを言い当てられてしまった。やはり隼人を一番理解しているのは、竜馬なのだ。
 心臓の音が、どく、どく、と響く。
 自分のものなのか、それともひたりと当たったたなごころを通して竜馬のものが届いているのか。
 視界が閉ざされ、会話も途切れ、いっそう、鼓動が響く。きっと竜馬も感じているに違いなかった。
 どく、どく、どく、と鳴る。生きて、足掻こうとする音をふたりで聞く。心音が鳴るたびに、少しずつ竜馬の心と混じり合っていくような気がしていた——どこまでも身勝手な想像だなと隼人が苦笑を浮かべた。
 不意に、柔らかいものが背中に押し当てられた。
「……っ」
 びくりと隼人の身体が前に泳ぐ。弾みで背中の感触が消える。だがすぐにまた、感触が追いかけてきた。
 指先とも違う柔らかさと温度のそれは、盛り上がった傷痕の中心を慰めるように覆った。
 紛れもない、唇の感触。見ずともわかる。
「————」
 頭の中が真っ白になった。右手からグラスが滑り落ちそうになる。咄嗟に指先に力を込め、左手では口元を押さえる。そうでもしないと、喉の奥から無様ぶざまな引き攣れ声が溢れ出てきそうだった。

 ゆるしか、罰か。

 白く崩れ落ちていきそうな思考を懸命にとどめ、考える。竜馬の意図を探る。
 再会ののち、一度目は竜馬から誘ってきた。言葉少なに、けれども勘違いのしようもないほどストレートに。熱を孕んだ竜馬の素肌に触れたとき、赦しの機会を得たのだと思った。銃は返ってきたが、あれが「ふたりの関係」においての決着だとは考えていなかった。
 だから、赦されなかったとしても、竜馬が望むのなら与えられるものを与え切ろうと決めた。
 今夜も、誘いをかけてきたのは竜馬のほうだった。密かに期待していた二度目の夜の訪れに、少しは竜馬が欲しいものを渡してやれたのかもしれないとほっとしつつも、一方では最後通牒となるかもしれない不安が胸をよぎった。
 心がざわめき、心臓が波打つ。不穏な予感が急速に膨らんでいく。
 目の前から消えてしまったのならどうしようもない。可能性すら存在しないのだから。
 しかし目の前に在るのに触れられなくなるのは、このうえなく残酷ではないか。
「また考えてる」
 ふん、と小さく鼻が鳴る。否応なしに懐かしさが込み上げる。幾度となく耳にした、隼人をからかうときの竜馬の癖。
「なあ、隼人」
 もたれかかるような、独特の響き。隼人の胸が愛おしさと苦しさで軋む。
 竜馬の指が柔く十字をえがく。
「……いくら待ってたって、神様なんて来やしねえぜ」
 その声が幻想を打ち砕く。
 ああ、と隼人は胸の内で深い嘆息を漏らし、居た堪れなさに目蓋をぎゅっと閉じる。
「もし来てくれたってな、神様は何もくれやしねえ。……なァんにも、だ。そこにただ、いるだけだ」
 それは宣告だった。
 神様は救ってはくれない。
 隼人の心臓が凍った。
 竜馬はどれほどに願い、祈ったのか。底なしの虚しさを知った果てに得た答えが、今の科白なのだ。
 隼人の表情がきつく歪む。だが涙のひとかけらも出てこなかった。
 それでも、心は痛む。痛む資格はないのだと理解してなお、痛む。人間らしさを捨て切れない弱さと、竜馬を手放したくない浅ましさ、どこかで赦されるはずだと考えていた傲慢さに反吐が出そうだった。
 このうえなく残酷なことをしたのは、自分のほうなのだ。
 これは、罰だ。
 太陽を失った夜は、永遠に明けない。
 隼人は震えが混じった息を細く、細く漏らした。
 ゆっくりと目を開ける。明かりはヘッドボードの小さなライトだけ。光が届かない部屋の奥は暗闇に溶け込んでいた。輪郭が曖昧になった世界をぼんやり眺めていると、視界の右端から竜馬の腕がニュッと現れた。隼人の手からグラスを奪い、引いていく。
 背後でごくりと水を飲む音があがった。
「……ぬる」
 呟いて、包帯を巻いた指がサイドテーブルにグラスを置いた。手首からぶら下がる鎖がほのかな明かりを受けて鈍色にびいろに光った。
「隼人」
 右耳の後ろから聞こえる。闇に呑まれかけた世界の中で、すっと輪郭の立った声だった。
 引き寄せられるように隼人は振り向く。まっすぐに己を見つめる視線があった。
「……」
 唇が名前を呼びたがった。だが呼んでいいのかわからない。隼人は口を閉ざす。竜馬の整った顔立ちに不快さが滲むのは見たくなかった。だから目の前の唇からどんな言葉が零れても受け入れるつもりだった。
 竜馬の長い睫毛が上下した。これで見納めなのだろうと目に焼きつける。
 感情を意識の深い場所へ沈めていく。眉ひとつ動かさぬように、静かに心を殺していく。

 それなのに。

「な、もう一回しようぜ」
 耳を疑う言葉が聞こえてきた。
「な、はやと」
 呼び掛ける声には甘やかさが含まれている。
 いつだって、竜馬は想像を超えていく存在だった。
 隼人の目が見張られる。つられて唇も開く。茫然とした隼人を見、竜馬の目も大きくなる。
「すげえマヌケ顔」
 それから笑った。
「罰ってなあ、誰でも与えられるけどよ」
 竜馬の右手が隼人の胸に回される。反射的に身を引こうとする隼人を引き留める。
「罪を赦してやれんのは、罪を犯した本人だけ」
 言いながら隼人の左胸に十字を刻む——迷いなく、しっかりと。
 包帯の指先から放たれた熱が肌を突き抜ける。凍てついた心臓にまで、届く。
 一瞬だった。
 心臓が熱に包み込まれ、再び鼓動を刻み始める。どくどくと力強く脈打つたびに熱い血が体内に広がっていく。まるで、竜馬からたぎる血を分け与えられたようだった。
「…………俺を赦して……やれるのは」
「ああ」
「俺……だけ……」
「ああ」
 隼人の呟きに、竜馬は頷く。
「俺はそれを見届ける」
「——竜馬、俺は」
「おっと」
 くすりと笑った唇が、隼人の唇に押し当てられた。
 あっという間に、隼人は言葉を見失う。
「…………りょう、ま」
「ごちゃごちゃうるせえのは、あとにしてくれよ。今せっかく、そういう気分・・・・・・になってきたのによ」
 左腕も、隼人の身体に絡みついてくる。
「なあ、はやと」
 さっきよりも明らかに甘く、艶のある声だった。隼人の耳朶を撫でて肌に落ち、まとわりつく。
「お前は、どうしたいんだ?」
 唇に息がかかる。訊かれて、全身を巡る熱い血が一気に頭にのぼる。
「この前と今夜。……二度も俺を抱いて、今、何を思っている?」
「…………俺、は」
「うん?」
「俺は」
 身体を回し、竜馬と正対する。竜馬はじっと、続きを待っている。瞳に拒絶は見当たらない。竜馬は嘘がつける男ではない。それは隼人が一番、わかっていた。
 眼差しにいざなわれ、隼人は込み上げるままに告げる。

「——お前が、欲しい」

 きっと一生、心の中で朽ちていくだけだった言葉をかたどる。声が喉に引っかかって、うまく言えなかった。
 それでも、竜馬が満足とばかりに目を細めた。
 隼人は指先を伸ばす。初めて触れるときのように震えていた。気づいた竜馬が眉尻を下げる。「しょうがねえな」と苦笑するときの顔でその指先を受け入れた。
 頬を撫でる。くすぐったそうに、竜馬がわずかに身じろぐ。そのあとで、ふん、と鼻が鳴った。
「こういうのは、考えたって始まらねえんだよ」
 その通りだった。考えて決着のつく関係ならば、とっくに物語は終わっていた。竜馬が訪ねてきた夜、抱かなければよかっただけだ。竜馬が何を言ってきたとしても、撥ね退けて自分への憎しみを煽ってやればよかったのだ。
 そうすれば、竜馬が感じる哀しさをほんの少しでも紛らわせてやれたのに。
 終わらせたくなかったのは、自分のほうだった。どうしようもない。
「……そう、だな。お前の言う通りだ」
 まだ震えている指先で唇にそっと触れる。柔らかな唇が隼人を受けとめ、応えるように小さなキスを返してきた。情熱が灯る。この瞬間をつかまえて、永遠にしたかった。
「…………竜馬」
「何だ」
「お前が欲しい」
 目を見て、今度はもっとしっかりと言えた。
「もう、お前を失いたくない」
 現実いまを生きる神隼人として、一番伝えたいことも。
 灰色がかった竜馬の瞳が、濡れたように深くきらめく。絶望と虚無の暗渠あんきょではなく、気高く凛とした深淵だった。
 隼人は見惚れる。呼吸も忘れて見つめる。
 やがて、竜馬の瞳に浮かぶ光が優しげにまたたいた。その煌めきがまっすぐに隼人の胸に射し込む。生まれたての朝日のように、まっさらな光だった。
「ちゃんと言えるじゃねえか。ばーか」
 曇りのない、軽やかな声が響く。

 どれほどときが流れても、宇宙の果てまで探しても。

 隼人に向かってそんなことを言いながら微笑む人間は、ふたりと存在しなかった。