2023/8/5開催ネオゲ隼號webオンリー【8月5日は隼號の日!】でPDF配布したお話。
『I Know / I Don’t Know』(R18)の続編。このお話単体でも読めます。基地内にある隼人の自宅の合鍵をもらう號君のお話。約9,700文字。
・恐竜帝国と最終決戦前の設定。
・前提:元は隼人⇄號で「隼人→竜馬」と信じ込んだ號君がそれでもいいと誘って肉体関係からスタート、その後隼人の気持ちを知って正式に恋人同士になっています。
・ほんの少しだけ號君の回想で家族のことが出てきます。家族構成は全書参考。
◆◆◆
呼ばれて振り向くと、何かが飛んできた。
弧を描いた小さな影は、一秒後には號の右手に収まっていた。
「……鍵?」
わずかにひやりとした温度としっかりした硬さを確かめる。
「神さん、これ——」
隼人が窓の外を指差す。
「へ?」
窓辺に歩み寄り、眺める。ネーサー本部の裏側、広大な敷地の西側には住宅地が広がっていた。所員専用の居住区である。
「あそこの山の中腹に白い家があるだろう?」
「え? どこだよ。ん……あ、あれか!」
基地は山々に囲まれている。住宅地は一方の山裾まで続いていた。奥詰まりからぐねぐねとした道路が山腹に伸びていて、その先に一軒だけ建物があった。
「あれ家なのか? 監視所とかじゃなくて?」
ただの箱のようなシンプルな外観をしている。基地内を広く見渡せそうな場所なのも相まって、號は素直に口にした。
「まさか俺があそこに缶詰めになって恐竜帝国の動きを見張る……とか?」
途端に不機嫌そうな顔つきになる。隼人はその心中をすぐに察し、唇の端を上げた。
「お前には何かあったらすぐにネオイーグルで出撃てもらう」
「だよな!」
瞬時に表情が変わる。パッと空気を塗り替えるような明るい笑顔につられ、隼人の口元がもう少しはっきりとした笑みを作った。
「あ? じゃあこれって……」
キーリングをつまみ上げて目の前に掲げる。大小ひとつずつの鍵がぶら下がっていた。
「俺の家の鍵だ」
「…………へ?」
たっぷりと間を置いて、それでもなお、號は茫然と鍵を見つめていた。
「一応、俺の家は本部じゃなくて、あそこだ。まあ、どうしたって忙しくてな、毎日は帰れない。月に数回、それもほとんど着替えを取りに行っているようなものだ」
隼人は苦笑する。
「だが、これからはもっと帰ろうと思っている。行き来に三時間、四時間かかるわけでもなし、見えているのに帰れないなんて、不条理だしな」
「…………」
大きく見開かれたままの瞳はやっと隼人を見て、ずっと向こうの家を見て、それから鍵を、最後にまた隼人をとらえた。
「今日は遅くても十八時までには終わるから、半には帰れる。夕飯は家で一緒にとろう」
號は耳を疑う。
「ゆっ、ゆうはっ、ゆう、いっしょ——」
「夕飯を、俺の家で、一緒にとろうと言っている」
隼人が噛んで含めるように言う。
「そっ、それって……、えっ、あの、これっ」
いつになく狼狽して、
「えっ、合鍵……ってヤ……ツ……」
語尾が消えていった。
「ああ。先に行って待っていてくれ。緊急事態のときは迎えの車をやる」
「あ、ああ」
隼人が身を屈めて口を寄せる。號の全身がびくりと強張った。
「今後、帰れそうなときはあらかじめ連絡する。お前も好きなときに好きなように使っていい。……自分の家と思ってくれ」
右耳に押し込むと「じゃあ、あとでまた」と封をするように残し、隼人は去っていった。
號は——。
「…………ウソだろ」
顔を真っ赤にしてしばらく立ち尽くしていた。
† † †
「……でけえ」
號は口をあんぐり開けて見上げた。
居住区への移動手段は主にマイカー、バイク、自転車、それに巡回バスだった。ちょうどいい時間に出発するバスがあったので乗り込む。スポーツバッグには考えた結果、一泊分の着替えと新しい歯ブラシを入れた。道中は基地内の地図と車窓を見比べながら景色を楽しんだ。
そうして山の麓のバス停で降り、時折振り返っては小さくなっていく家々を眺めながら——反対に大きさを増していく白亜の邸宅を胡乱な目つきで見やりながら——坂道を登ってきたのだった。
「……こんなとこに、ひとりで?」
基地内という条件を除けば眺めのいい別荘そのものだ。自分自身のことは全部後回しにする隼人が望んだとは到底思えなかった。となると、司令官という立場上、持たされた自宅だろうか。
それならこの大きさも頷けるし、本部にいちいち戻ったり連絡を取らなくても必要なデータがわかるような機器類や、いざというときのための武器庫もあるのかもしれない。
改めて眼下を見る。
監視所、という最初の印象はあながち間違っていないと思った。基地全体の様子がわかる。
「あれ?」
住宅の合間、合間に設けられた妙なものが目についた。
「ん、何だ?」
目を凝らす。そこだけ別の材質で、蓋のようにも見える。
「あ、もしかして」
本部の周囲にもよく似たものがあった。必要に応じて地上に迫り上がる、格納式の出入り口だ。あそこにあるなら、地下シェルターへの入り口ではないか。そういう視点で見れば、ここは有事の際の司令室になり得る。あのシェルターとこの邸宅の地下は——もしかしたら本部からも——繋がっているのかもしれない。
「っていうか」
突然敷島博士の顔が思い浮かんだ。
まさか山が割れて中から迎撃用のミサイルが大量に出てくる——。
「なんてな。…………いや、あるかもしんねえ」
隼人が帰ってきたら訊ねてみようかと思いながら、號は玄関に向かった。
邸宅に相応しい佇まいの扉を、大きいほうの鍵で開ける。
「お邪魔……しま〜す」
物怖じという言葉とは縁遠い號ではあったが、さすがにひと声かけずにはいられなかった。
広いエントランスホールが出迎える。辺りを見回すが、日本家屋の上がり框のようなものはなく、どうやら靴を脱がずに進んでいいらしい。
「……開けるぜ」
號にしては行儀よく声をかけ、左側の大きな扉を開ける。中は会議やちょっとしたパーティーができるような広間になっていた。豪奢ではない。ただ品があって整った内装だった。
「……ここで飯食うワケじゃねえよな」
どう考えても生活するような雰囲気ではない。扉を閉めて奥を見る。同じ扉がふたつ。たぶん、似たような部屋だろう。
ホールを挟んだ反対側にはもっとシンプルな、至って普通の玄関扉があった。インターホンもある。
「あ、これって」
ポケットから鍵を取り出す。小さいほうを鍵穴に差し込み、回す。案の定、小気味よい音がしてロックが解除された。開けると、ようやく自宅らしい内玄関があった。
號はやっと安心したように、ふう、と大きく息をついた。
「ん」
スニーカーを脱いだ右足をひょいと上げて確認する。靴下は綺麗なはず。でも念のため脱いだほうがいいか、いや、こんなにワックスがびかびかの床に足裏の脂がついたら悪いし。
そんなことをクルクル考えてから、ふと玄関脇にスリッパがあるのに気づいた。
ラックには二足ある。號のパイロットスーツと同じ鮮やかな青のスリッパが目を引いた。
「これ、俺のかな」
もう一足は黒色。落ち着いていて、どちらかといえば隼人向きだ。
「うん、青色だな」
ちゃんと靴下も履いているのだし、このくらいなら間違えたとしても隼人は怒らないだろう。
「そんじゃ、改めてお邪魔します……っと」
真新しいスリッパを履いて廊下を進んでいった。
† † †
「高級ホテルみてえだな」
室内を見回す。一言で表すなら、「品がいい」。シンプルで、だがシックで使いやすそうな調度品ばかりだった。
闇プロレスで稼いでいた時分、たまに元締めに連れられて、ちょっといいレストランやホテルでのお茶会に行くことがあった。上流階級と呼ばれる人々の衣食住の一端に触れる機会もあったから、何となくでも物の善し悪しはわかる。
「……何か、さすが神さんって感じ」
自分で選んだものではないかもしれないが、彼の毅然とした姿勢に似合うと思った。
ソファに座る。
「うお」
ふっかりとした座面に身体が吸い込まれていくようだった。それでいて沈み込み過ぎず、気持ちいい。
「すげ……。待ってる間に寝ちまいそうだな」
本部内の自室とは雲泥の差だった。
——……ここ、慣れるのかな。
高価そうな調度類に傷をつけたり汚したりしたら悪いし、自分のほかに人の気配がまったくないのは奇妙な感じがする。好きなときに好きなように使っていい、とは言われたものの、隼人がいない日に来てもしょうがないではないか。
それに。
とにかく広かった。キッチンと一体化しているリビングだから余計にそう感じる。あっという間にひと巡りできる部屋に住んでいる身としては正直、落ち着かない。
高い天井を見上げる。
もしかしたら。
隼人の姿を思い浮かべる。いつも突き動かされるように——いや、むしろ追い立てられるようにと言ったほうが近いのかもしれない——動いている。立ち止まったらいけないと己に課しているかの如く。
もしかしたら、わざと帰らない日もあったのだろうか。
そうだとしたら、自分と同じ理由かもしれない。
「…………」
ソファの背もたれに身体を預ける。目を閉じ、少しの時間を使って頭の中と気持ちを整えた。
「よし」
数分後、ぱっちりと目を開ける。
「せっかくだから、ちょいと探検でもすっか」
すっかりいたずらな顔つきを取り戻した號はバネ仕掛けのように元気に立ち上がり、大きく伸びをした。
「まずは……っと」
ぱたぱたと軽快にスリッパの音を鳴らして廊下を進む。
「トイレか?」
木目の綺麗な引き戸を開ける。するりと軽く動いて洗面所が現れた。
「キレイ過ぎて、使うのが悪りい気がしちまうよな」
苦笑しながら、黒くつやつやと光る御影石の洗面台をひと撫でする。
「……広いな」
ふたり並んでも十分そうだった。あの隼人と並んで歯を磨くのかもしれない、彼の髭剃りシーンを見られるのかもしれないと思っても、まだ現実感がない。どこか他人事のようで不思議だった。
洗面所の両サイドにも引き戸があった。風呂だな、と予想しながら左側を開ける。残念ながらトイレだった。しかしそこも余裕のある空間で、號の口からは「ほええ」と感嘆が零れた。
「じゃあ、こっちが風呂か」
戸の先は脱衣所だった。壁際にはドラム式洗濯機が置かれている。だが使い込んでいるようには見えなかった。本部にいればコインランドリーもあるしクリーニングにも出せる。時間を作って帰宅したとして、洗濯物を仕分けして洗って畳んで、おまけにワイシャツにはアイロンをかける。そんな手間を考えれば、なかなか使う機会がないのも納得だった。
収納ラックには洗濯用洗剤のほかに、シャンプーやボディーソープ、入浴剤などがまとめられていた。ポンプ式のボトルにはストッパーがついている。新たに買い揃えたのか。
「……あ」
共用だろうかと考えて、隼人と同じ家で過ごすことへの実感が少し湧いてきた。同じ香りをまとっていたら不審に思われないだろうか。翔は常に気を張り巡らせているから、細かい変化によく気がつく。剴は食堂と二フロア分離れていても本日のお勧めメニューが何かわかる。
「ん……まあ、バレてもいいんだけどよ」
それをネタにからかうようなふたりではない。ただ、気恥ずかしい。変に気を遣わせたら悪いし、シャンプーは別のものを使おうか、など考えながら風呂を覗いた。
「うっわ、広っ」
思わず叫ぶ。洗い場も浴槽も、ふたりで入るのに十分な大きさだった。
「——」
ふたり、と思い浮かべてしまったあとで顔が熱くなった。誰も見ているはずはないのに、きょろきょろと周囲を見回す。
「え、ええと、次だ次」
頭を振って妄想を払い落とす。急いで戸を閉め、號はそそくさと廊下に戻った。
深呼吸をして廊下の奥に目線を向ける。
残すは二箇所。手前は隼人の仕事部屋だろうか。ドアノブを回す。施錠はされていなかった。隙間から中をうかがうと、果たして大きな本棚とデスクが目に入った。
やっぱりな、と頷いて戸を閉める。
「……あとは」
一番奥まった部屋は当然。
ドアノブに手を伸ばしかけ、やめる。
「…………」
ベッドがふたつ並んでいたらどうしよう。
——いや、それより。
キングサイズのベッドが威圧感を持って鎮座していたら、どうしたらいいのか。
どうしようもない。
——っつうか、別にどうってことねえだろ……!
第一、隼人は体格がいいのだから、ひとりでキングサイズのベッドを使っていても不自然ではない。あったとして、別に號のために用意したわけではないのだから、ここで焦る必要もない。
——けど。
「……み、見ねえほうがいい」
晴れて恋人同士と呼べる仲になったのだし、肉体関係だってある。本当はこんなに狼狽するようなことでもないはずだ。
それなのに、心臓に悪い探検となった。
リビングに戻ると、急に喉の渇きを覚えた。ずっと奇妙なテンションだったから無理もない。
「水……ってか、お茶ぐれえ入ってるかな」
スリッパをあつらえてくれたのだ。気が回る隼人なら、麦茶くらいは用意してくれているのではないか。
「コーラがあったら最高なんだけどな、神さん」
そこにいるかのように呼びかけて、冷蔵庫を開けた。
「——あ」
號の目が見張られる。
炭酸飲料とお茶類は想定していた。だが——。
ゼリーにプリン、バターにマヨネーズにケチャップ、それから卵やヨーグルト。日持ちのするカット野菜、ハムにウインナーに厚みのある肉。想像よりもたくさん入っていた。
「……賞味期限、大丈夫かよ」
月に数回程度しか帰れていないのなら、これらはいつのものなのか。
肉のパックを手に取る。見た目には問題なさそうだった。
「すげえ、ステーキ——おわ」
視線をずらしていき、値段に驚く。
「こんな高い肉、悪くしちまったらもったいね……あれ?」
消費期限は明日になっている。ならば昨日か今朝、買ってきたものだろう。
バターの紙パックを取り出す。開け口に指を掛けた際のへこみがまったく見当たらない。
號はひとつひとつ手にして確認する。すべて賞味期限内のもので、買ってきてそのまま冷蔵庫に入れたようだった。
今度は冷凍庫を開ける。炒飯やパスタ、焼きおにぎりなどの冷凍食品に、下拵え済みで火を通すだけのコロッケやエビフライ。料理に使いやすいシーフード類、数種類のカット野菜。霜のほとんどついていないところを見ると、こちらも購入して間もないようだった。
「……」
冷凍庫を閉めて回れ右をする。
ふたり並んで作業をしてもまだ余裕のあるシステムキッチン。並べられている調味料を見ていく。サラダ油、ゴマ油、オリーブオイル、料理酒。砂糖、塩、酢、醤油、味噌。コショウ、ラー油に七味唐辛子などの小瓶。
「……これ」
全部、未開封だった。
「……っ」
一歩、後退る。
聞く者はないのに、零れてきそうな心を必死で抑える。
——う、わ。
明らかに號の滞在を前提にしている。忙しい最中、あれこれと買い集めたのか。
よろめいて、さらに下がる。背中に冷蔵庫の硬さが当たった。
心臓が勢いよく暴れ回っている。號は身体を冷蔵庫に押しつけるようにして、どうにか冷静さを探し出そうとしていた。
——こんな……こんな。
今、隼人と一緒でなくて本当によかったと心底思った。こんな状況、見られたくない。
「〜〜〜〜っ」
自分がどんな表情をしているのかわからない。顔も頭も熱いし、頬の筋肉は緊張しきっている。眉根はさっきから寄ったままだし、唇の端は引っ張られるようにひくりと動く。胸の中は何かがつかえている感じがするし、なぜだか泣きたい気持ちにもなってきた。
この分ならバスタオルもパジャマも歯ブラシも、きっと號のものまで揃えている。
——鍵を渡すって、そういう……。
隼人と暮らす未来が一気に現実味を持って目の前に現れた。手を伸ばせば掴める。
感情の波が押し寄せる。
——苦しい。
けれどもそれは、嬉しさと歓びから込み上げてくるものだった。
† † †
窓の外を見つめる。
沈みゆく太陽に照らされて、山々が濃いオレンジ色に染まっていた。一番星が輝いている。もうすぐ本格的な闇が降りてくるだろう。
白色で力強い基地の照明とは反対に、小さくて柔らかい光がぽつぽつと灯り始める。號もリビングの明かりをつける。
——ああ、いいな。
それぞれの灯火の下に、それぞれの時間と物語がある。基地の外に戻る家がある者もいれば、號と同じく帰る家を失った者もいるだろう。後者にとっては、ネーサーが唯一の居場所なのだ。
——……俺。
振り向いてカウンター式のキッチンを見る。それから反対側、広いリビングを。
かつて、台所に立って忙しそうに、それでも楽しそうに料理を作っていた人。居間でくつろぎながら新聞を読み、時折ダジャレを言っては笑わせようとしてきた人。そして、傍らにいる自分。
記憶にしっかりと残っている。
大事にしたい、けれども同時に癒えないつらさも襲ってくるから無邪気に思い出したくはない過去だった。
ひとりは平気になった。
でも、ひとりきりを感じるのは嫌いだった。
だからずっと、闇プロレスでいくら稼いでいても六畳一間の安アパートだったし、この基地に来てからも本部内の質素なワンルームで満足していた。自分の気配だけで満たせる空間がちょうどよかった。
この家は広過ぎる。
——けど。
ポケットに手を入れる。鍵同士がこすれて、微かに金属音を立てた。
ここには——きっと、あちこちの引き出しの中にまで——隼人の心がある。ひとりきりにして欲しいと言ったところで、してもらえないくらいに。
自分だって成長している。五年前とは違う。背格好だけじゃなく、誰かを守れるくらいには大きくなったと思う。
だから——。
號の手が、合鍵をきゅっと握りしめた。
今ならもっと広い場所に立ったとしても、ぐらつきはしないだろう。
† † †
世界が暮れていく。いつになく穏やかな気持ちで眺める。
隼人はこの基地の要だ。これからもきっと忙しくてほとんど帰って来れないだろう。けれども、自分と一緒の時間を選択してくれた心は、とても、とても嬉しかった。
——たぶん。
待つのも悪くねえ。
ガラス窓に映る自分は、そう言っている。
独り暮らしもそこそこ長かったから、それなりに料理はできる。隼人は何が好物だろうか。普段は駆けずり回ってまともに食べていない様子だから、一緒のときくらいはゆっくり食事して欲しい。帰って来れなかったら次の日の弁当にしてもいい。執務室に持っていったら、隼人はどんな顔をするだろうか。
ここで朝を迎えたのなら、準備運動を兼ねて本部まで走るのもいい。自転車でも気持ちいいだろう。でも本部で過ごす夜も好きだ。食堂に行けば調理担当のスタッフが余った食材で具沢山の炒飯や変わり種のおにぎりを作ってくれるし、剴の部屋に押しかけてみたり整備士のみんなと格納庫の隅でダベるのも楽しい。まったくできなくなるのも寂しいから、そこは自由にさせてもらおう。
「あ」
はたと気づく。
行動パターンが変われば、遅かれ早かれ號の不在は知られる。パイロットの所在を把握できないのは問題だ。隼人ならさらりと「號と一緒にいる」くらい言うだろう。
何なら、訊かれなくても。
「ああ……そっか」
おそらく隼人は、ふたりの関係を自ら触れ回るような真似はしないが、ひた隠しにするつもりもない。腹を括ったからこそ合鍵を渡してくれたのだろう。
自分はシャンプーを変えようか、と狭い部分にしか目が行ってなかったのに。
——……俺がいいだなんて、神さんも物好きだよな。
小さく苦笑する。
それから表情が自然に引き締まった。
「……」
立場も負っている責任もまるで違う。ふたりで過ごす時間が増えれば顕になる問題もあるだろう。それこそ、號には想像がつかないことも。隼人はそれら諸々を解決し、あるいは撥ねのけながら、職務も当然遂行するつもりだ。その覚悟には報いたい。
みんなの居場所も、自分の居場所も守りたい。恐竜帝国が攻めてくるのなら、闘って、勝てばいいのだ。そのあとのことは——そのときに考えればいい。
「……あ」
眼下で光がちかりと瞬いた。
ヘッドライトが坂道を登ってくる。隼人に違いない。
じっと見つめる。
號がいる場所へ、號が明かりを灯したこの家を目指して、隼人が帰ってくる。
心の中がたちまち満たされて、いっぱいになる。星の光も、基地内の照明も、家々の灯火も、輪郭がじんわりと滲んでいく。
——何か、ガラにもねえよな。
鼻の奥が少しだけツンとした。慌てて鼻をすすり、まばたきを繰り返す。
道を照らすヘッドライトが、すぐそこまで迫っていた。
急いで玄関に向かう。スリッパで駆け足なんてずいぶんと久しぶりで、踏み込んだ勢いで右足分がぽんと後ろに飛んでいく。左足けんけんで三歩戻って、ひっくり返ったスリッパを爪先で戻してまた履く。
車が停まった音がした。
靴箱の隣にある大きな姿見で自分の顔を確認する。特段、変わったところはない。顔を近づけて白目をチェックする。大丈夫、充血していない。別に泣いたワケじゃないから、何ともない。
しかしその顔は妙に緊張していた。
「ええ、と」
隼人が「ただいま」と言うのなら、號がかける言葉はひとつしかない。
「ん……」
どんな顔をすればいいのだろうか。
五年前までは、当たり前だった言葉。あれから、誰にも言われたことはないし、言ったこともない。
——そういえば。
この家に足を踏み入れるとき、思わず「お邪魔します」と口にしていた。
「……」
『自分の家と思ってくれ』
隼人はそう言っていなかったか。
「う゛……」
次はちゃんと「ただいま」と言えるだろうか。隼人が先に戻っていたら、自分にも五年ぶりの響きを聞かせてくれるだろうか。
そうこう考えて頼りなく視線をさまよわせていると、車のドアが開いて、閉まる音がした。
——来た……!
自然に背筋が伸びる。けれども指先は所在なく動いて、カシカシとズボンの生地を引っ掻いていた。
隼人はピンポンをして待つ派だろうか。それとも鍵を開けて入ってくる派だろうか。
いや、それよりここで待つべきか。表の玄関まで迎えにいくべきか。
——どうすりゃいいんだよ。
頭の中がぐちゃぐちゃだった。悩むのも迷うのも好きじゃない。それでも決められない。
——ああ、もう。
いっそのこと、胸に飛び込んでやろうか。抱きついて顔をこすりつけて、数時間ぶりの再会にキスでもねだってみようか。
——そうだ、そうしてやろう。
待っている間、あんなにドキドキさせられたのだ。少しくらいならやり返したっていいだろう。不意打ちを受けて照れる隼人の顔は一度くらい見てみたい。
抱擁の反撃を喰らうなんて微塵も想像せず、號はいつでも飛びかかれるように右足を少しだけ引いて、隼人が現れるのを待つことにした。