隼號、つきあってます。
突然姿が見えなくなった號君と入れ替わるように現れた黒猫。もしかして敷島博士開発の兵器の影響で號君が猫になってしまったのかと困惑する隼人のお話。ちゃんと人間の號君出ます。キスまで。猫の日ネタです。約8,700文字。pixivにもあげています。
【注意】
・疲れもあり少し感傷的になる隼人がいます。ちょっとだけシリアス入ります。
・まだ恐竜帝国と決着がついていない設定。
・號君にベタベタ触れる隼人がいます。いきなりお尻触ったりもするのでご了承ください。
・「いづこ(何処)」を「いずく」という表記にしていますが意図的にです。
◆◆◆
隼人は書類そっちのけで黒い塊を眺めていた。
「…………號?」
訝しげに呼ぶと塊に目玉がふたつ、現れる。青みがかった瞳がきらと光り、にゃあ、とひと声鳴いた。
「——」
思わず仰け反る。
こんなことがあるはずはない。だからこれはただの黒猫だ。
だが、しかし。
この一時間のうちに起きたことをなぞり返す。
気配を感じて部屋の扉を開けた。見たことのない黒猫が一匹、入り込んできた。足にまとわりついて体をこすりつけてくる。毛並みもよく、嫌な匂いもしない。妙に人懐こくて物怖じしない——あるいはふてぶてしい——黒猫は、一分と経たずに隼人の部屋で落ち着いてしまった。
自分の城とばかりにベッドから動こうとしない。それならそれで、とデスクに向かっていると、今度は膝の上に乗ってきた。心地のよい重さとあたたかみを感じつつ書類に目を走らせてはサインをする。時折、滑りのよい短毛を撫でる。悪くないな、と思っていると、黒猫はデスクに飛び乗り、まだ残っている書類の上に寝そべってしまった。
声をかけてもくすぐってもどこうとしない。余裕があれば存分に相手をしてやりたいところだったが、今は溜まっている仕事が優先だった。仕方なく抱き上げて部屋の外に出す。しかし扉が閉まる前に戻ってきてしまう。これが三度繰り返されたので、作戦の変更を余儀なくされた。
「號はいるか」
自室へのコールは応答なしだった。だから食堂、ジム、歓談室、格納庫など思い当たるところへ連絡を取ってみた。だがいずれにも號はいなかった。それどころか翔からは「朝の訓練終了後から見ていない」と言われた。
次の訓練までには時間がある。今、姿が見えなくてもその時刻に現れれば問題はない。だが普段は放っておいても「神さん!」と向こうからやって来るような男が、影も形も見えないのはいささか奇妙だった。
一旦、気になってしまったものは仕方がない。セキュリティカメラのデータにアクセスする。飛行訓練後のデータチェック、ミーティングまでは隼人自身も同席していた。終了時刻から映像をチェックしていると、號がひとりで格納庫へ向かう姿が映っていた。ちょうど敷島博士の研究室に続く通路の前で立ち止まり、辺りを見回す。人がいないか確認しているようだった。それから奥のほうへ顔を向ける。
そのとき、画面が揺れ出した。號が身構える。直後、爆煙に巻かれる。映像が乱れ——元の通路が映ったのは一分後で、そこにはもう號の姿はなかった。
爆発は研究室で起こったようだった。博士に関してはいつものことだ。問題は、そのあとでどこのカメラを探しても號の姿が確認できなかったことだった。
博士に内線をかける。長いコールのあとでようやく繋がったが、號はいないと言われ、「忙しい」と電話はすぐに切れてしまった。
念の為、號が爆煙に巻き込まれた映像を見直す。スローにして確認していると、黒い物体が画面を横切っているのが見えた。ほんの一瞬だ。煙の中から飛び出して、画面外に消えていった。何度も見直す。そう大きくない、四つ脚の獣のようだった。
そこに至って、過る。
敷島博士、何かの実験、失敗。その場にいたはずの號が消え、入れ替わるように現れた黒く小さな影。
迷い猫は書面の上で丸まっている。目を瞑っているとただの黒い毛の塊だった。
——まさか。
逡巡の末、名前を呼んでみることにした。
† † †
「號」
呼ぶと律儀に「みゃあ」と返ってくる。
念のため、と自分に言い聞かせ、「翔」「剴」とも呼んでみた。だがどういうことか、猫は首を傾げて黙ってしまった。しばらく間を空けて「號」と呼んでみる。するとやはり猫は可愛らしく鳴くのだった。
「……」
人差し指をそっと近づける。黒猫は鼻先をひくひくとさせ、匂いを確かめる。それから顔をすりつけてきた。
本当に號なのだろうか。
基地内には隣接する山地から、あるいは様々な荷物を運搬するトラックの荷台に紛れて動物が入り込むことがある。電気系統やケーブル類に悪戯をされてはたまらないから定期的に見回りはしている。猫もいつの間にか住み着いていて、里親を探してくれる保護団体に託すこともままあった。しかし黒猫は初めてだった。
雄猫で、子猫というほど小さくはない。すっかり大人になりきっているかといえばまだのようだった。ちょうど、號のように。
「……」
敷島博士に訊いてみないとわからない——いや、実験の失敗であれば、どのような影響が現れるかは博士でも予測できないところがあるだろう。
ハチュウ人類の生組織を退化、あるいは変化させるような武器でも作っているのだろうか。それならあるいは——。
考え込んでいると、指にざらりとした感触があった。
桃色の舌が覗く。
「……俺の指はうまくないぞ」
猫はちらりと隼人を見、どこ吹く風とマイペースに舌を動かす。ブルーだと思っていた瞳は角度によってはグレーが混じっているように、また少し赤みがかって、うっすらと紫色に見えるときもあった。全身黒というのも相まってミステリアスな雰囲気がある。
指の背中で頬を撫でる。嫌がる気配がないので額も撫でてみると、気持ちよさそうに目を細めた。ぼんやりと、頭を撫でると號もこんなふうに笑うな、と思った。
「——そうだ、水でも飲むか」
頭をひと撫でして立ち上がる。差し入れや軽食をつまむための紙皿があったはずだ。雑多な小物入れと化している引き出しを漁ると、未使用の深皿が出てきた。
「間に合わせで悪いが」
ミニキッチンで水を汲んで差し出す。猫は二、三度、隼人と紙皿を交互に見ていたが、やがて自分の中で納得したのか、ゆっくりと水を飲み始めた。
相変わらず、猫は仕事をさせてくれない。「参ったな」とは言いながらも、ああだこうだと無理難題難癖をつけてくる連中とは違うので、隼人の気分も正直悪くはなかった。むしろ、面倒な書類仕事と向き合う緊張感と刺々しい感情が和らぐ。政府に提出する書類を、もしかしたら號かもしれない猫が尻に敷いているのもまた、面白かった。
これが動物セラピーというものか、など考えながら猫の背を撫でる。彼は気持ちよさそうにデスクに寝転がっている。短い毛が指をくすぐっていく様は、號の髪の毛を彷彿とさせた。
「ふむ」
——本当にこれが號なら。
「あとでどやされるかもな」
毛玉に鼻先を突っ込む。猫は一瞬だけぴくりと反応したが、おとなしいままだった。
鼻先がくすぐったくて、あたたかい。想像していたよりも毛先は柔らかかった。肌に刺さることもない。すう、と吸い込んでみる。獣臭さはなく、どちらかというとわずかに焦げたような、ほのかに香ばしいような乾いた匂いだった。
「……んん?」
號の匂いか、といえば明らかに違った。猫だ。飼ったことはなくても、わかる。
「……お前、號じゃないのか?」
猫は頭をもたげ、隼人を見る。ちょん、とその頬をつつく。何か気に入らなかったのか、黒猫はふす、と鼻息を吹き出してまた寝そべってしまった。
——やはり、違うか。
ほんの少しだけ、胸の奥に言い様のないわだかまりが生まれる。
「……」
身体を起こし、壁掛け時計を確認する。胸に湧いた妙な違和感は、秒針が進むごとにだんだんと大きくなっていく。
——むしろ。
この猫が號だったらいいのに。
どんな姿形でも、自分の目の前に存在していると感じられるのは安心できる。
號を見かけたら電話をくれと伝えるように、とあちこちの部署に通達してある。それなりに時間は経っているのに何の音沙汰もない。今まで、こんなことはなかった。
いつもなら探すのに手間がかからない。向こうからやって来なくとも、號自身が賑やかだから、どこにいても目立つのだ。
猫を撫でようとした手が止まる。
もしも。
もしもいつか——號がいなくなったら。
不意に浮かんでしまった。
「…………」
たとえ誰が欠けたとしても世界は続いていく。自分は號にだけかまけているわけにはいかない。
当たり前の日々から、当たり前が消える。
それでも残された者は新しい当たり前を作っていかなければならない。
もうそんな経験はしたくはないが、こればかりは自分ひとりの思いがいくら強かろうがどうにもならないことだった。
あの強烈な存在感と明るさの塊が消えてしまったら、自分はどうなってしまうのだろうか。
「……そのときは猫でも飼うか」
何気なく口にして、『號』と名付けそうな自分がいることに苦笑する。
「いや、帰りも不規則だろうしな。それじゃ猫が可哀想だ」
再びゆっくりと猫の背を撫で始める。
いつになく感傷的になっている。疲れているのだ。ここしばらくまともに休んでいない。そこに突発的に號の不在が重なったから——。
隼人の瞳が歪む。
それでもいつかは直面する問題だ。號が無事に恐竜帝国との闘いを終えても、ずっとネーサーに在籍するつもりとは限らない。彼が望む道があるのなら、そこにまっすぐ進めるように背中を押してやるのが己の責務だと思っていた。
「……わかっていても、堪えるだろうな」
今からこうなのだから。
「だが、仕方がない」
これ以上沈み込まないように軽い口調で切り上げ、隼人はもう一度猫の脇腹に鼻先をくっつけた。生命のあたたかさに、目を閉じて號の肌の熱さを思う。
「……號」
ぽつりと零れる。三角の耳がぴんと立った。黒猫は体を起こし、前脚で隼人の顔をむにと押し返す。
「……何だ、駄目か?」
にゃあ、と鳴き、前脚に力が込められた。隼人が身を引くとその下から抜け出す。音もなく床に着地すると優雅に伸びをして、悠然と扉の前に進んでいった。
「外に出たいのか?」
鳴く代わりに、ビー玉のような瞳で振り返る。
「…………そうか」
隼人はひとつ息を吐き、立ち上がる。身体が少し重たく感じた。
「にゃあ」
「ああ、今開けてやる」
緩慢とした動きで辿り着く。ふう、と無意識に溜息が落ちた。
ロックを解除する。黒猫は扉が開き始めると同時にするりと出ていく。隼人も続いた。
通路にて、ひとりと一匹が佇む。
黒い小さな獣は、入室のときと同様に隼人の足に体をこすりつけてきた。
「……號」
静かに呼びかけると、隼人を見上げて「みゃあ」と応えた。そして、走り出した。
「——っ」
一瞬ののち、隼人も駆け出していた。身軽に、飛び跳ねるように走っていく黒い塊を追いかける。速度を上げたつもりだったが、離されていく。普段なら何ともない運動量なのに、やたらと心臓が跳ねていた。
——あ。
影が右に折れた。
まずい、と思う。あの先は通路が複数に分岐している。どこに飛び込んだのかわからなければ、もうあの猫と会うことはできないかもしれない。焦りが広がる。
せめて、向かう先を知りたかった。
「————號!」
込み上げてきたものをこらえきれず、叫ぶ。通路の角を曲がる。次の瞬間。
「わっ‼︎」
聞き慣れた声のあとで、胸に衝撃があった。
「…………っ」
足を引き、身体を支える。
「っ痛え〜!」
號が鼻を押さえていた。
「お、俺の鼻! 俺の高い鼻が……って、あ? 神さんじゃねえか」
「…………」
「神さん?」
「え…………、あ、ああ……」
「何だぁ?」
「いや、何でも……」
思わず一歩、後ずさる。
「ん?」
隼人が空けた間の分だけ、號が近づく。
「……?」
首を傾げ、不思議そうに見上げてくる。太い眉毛がぴょこりと動いた。隼人はまばたきもせず、ただじっとその顔を見つめていた。
やがて、號の表情が穏やかに変わる。
「何だよ、神さんのその顔」
「え」
「すっげえ妙ちくりんな顔してる」
くすっと笑う。
「————」
何気なく形作られる笑顔。眉毛も、睫毛も、目元も、鼻の頭に寄ったシワも、頬も口元も。毎日見ているのに、脳裏に精確に描き出せるのに、ひどく懐かしくて胸が詰まった。
——號。
その名前は音にならなかった。
「……神さん?」
隼人の大きな手のひらが號の頬を包み込む。
「え? 神さん? 神——」
続きはキスでかき消される。
「…………っ」
ぶつかって赤くなった箇所がわからなくなるくらい、號の肌が真っ赤になった。
「……は、な、なん、だよ……その、急に」
唇が離れても隼人の手は頬に添えられたままだった。
「じん、さ……」
戸惑いに双眸が細められる。構わず隼人の手が耳にかかった。
「えっ、ちょ、うひゃっ」
指先で揉み込むように耳介を撫で、その形と感触を確かめる。次いで右手が腰に回され、下に伸びた。
「はあっ⁉︎ ちょ、うわっ」
びくりと跳ねた身体を左手で抱きしめる。號はすっかり混乱した様子で隼人のシャツを握りしめてきた。
「ちょ……っと、神さん! ここ外——んっ」
ぶる、と震えが伝わってきた。隼人はズボンの上から仙骨の辺りをまさぐる。
「〜〜〜〜っ」
ぐい、とシャツを引っ張られ、ようやく隼人は手を止めた。
「い、いったい何だって……」
「……猫の名残りがないかと思って」
「はあ⁉︎ ひっ、人のケツ撫で回して猫ォ⁉︎」
「尻尾があるとすれば、ここ」
「ひょわっ!」
ぐい、と隼人を押し返す——肉球こそないが、まるでさっきの黒猫のように。
そうと気づいた隼人がくすりと笑った。
「こ、今度は何だよ」
「いや、何でもない。……いきなりすまなかった」
「お……、おう」
號の黒髪をひと撫でして身体を離す。「ところで」
「ん?」
「お前、今までどこにいた」
「え、あ」
まずい、とばかりに號の瞳が揺れる。
「號?」
「あー……、その」
「怒っているわけじゃない。自由時間だからどこにいてもいい。ただ、いつもと違って居場所がわからなかったから」
號はちろりと隼人を見やり、言いにくそうに「敷島博士のところ」と答えた。
「博士のところ? しかし」
「電話寄越したろ? あんとき俺、いたんだけどよ、博士に内緒にしてくれって頼んだんだ」
意外な告白に隼人が目を見開いた。
「訓練後に通りかかったらよ、何かヘンテコな音がすっから気になっちまって。それでミーティングのあとにちょろっと」
「……なるほど」
「すっげえヤバそうな武器があってよ、それでつい……あ、どんな武器かは内緒な。博士と約束したから」
「わかった」
苦笑するしかない。やはり猫は號ではなかった。
「それで、神さんは?」
「うん?」
「俺に何の用だったんだ?」
「あ……」
「何だよ、自分で呼んどいてそれかよ」
拗ねるように唇を突き出す。それでも表情からは本当に怒っているようには見えない。
「すまない。野暮用があって、お前に頼みたかったんだが」
號の背後に目を向ける。もう、どこにも黒猫の気配はなかった。
「いや、……もう大丈夫だ」
ふう、と小さく息をつく。號は隼人の顔を見つめている。
「どうした?」
「ん。何か、疲れてんなーって」
「まあな。書類仕事が溜まっててな。もう少しなんだが」
「そんなら手伝ってやるよ」
「お前が?」
「あ、書類のほうじゃねえよ」
言いながら周囲を見回す。しんとして、ふたりの存在以外はない。それを確認すると、號は腕を広げて差し出してきた。
「……號?」
「充電」
ニッと笑う。途端に陽気さが溢れ出して、號を取り巻く空気が軽やかに弾けた。
「ほら、誰か来るといけねえから」
腕を伸ばして催促する。
「……ああ」
隼人は吸い寄せられるように近づく。號の匂いに触れる——と、抱きしめられた。
「おっと、ケツ触んのはナシだぜ」
「わかった」
そっと頭を寄せる。號のぬくもりと、その心が伝わってくる。
「なあ、神さん」
ほのかに甘えるような響きが含まれている。思わず隼人の頬がゆるんだ。
「何だ」
「さっき、角を曲がる直前によ」
「ああ」
「俺の名前、呼んだか?」
「——っ」
喉の奥で呻きそうになり、かろうじてこらえる。
「『號』って、神さんに呼ばれた気がする」
「……いいや」
緊張を悟られないように、意識してゆったりと返す。號はまったく気づいていないようで、「そっか」とどことなく残念そうに呟いた。
「呼ばれたと思ったんだけどな。それで『あれ?』って思った瞬間、ぶつかっちまってよ。ってか、いっつも呼ばれてっから、そう聞こえてきちまうんだろうな」
「……」
「それに……神さんのこと考えてたしな」
きゅ、と身体に回された腕に力がこもった。
——號。
胸の中が締めつけられる。年甲斐もない、とわかってはいるが、號によって呼び起こされる感情はいつだって隼人をただの男に戻してしまう。
「……號」
抱きしめ返すくらいなら、許してもらえるはずだ。
そっと腰に手を回すと、號が笑う気配がした。
「この先は、神さんが仕事全部終わらせてから」
ぽん、と背中を軽く叩かれる。
「そうだな。楽しみがあればこそ、面倒な仕事にも向き合える」
「そうそう」
「だから、あと十秒だけ」
「ははっ、しょうがねえな」
首筋に頬をすりつけ、鼻から息を吸い込む。隼人を昂らせ、時に癒やす號の匂いが鼻腔に広がる。
「……少し焦げ臭いな」
「あ? ああ、博士んとこで爆発に巻き込まれたから」
「ふふっ」
「おあ、くすぐってえ」
「あと五秒」
「ええ? もう十秒経ってんだろ」
「まだだ」
「ったく」
それでも、求められて悪い気はしないらしく、號も頭をすり寄せてきた。隼人の顔を短い黒髪が撫でていった。
「おし、五秒経ったぞ」
隼人はゆっくりと身体を離す。號の手は最後まで隼人を支えるように添えられて、それからさりげなく離れていった。
「……」
「あ、野暮用って」
突然、號の目が丸くなる。
「もしかしてあの猫追っかけてたとか」
「——見たのか」
「黒い猫だろ? 急に飛び出してきてよ、あっちに走ってって——ええと」
背後の分岐を見て首を傾げる。
「わかんねえ。探すなら手伝うけど」
隼人は號の顔と通路の向こう側を見比べる。
「……いいや、大丈夫だ」
「ほんとに?」
「ああ、そんなに悪さをするとは思えないしな。……それに」
「?」
「また遊びに来たくなったら来るだろうしな」
ぽん、と號の頭に右手を置く。そのときはまた、扉を開ければいいのだ。
「遊びに……って、あの猫、ずっと神さんの部屋に?」
「人のベッドでゴロゴロして、俺の膝の上に乗ってきて。それから書類の上で寝そべって好き放題だ」
「仕事の邪魔されたんだ」
號が吹き出す。すかさず隼人の声がかぶさった。
「まるでお前みたいだったぞ」
「は⁉︎」
「いや、喋らない分、お前よりはおとなしくて行儀よかったな」
頭を撫で回す。號は照れくさそうに目を細めながらも、からかいには反論しようと唇を尖らせる。くるくると変わるその表情は、いつまでも見ていたいものだった。
「だからお前も」
「え」
「お前も、好きにしていいからな」
號はぽかんとする。
——號なら。
どこででも、誰とでもうまくやっていけるだろう。
「んー」
視線が揺れて、やがてくるりと巡って隼人に留まる。「そんならよ」無邪気に笑う。
「次の訓練が始まるまで、神さんの部屋にいるわ。おとなしくしてっからよ」
今度は隼人がぽかんとする番だった。
「な、ほら。そうと決まったら行こうぜ」
「あ——ああ」
號が背中を押す。
「神さんが居眠りこいたり、サボって抜け出したりしねえように見張っといてやるよ」
「……ああ、頼む」
「猫に負けてられっかよ。任せとけ」
「何だそれは」
自然に笑みが零れてくる。
——今は、まだ。
號が傍にいる。この当たり前こそが、奇跡なのだと思った。
「號」
「ん?」
立ち止まり、號の右手を取る。
「あ」
「このエリアはほとんど人が来ない」
「お、おう」
全身から歓びと照れが伝わってくる。愛おしくてたまらなかった。
いつか離れ離れになったとしても、過去や思い出までもがなくなるわけではない。降り積もる愛しさも消えやしない。だからきっと。
——大丈夫だ。
弱さはいずくへと去った。迷い猫が連れ去ったように。
不思議な時間だった。それこそ、魔法をかけられたように。
踏み出す足が軽い。
もう一歩。
「——」
にゃあ、と聞こえた気がした。
隼人は振り向く。一瞬だけ遅れて、號も。
「……」
ふたりは顔を見合わせる。
號は背後に向かって「にゃあ」と鳴く。けれども返ってくる声はなかった。
「……お前」
くっと隼人の唇から落ちる。
「ははっ」
「え、な、何だよ、何で笑うんだよ!」
「いや、お前が猫だったら、そんなふうに鳴くんだなと思って——はははっ」
「なっ、また猫とか言ってるし! いったい何なんだよ!」
少し怒ったような、いじけるような顔つきがまた可愛らしくて、隼人の心がゆるむ。早く仕事を終わらせて、機嫌を取ってやらないと。
今日は背中を撫でられるのがいいだろうか。それとも喉元をくすぐられるのが好きだろうか。
「聞いてんのかよ、神さん!」
「ああ、聞いている」
さしあたって。
「っていうか——え」
額に口づけてみる。やんちゃで陽気な猫は青い目を見開いて、動きを止める。どうやら嫌いではないらしい。
その証拠に、唇が離れると残念そうに見上げてきた。
隼人は形のいい額を指先で軽く撫でて、もう一度そこにキスをした。