へのへのもへじは誰の顔

新ゲ弁隼

つきあってます。
ちょっと疲れてひとりで休憩している隼人と、そこを訪ねた弁慶のやりとり。
弁慶のことは好きだけどいろいろ考え過ぎる隼人が一歩踏み出すお気持ち話。隼人の一人称。
約4,500文字。2022/5/19
※「へのへのもへじ」が頻出します。人によってはゲシュタルト崩壊を起こすかもしれません。

◆◆◆

 慌てて窓ガラスを指で拭く。
 だが少し遅かった。
「お前もそんなことするんだな」
 弁慶の白い歯が覗く。
 俺は——日頃から無駄が嫌いだとか暇な時間などないとか口にしていたから、手慰みの切れっ端にもならない行為を見られて、とんでもなくきまりが悪かった。
「へのへのもへじなんて、何だか懐かしいな」
 まだ完全に消しきれていない。しかし一旦見られてしまったものをムキになって消すのも馬鹿らしい。諦めてガラスから指を離す。
 ほんの少しだけ、疲れを自覚していた。胸の奥が重苦しい。こういうときは本当に、何をやってもうまくいかない。
 だんまりを通そうと思っていると弁慶は傍らに寄ってきて、ぷっくりとした人差し指を出した。
「んへへ」
 俺をからかうでもなく指を動かす。
 きゅきゅ、とガラスが鳴き声をあげ、描いた本人と同じように丸っこい顔が現れた。
「ちょっと丸過ぎたかな」
 首を傾げて隣にもうひとつ描き直す。指の軌跡を追い、水滴がまとまっては次々に流れ落ちていった。
「こう、ささっと描けると気分がいいよな」
 今度はもっとスリムな輪郭。
「お、これはなかなか」そう言って俺を見るから、
「……なかなか?」
 合わせてしまう。
「いい男じゃねえか?」
 自信ありげに鼻息がふん、と吹き出た。
 俺はその顔をじっと見つめる。
 男も女もない。ただの文字で、ただの顔の見立てだ。誰でもいい、「誰かの顔」。
 破壊活動に明け暮れていた頃、俺の周囲はこんな奴らばっかりだった。
 必要だから名前も顔も当然覚えた。今でも思い出せる。だがそれは単なる識別記号でしかなかった。全員、俺の中では同じへのへのもへじ顔だ。どんな人生を送ってきたのかなんて興味はないし、何が好きで嫌いかも知りたくない。必要なのは計画を遂行するうえで何の役に立つか、それだけだ。
「なあ、この顎がシュッとした感じ、隼人みたいだな」
 俺が何を思っているかも知らず、弁慶は無邪気に笑う。
「そうは見えない」
「そうかなぁ」
 ふたりで眺めている間も、流れる水滴で顔が少しずつ崩れていく。
 やはり俺にはただの文字でしかなかった。
 けれども、弁慶は俺みたいだと言った。
 ——俺の、顔。
「…………」
 それは、己すらも誰かと同じで、誰でもないただの生き物だったということか。

 ——……ああ、そうか。

 ふと理解した。
 皆が皆「神さん」と持て囃しすり寄ってきたが、あれは俺が単にリーダーだったからか。
 あいつらから見たら、俺もこうだった。統率者と名前がついただけの、すげ替えの利く顔。
 ——結局は、誰でもいいってことだ。
 弁慶は次々に落書きをしていく。ずいぶんと楽しそうだった。
「うーん」
 弁慶がこちらを見る。
 それから、窓に描かれたの顔を。
「……」
 弁慶から見たら、きっと俺もこうなのだろう。
 ただ一時ひとときを共有するだけの、何者でもない存在。誰の顔をあてはめてもいいし、ないままでもいい。
「——」
 不快感が込み上げる。
 自分こそが人を人とも見ていなかったくせに、される側になると苛つく。自分勝手にも程がある。わかっているから尚更、吐き気がする。
 ぐしゃぐしゃに消してやろうと手を伸ばした。すると、
「あ」
 弁慶が横から手を出してきた。
「このほうが、いいな」
 指先が、きゅっと奏でる。
「ほら」
 跳ねたもみあげと、前髪があるへのへのもへじ。
「これで『隼人』だ」
「————」
 思わず弁慶を見る。
「ん?」
「…………いや」
「似てるだろ」
 中身はどうってことのない文字だ。それなのに、言われると自分に似ているように見えてくる。
「ほら、こっちも見てみろよ」
 指差すほうを見ると、たくさんのへのへのもへじがあった。
「これな、和尚様」
 つるりとした頭が足されている。目の部分は漢数字の「一」で、口元には髭もあった。
「寺でな、遊ぶものなんかないだろ。ちょうどいい棒切れがあるとな、何でか落書きが始まるんだよ」
 本堂から死角になる庫裏くりの裏手辺り。誰かが地面に何かを描く。気づいた者は寄ってきてお題を出したり、適当な木の枝を探し出して参加する。庫裏で当番をしていた者も笑い声を聞いて混ざりにくる。そうなると遊びたい、笑いたい盛りの若い男たちは止まらない。いつの間にか弟子たち全員が集まる。
「ついそうやって遊んじまうんだ。夢中になってほかのお勤めの時間に遅れたりして、和尚様によく叱られた」
 少し遠い目で、微笑む。
 並んでいる五つの顔は兄弟弟子か。
「不思議だよな。同じ文字なのに、何回書いてもまったく同じにはならないし、ちょっと線を描き足せばちゃんと『誰か』になる。全部、違うんだ。文字を変えるといくらでもぴったりの顔ができそうだよな」
 もうひとつ描こうとするがスペースがない。きょろきょろと視線をやって、[[rb:俺 > ﹅]]の隣に隙間を見出す。
「これは竜馬」
 あっという間に不敵そうな顔ができあがった。
「なかなかよくできたぞ」
 自画自賛する。言うだけあって竜馬の特徴をよくとらえていた。
 同じ文字なのに、弁慶は違うと言った。
 なら。

 ——俺の顔も、ちゃんと見えているのだろうか。

 俺と竜馬のへのへのもへじが隣り合っている。
 そうなると、ひとり足りない。
「……隼人?」
 弁慶が最初に描いた丸顔のへのへのもへじに指をつける。眉尻を太く描き直す。
「あっ、それ、俺か?」
 すぐに気づいて覗き込んできた。
「うん、俺だな」
 大きく頷くと、弁慶は破顔した。
 俺はその笑顔を見つめて、また落書きを見やる。
 確かに、弁慶だった。
「……それより、こんなところに何の用だ」
 ガラクタ置き場と化している倉庫。存在すら忘れられているのか、誰とも顔を合わせたことはないし、埃の積もり具合から見るに、もっぱら俺の休憩場所として機能している。弁慶には用がないはずだ。
「お前を探しに来たんだよ」
「俺を?」
「一緒に昼飯、食おうぜ」
 瞬間、息が詰まる。
 そんなことで俺を探すのか。
「…………ひとりで」
「え?」
「……ひとりで食えばいいだろう?」
 腹が減ると途端に元気がなくなるくせに。
 特製のミートボールが売り切れていると「今日はついてない」と本気で落ち込むくせに。
「お前、放っておくとちゃんと食わないだろ。一緒に食おうぜ」
「必要なエネルギーは摂取している」
「そうじゃなくて、ちゃんと旨い飯を食おうってことさ」
 寺にいたせいなのか、元々の性質なのか、時折こうやって「ああしろ」「こうしろ」と世話焼きをしに来る。
「お前、飯のことになると本当に煩いな」
「だってよぉ、いろんな味や色のおかずがあって、あったかい味噌汁があって、真っ白いピカピカの米なんて最高だろ」
「だったらさっさと食いに行けばいいだろ」
 弁慶はうーん、と唸って坊主頭を撫でた。眉毛が困ったときの角度になっている。
「何だ」
「うん……」
「さっさと言え」
「……まあ、一番は、隼人と一緒に飯を食いてえってことなんだけどな」
 照れくさそうに鼻の頭をかく。
「誰かと一緒に食べる飯って、何だかすごく旨いんだよ」
「竜馬でも誘え」
 弁慶が自分のほうを向いていることが嬉しいのに、こんな物言いしかできない。
「竜馬との飯も何だかんだで楽しいんだけどな、俺は隼人と食べたい」
 大きな瞳が俺を見る。
「一緒に行こうぜ」
「——」
 正視できなくて目を逸らす。
 いつもこうだ。
 弁慶はまっすぐに俺を見る。あくどいことを散々やってきた割に、こいつは素直だ。
 だから無性にいたたまれない瞬間がある。
 俺がどれほど打算的で、卑怯で、狡くて醜いか。本当は知らないだろう。俺の過去を知っていても、その深さと暗さまでは測れないはずだ。
 心の奥を見透かされたくない。きっと、覗いた弁慶も、暴かれた俺も、不幸になる。世の中には知らなくていいことが確実に存在する。
 それなら、いっそのこと互いに替えの利く遊び相手と割り切ればいい。怠惰に慰め合って、まともぶりたければ神妙な顔で「好きだ」とでも言えばいい。
 代わりのいる顔なし人間に見られるのが不愉快だったくせに、いざ向き合われると理由をつけて逃げ出したくなる。
 とことん自分勝手だ。いくら弁慶だってこんな汚い俺は——。
 横目で盗み見る。
 弁慶はたくさんのを眺めては何か思い出しているのか、小さく含み笑いしていた。
 そして、俺のでも同じように。

 ——こいつは。

 鼓動が大きくなる。

 ——こいつだけは。

 へのへのもへじを見つめる。ガラスにうっすらと自分が映り込む。
 ふたつの、俺の顔。
 息を吸い込もうとして身体が微かに震えていることに気づく。
「…………」
 窓の中の俺が、少しだけ情けない表情を作る。へのへのもへじは隣で澄ましている——本音を押し隠すことに慣れきった俺のように。
 弁慶は何もかもわかっているのか。
 もし、これから知るのだとしても。

 ——こいつなら、きっと。

 目を閉じて大きくひと呼吸する。胸のわだかまりが消えていく。深い霧が払われて視界がクリアになるような感覚。同時に頭の中が冴えていくのがわかった。
 苦笑いが浮かぶ。
 揺れるのも、落ち着くのも、弁慶のせいだ。いつの間にか人の心に入り込んで、とぼけたツラで当然のように居座っている。今までの誰とも違う。
「行くぞ」
 踵を返す。
「え? 隼人?」
「飯を食うんだろ。早くしないと、ミートボールが売り切れるぞ」
「あ! そうだ!」
 巨体が素早く翻り、俺を追い越していく。
「飯!」
 まったく忙しない。
「……」
 ふと足を止めて、振り向く。
 俺が描いていた——抹消しきれなかった誰のものでもない顔は、冷気にさらされ続けて薄くなっていた。もうすぐたくさんの露の粒で覆われて完全に見えなくなってしまうだろう。
 ——いつかは消える。
 そして同じようでまったく違う顔が上に描かれていくのだろうか。真実、その名をまとった顔が。
 弁慶ひとりだけではなく、竜馬も、早乙女博士も、早乙女ミチルも、自分が気づいていないだけで、本当はとっくに。
「……ふん」
 今度は胸の内側が妙にむず痒くなる。余計なことを考え込むのも、全部弁慶のせいだ。
「隼人!」
 手招きで俺を呼ぶ。突然やって来て、頼んでもいないのに俺を引っ張り出そうとする。
「隼人! 早く行こうぜ!」
 目が合うとにっかり笑った。本当にこいつは、楽しそうに、嬉しそうに笑う。
 弁慶が分厚い扉を押し開ける。風が流れ込み、澱んで重苦しい空気がかき混ぜられて軽くなる。
「……ああ」
 こうなったら、とことんつきあってもらおう。否やは言わせない。
 もう一度、振り返る。居並ぶへのへのもへじ。
 今度はもっと上手く、弁慶の顔が描けるだろうか。
 ちらりとそんなことを思い、薄暗い倉庫を後にした。