UNLOCKED DOOR

新ゲ隼竜

3話完結。つきあってません。隼⇄竜。
隼人の部屋で気ままに過ごす竜馬と、少しずつ気持ちを抑えられなくなっていく隼人のお話。 竜馬の方が少しうわ手、誘い受け要素強めです。隼人が竜馬を襲う手前まで。隼人寄り視点。トータルで約15,000文字。2022/11~12月

#1 君はまるで、

隼人のベッドを占領したり、カップラーメンを食べてみたり、自由気ままな竜馬。竜馬が訪ねてくる度に気を取られ、徐々に自分の作業に集中できなくなっていく隼人。約4,000文字強。

#2 無邪気な悪魔

隼人の部屋に入り浸るようになる竜馬。竜馬の言葉に振り回され、声を荒らげてしまう隼人。均衡が崩れ始める夜。約6,000文字強。

#3 知ってるくせに

竜馬が自分を好きなのではないかと思いつつも確信が持てない隼人。それでも気持ちが抑えられず、とうとう竜馬に触れる。竜馬は逃げるどころか、待ち侘びていたように隼人を煽る。ふたりの関係が変わる瞬間。約4,000文字強。

◆ひとまず、ここで終わり。
この後の初夜の構想もありますが、今現在そちらの原稿を最優先にするのは難しく、いつかまた書けたらな、という状況です。完成したら投稿するので、その際は読んで頂けたら嬉しいです。

◆◆◆

君はまるで、

 腹減った、と聞こえた。
 そのあとは沈黙。
 しんとした部屋に、キーボードの打鍵音が舞い始める。それが途切れたのが三分後。もう一度、
「腹減らね?」
 と聞こえた。今度は問いかけで。
 隼人は答える代わりに再びキーボードを打ち始めた。
 さらに二分後、キィ、とベッドが軋む音がした。次いで何やらごそごそと。
 隼人は振り向かない。竜馬も何も言わない。
 やがて靴音が背後から遠ざかる。扉が開いて、気配が消える。
 それでも隼人は振り向かない。ひたすらに眼前のモニタを見つめ、流れていくデータを目で追う。こうなると、誰も邪魔できない。
 呼吸も忘れそうなほど、集中していく。ひとりきりの部屋、その空気が張り詰めていく。これが短くて三時間、長ければ明け方まで続く。疲れは感じない。
「邪魔者」の存在もすでに頭の中から追い出していた——と扉が開く音がして、室内の空気がゆるむ。
「……ちっ」
 現実に引き戻された隼人が小さく舌打ちをした。直後、そんな些細なことで乱された自分に気づいて舌打ちを重ねた。竜馬が耳ざとく気づく。
「ああ、びっくりして打ち間違いでもしたのか? そりゃ悪かったな」
 謝罪の言葉とは裏腹に、軽快に笑う。
「お湯、もらうぜ」
 声の調子と同様、ぱり、ぺりぺりと軽い音がしたかと思うと、カレーの香りが鼻に届いた。
「……お前」
 さすがに捨て置けず、振り向きざまに思いきりめつける。椅子の背もたれが嫌な鳴き声をあげた。
「いい加減にしろよ」
「あ? 何が?」
 だが竜馬はどこ吹く風とポットに手をかける。
「晩飯食ったの七時前だろ? 何だか腹減っちまってよ」
 熱湯で粉末スープが溶けていく。あっという間に部屋中に強い香りが充満した。
「これこれ。うまそう」
 すう、と匂いを嗅ぎ、満足げに頷く。
「少し食わせてやっからよ」
「いらん」
「ンなこと言ってよ、腹いっぱいだと思っててもな、食えば意外とイケるンだって」
 蓋を押さえながら回れ右をして、隼人の後ろを通り過ぎる。
「おい」
「ンあ?」
「ベッドの上で食うなよ」
「お? ああ、わあった」
 身体の向きを変える。そういう反応をするからにはベッドの上で食べる気でいたのだろう。隼人は思わず天井を仰ぎ、ひとつ溜息をついた。
「あンだよ、調子悪ぃのかよ」
「お前の行動に辟易しているだけだ」
「ヘキエキ? あンだ、そりゃ」
「さあな」
「けち」
 ぶう、と空気を押し出して唇を震わせる。
「あんまワケわかンねえこと言ってっと、食わせてやンねえからな」
 そうして当然のようにデスクの上に容器を置いた。
「お前」
 視界に入ってきたカップラーメンにぎょっとして隼人が身を引く。
「ここで食うつもりか」
「零しゃしねえよ」
 竜馬は丸椅子を引きずって隼人の脇に陣取る。
「そういう問題を言ってるんじゃ——」
 そこまで言って言葉を切る。
 押し問答を続ければ、短気な竜馬のことだから揉み合いになるかもしれない。その挙げ句に手元が狂って中身をぶち撒けられたらそれこそ目も当てられない。不本意ながら隼人が折れて距離を取った。
「ちっ」とまた舌打ちが飛び出る。苛立つのはゲッター1で無茶をする竜馬にだけで十分だ。今は自分のための時間のはずなのに、竜馬に侵食されている事実が不快だった。
「さっさと食え」
「まだ三分経ってねえけどな。……ってかおめえ、かた麺派か?」
「……」
「あー、でも二分ぐれえは経ったかな。もういいよな? 食っちまうか」
 壁掛け時計をちろりと確認し、割り箸を手に取った。
「へっへー、っただきまーす」
 口元をほころばせ、蓋を剥がしていく。まるで小さな子供がおもちゃ箱を開けるようだった。
 間近でかき混ぜられると、多少は慣れたとはいえ強烈な香りが立ちのぼってくる。自分が望んだものでもないから、正直なところ邪魔な匂いだった。隼人は半ばうんざりし、それでも豊かに動く表情から目を離せないでいた。
 豪快に麺が啜られる。
「っ、あふ」
 顎を上げ、口の中の熱を逃す。箸が指揮棒のように揺れる。表情だけでなく、動作もいちいち忙しない。
「ン、うめえ!」
 食堂で見かけるときと同じだ。嬉しそうに、美味しそうに、真剣に食べる。自分とは真逆だと隼人は思う。
「やる」
 具とスープをひと通り堪能すると、割り箸ごとカップを差し出してきた。
「……」
「遠慮すンなって。おめえ、そういうキャラじゃねえだろ」
 遠慮とは違う。だがここで大真面目に説明しても竜馬にはわかってもらえないだろう。
 断ったら断ったで、文句を言われる。「せっかく食わせてやるって言ったのによぉ」と食べ終わっても、帰る頃になっても、下手をすれば次に部屋を訪ねてきたときまでも。
 なるべく口数を減らすには、乗ったフリをするのが一番だ。
 隼人はゆっくりと手を伸ばし、カップ麺を受け取った。
 食べないと決めているわけではない。ただ、待ち時間が発生するし、食べ始めは熱くて時間がかかる。具材やらスープやら小袋を開ける手間もあるし、手が汚れる場合もある。何より、両手が塞がってしまう。おまけにスープを零す可能性もあるから、作業中の選択肢に入ることはなかった。それよりも手軽なエネルギー飲料やバー状の栄養補助食品のほうが目的に適っていた。
 今晩はイレギュラーなだけ。早く静けさを取り戻して作業に戻りたい。
 だから誘いを受けているだけ——。
 竜馬ほどではないにしろ、ずずっと音を立てて麺を啜る。鼻腔にスパイスの香りが広がる。
「……」
 咀嚼しながらカップの中をまじまじと見つめる。
 こんなにも旨かっただろうか。最後に食べたのはだいぶ前だ。質がよくなっているのかもしれない。温かいからかもしれない。
「な、うめえだろ」
 頬づえをついて眺めていた竜馬がニイッと笑う。周りの空気が一瞬、華やぐ。
「——」
 隼人の目がほんの少しだけ釘づけになって、そのあとでふいと逸らされた。
「…………フン」
 ふた口、三口と麺を啜る。
「あ! おい、食い過ぎ!」
 ガタン、と椅子を押しのけ、竜馬が立ち上がる。隼人は動じず、さらにひと口。
「てめ、腹減ってねえンじゃねえのか」
 スープで麺を流し込んで、カップを竜馬の前に置く。
「部屋代だ」
「——ちぇっ」
 唇が尖り、あからさまに不満を表す。それでもまだ麺が残っているとわかると、すぐに笑顔が戻った。今の今まで泣いていた子供がまばたきの間にけらけらと笑い出すような落差だった。
 竜馬は座り直すと再び麺を頬張る。隼人にしてみれば、カップラーメンひとつで機嫌が変わるこの男が不思議でならない。
「弁慶だったらふた口目でなくなってたかもな」
 カップの底を掬いながら竜馬が笑う。
「そうだろうな」
 相槌を打ってから口元がゆるんでいるのに気づいて、隼人は急いで表情を隠した。

「あ゛ー、食った食った」
「俺の部屋に捨てるな。持ち帰れ」
「へ?」
 今にも容器はデスク脇のゴミ箱にダイブしようしていた。
「匂うから、持って帰れ」
「え、ここにゴミ箱あンのに?」
「自分で買ってきたんだろ。持って帰れ」
「けち」
 今晩、二回目の「けち」が飛び出る。竜馬は「帰りに持ってくから」とポットの横に容器を置くと、再びベッドの上に寝転がった。手足を伸ばし、自分の部屋のようにくつろぐ。
 勝手な奴だとつくづく思う。
 始まりはいつだったか。たまたま夕食時に食堂で行き合い、退席する時間が重なった。自室に戻るのだろうと背後の気配を気にせずにいたら、部屋までついてきたのだった。
「暇なンだよな」
 そう言って隼人のベッドを占領した。
 以来、週に一度はふらりとやってきて、何をするでもなくそこにいる。返事をしなくても勝手に喋っている。おとなしいときもあるが、うたた寝しているのかこちらの背中を眺めているのかわからなくて振り向いたことはなかった——もし目が合ったら、どう反応するのが正解なのかわからなかったから。
 自由気ままな竜馬にだけでなく、自分の心にも振り回され始めていると自覚していた。
 隼人の指はキーボードに置かれている。まだすべき作業は残っている。それなのに、指が動かない。集中できない。入力すべきコマンドの代わりに、さっきまで隣にいた男の姿が頭の中に居座っている。
 ここに来ない夜はどこにいるのだろうか。弁慶の部屋以外に行くところはあるのだろうか。
 いや、あるのだろう。
 食堂では調理場の年配女性たちと仲がいいし、ドックでも整備班と冗談を言い合っている。警備員に空手の技を教えているのを見かけたこともある。早乙女博士に対しては語気が荒いときもあるが、決して一線は越えない。手を出すのは隼人か弁慶に限られている。
 自分の力をわきまえているし、相手を見ている。「つるんでやるのは俺の性分じゃねえ」と言っていたが、そこまで踏み込んでくる心配のない相手には気さくで人当たりがいい。だから一時間程度の暇つぶしなら、誘いに乗る人間はそれなりにいるのではないか。
 では、ここへは何を求めて来ているのか。
「——」
 我に返る。
 直接作業を妨害されるものでもないから放っておいたら、このザマだ。
 ふう、と溜息が落ちた。
 今のうちに追い出すべきだ。溜息が数え切れなくなる前に「もう来るな」と告げるだけでいい。
 キーボードから手を離し、腿の上に置く。自分だけの時間を取り戻す行為のはずなのに、気乗りしなかった。また小さな溜息が零れた。
「んが」
 すると、背後から妙な声があがった。耳を澄ますと寝息が聞こえてくる。
「……」
 今なら振り向ける。どく、と心臓が大きな音を立てた。
 古い椅子が軋み音をあげないように、そろそろと振り向く。

 ——竜馬。

 ベッドの上で、竜馬が眠っていた。
 無防備そのものだった。
 立ち上がり、傍まで行きたい衝動に駆られる。そして、そんな欲求が己の内側から湧いてきたことに驚く。それから、ますます大きな音で鳴り続ける心臓に。
 クソ、と胸の中で毒づく。
 認めたくない。
 忌々しげに睨みつける。何も知らない寝顔。竜馬がこの部屋に来なければ、きっと気づかないフリができた。一度だけなら、やり過ごせた。
 ぐ、と拳を握る。
 ただの気まぐれだ、今晩だけだ、と言い聞かせていても、次を期待している。
 ——俺は。
 唇を噛む。

 本当は——。

   †   †   †

「ン……、寝ちまった」
 んん、と伸びをする呻きと、ふわ、というあくび。
「飯食ってすぐ横になると寝ちまうな」
 もう一度あくびが聞こえた。
「おめえ、よく飽きねえな」
 音楽のように鳴り続ける打鍵音に笑いかける。
「んじゃ、そろそろ帰っかな」
 隼人は何も言わない。竜馬も繰り返さない。
「お、そうだ。ゴミは持ち帰らねえとな。隼人に『もう来るな』って怒られちまう」
 やがて靴音が背後から遠ざかる。扉が開いて、気配が消える。
 隼人の手が止まった。
 人懐こさとカラリとした愛想のよさは犬のように思えた。けれども、気ままな振る舞いをして人を巻き込んだ挙げ句にあっという間に姿を消すのは猫のようだとも思う。
 ——どちらにしろ。
 実際はそんなに可愛いものでもないだろう。
 まとわりつかれても目を合わせなければいい。手を出さなければ噛みつかれない。無視を続けて暴れられるのは面倒だから適度に遊んでやって、向こうが飽きるのを待つだけだ。
 きっとすぐに通り過ぎていく。

 今はそう、思うしかなかった。

◆◆◆

無邪気な悪魔

 溜息の原因は眼前のデータではない。
「おめえ、最近溜息多いよな」
 背後で呑気に原因・・が声をあげた。
「……お前は最近、よく来るな」
 毎度毎度飽きもせず、とつけ加える。
「言うほどしょっちゅうじゃねえだろ」
 すぐに返ってくる。声の尖り具合で、唇のそれもわかる。
「昨日は来た。一昨日……も来た。その前はええと、来なかったよな?」
「今週は毎晩来ているだろうが」
「あれ? そうだっけ?」
 ギッとベッドが軋む音がした。起き上がって壁のカレンダーを眺めているのだろう。
「おめえ、よく覚えてンな」
 今は隼人の背中に笑いかけている。振り返らなくてもわかるようになっていた。
「ほかにやることはないのか」
「ねえな」
 ギキッとまた聞こえた。再び寝転がった音。
「飯食って風呂入ったらそんなモンじゃねえの? 夜の訓練だって毎日あるワケじゃねえし」
「ならとっとと寝ろ」
「それじゃつまンねえじゃねえか」
 ゲーセンぐれえあったっていいのによぉ、とぼやく。
「それかバッティングセンター。小さくったっていいからよ。楽しみって大事だぜ。それでヤル気も出るってモンだ。どっか場所余ってンだろ。研究所列ここにしてみりゃ金も取れるし、ええと、いっ……いっせき、に、さん? ま、いい話じゃねえか」
「正直そう悪い話でもないとは思うが、福利厚生を何とかして欲しいなら相手違いだ。俺に言ってもどうにもならん。それに、生憎あいにくだが俺の部屋にはゲーム機もないし、そもそもテレビもない。もうひとつついでに言うと、俺にはお前と遊ぶ暇はない」
 流れるように、ほぼ同じだけの言葉数を返す。
 内容は違っても、やりとりは大抵こんなふうだった。竜馬がほとんどひとりで喋っているときもある。そんな夜がいつしか週に一度から二度になり、三度になった。回数が増えるにつれ、長くても一時間程度だった滞在時間も延びていった。そうして今ではふたり部屋だったのかと思い違いをしてもおかしくないほど、竜馬は入り浸るようになっていた。
「おめえ、頭いいし何かいろいろやれンだろ? ゲームぐれえ作れねえのか。こう、そのカタカタやるヤツでよ」
 キーボードを打つ指に力が入る。苛立ちをまとった荒い音だが、竜馬には響かない。
「おめえが作るなら、殺人事件を解決する探偵ものか? いや、テロリスト育てるくっそ趣味悪ぃゲームとか、難しくてクリアできそうにねえパズルものとかか?」
「いくら挑発しても作らんからな」
「だめか」
「そんな手に乗るわけがないだろう。それより、こんなつまらない部屋にいつまでいるつもりだ」
 少し間ができる。テンポがずれ、隼人の集中力が削がれる。それから、
「俺は隼人の部屋、つまンなくねえけどな」
 と、気を乱すような科白が返ってきた。隼人は打鍵のリズムを保つことに意識を向ける。
「何つーか、楽ちんなンだよな」
「……」
「おめえ、何だかんだ言ってもこうやって相手してくれる日もあるし、追い出したりしねえし。それに、部屋にも鍵かけたりしねえだろ」
 キィキィとベッドが軋む。今度はうつ伏せにでもなって足をばたつかせているのか。
 隼人はふう、と息を吐く。
「見られて困るようなものはなし、元よりロックなど必要ない。それに……お前の場合、閉め出すほうが厄介に繋がる」
「けど、ほんとに嫌だったら部屋に入れてくれねえだろ? あ、いや、違うな」
「…………何が」
「嫌ならおめえ、そもそも部屋にいねえだろ」
 どきりとする。しかし、手は止めない。
「研究所に来た頃、おめえほとんど部屋にいなかったよな」
 それは、直に操作しないとデータを確認できない端末があったり、研究所内部をくまなく調べる必要があったからだ。今は自室からでも大抵のデータにアクセスできるようにしたから、動かずに済むようになっただけだ。
 心の中ではそう返し沈黙で応じる。興味がない話題だと竜馬が思ってくれることを期待して。
「そのノートパソコンってヤツ、持ち運べるンだろ? 俺が邪魔だったら、格納庫の隅でも便所でもいじれるじゃねえか」
 だが止まらない。
「おめえ、俺が来るようになってから部屋にいる日が増えたよな。前はよ、三回のうち二回はいねえから無駄足だったンだよな。けど今は大体いるだろ?」
 それには、何も答えられない。
「俺がここに来た日は、隼人がいた日ってことだもンな」
 また、心臓が妙な音を立てた。
「おめえ、案外」
 追い打ちのように続く声に、今度は胸の内がぎゅっと過剰に収縮した。
「俺が来るの、待ってたりして」
「——冗談」
 舌打ちで撥ねつける。早く封じ込めてしまわないと何を言い出すかわかったものでないし、自分もどんなボロを出すかもわからない。竜馬は存在そのものが隼人にとってイレギュラーなものなのだから、まともに相手をせずに遠くへ追いやってしまうのが一番安全な対応だった。
「それ以上くだらないことを言ってみろ。その尻を蹴飛ばして追い出してやる」
 くくっと笑い声が聞こえる。
「そういや、ここに来る理由、もうひとつあったわ」
 背中に視線を感じた。
「おめえの嫌そうな顔、見てて面白え」
「…………見えるわけがないだろう」
 ずっと背中を向けている。竜馬はいつもベッドの上にいる。こちらの表情など、わかるはずがない。
「見えなくてもわかるぜ」
「——っ」
 耳が、外界ではなく身体の中の音を拾い始める。
 ——クソ。
 今夜は、やけに心臓がうるさい。
 竜馬がしつこい。目を逸らしても、ずっと追いかけてきて顔を覗き込まれているようだった。
 それに、集中力がまるで足りない。鋼の壁を築くことができない。
 全部。

 ——竜馬のせいだ。

「……弁慶のところにでも行け。俺よりは気が合うだろうが」
 もうひとりのパイロットに押しつけられないかと試みる。
「たまになら行ってるぜ」
「もっと行ってやれ。俺はもう少し静かなほうが好みだ」
「けどよ、あいつ、トランプしててもオセロしてても、勝負がいい感じになってくると考え込んじまって寝ちまうンだよ。そのたびに起こして続きやるンだけどよ、これが結構疲れンだよな。イビキもとんでもねえし。一緒にエロビ観てっときは目ん玉ひん剥いてるクセしてよぉ」
 話の矛先がずれたと思ったのも束の間だった。
「あいつ、エロいDVDしこたま持ってるぜ。いろンな種類があってな、ケースの写真眺めてるだけでも面白えぜ。おめえも借りに行けよ」
「いらん」
「ンなこと言わねえでよ、えと、ま、まに……『まにあっく』なヤツがあるから、おめえの好きそうなのもきっとあるぜ」
「いらん!」
 最前よりもきつく、叩きつけるように答える。通常の人間ならびくりと身を震わせ、刺々しさに目を見開く強さだった。だが当然、竜馬には効果がない。
「興味ねえのか」
「ああ」
「とか言ってよぉ、そういうヤツほどむっつりってな」
 けらけらと笑う。
「ああ、ま、けどおめえツラいいからな。不自由しなさそう——いや、おめえが人とベタベタしてンの想像できねえな」
「ひとつ教えておいてやる。そういうのを下衆げすの勘繰りというんだ。人のシモの事情なぞ考えている暇があったら自分の心配でもしてろ」
「俺は心配いらねえモン」
「何が」
「相手に困ってねえから」
「————」
 全身が緊張し、身体中の毛穴が開く感覚がした。視界がぐらりと揺れ、頭に血が上る。
 強張った顔は竜馬からは見えないはずだ。それでもいつ気取られるかわからない。竜馬の興味をこちらから引き剥がせるならもう何でもよかった。
「なら、そいつのところに行けばいいだろ」
「え」
「こんなクソつまらん部屋にいつまでいる気だ。とっととそいつの部屋に行け——ああ、そうか。今晩は相手の都合が悪いってわけか。それなら食堂にでも行けよ。そうすりゃもう少しマシな話し相手が二、三人くらいはつかまるだろうが」
「食堂? は?」
「所員は十人、二十人どころじゃないんだ。ひとりふたりゲーム機を持っている奴だっているだろう。借りるか、そいつの部屋にでも行け」
「おい、隼人」
「わざわざ俺の部屋に来て、俺をからかって、俺に嫌われる必要があるのか」
「てめえ、何言って——」
「それとも、俺に嫌われたいのか」
 畳み掛けると、竜馬はとうとう黙り込んでしまった。それでも止められずにもうひと言、投げつける。
「俺はお前と仲良しごっこをするつもりはない」
 ムキになっている自分に気づいている。苛ついて子供じみた仕返しをするしかない自分に嫌気が差す。それでも、これで竜馬が離れてくれるのなら構わなかった。
 いつもなら「ふざけンな」「せっかく人が遊びに来てやってンのに」と噛みついてくる。そこを軽く煽ってやれば火がついて、悔しまぎれに悪態をついて出ていくはずだった。
 隼人は心を決める。
 三秒、五秒。
 妙な間が空く。
「……言ってる意味、わかンねえよ」
 予想に反し十秒もかかって、ようやく竜馬の声が返ってきた。しかも初めて聞く声音に戸惑い、隼人は完全に切り出すタイミングを失った。
「……おめえの指図は受けねえ。俺は自分がいたい場所に行く」
 怒りに満ちているでもなく、からかいが込められているでもない音は不思議だった。普段の勢いと明るさはなく、ただ淡々としていた。それが却ってほのかな寂しさを感じさせて、隼人の心をちくりと刺した。
 これまで、散々なことをやってきた。心は痛まなかったし、誰かによって動かされることもなかった。人でなしだと自覚していた自分が、たったひとりの男に揺さぶられている。
「——」
 視線が泳ぐ。
 竜馬はどんな表情をしているのだろうか。どんな思いで——いいや、知らなくていいことだ。
「……っ」
 惑う心を抑え、言葉を紡ぐために息を吸う。
『二度と来るな』
 今、言えば終わる。
 竜馬に振り回されるのは今夜限りになる。それをずっと求めていた。

 求めていたはずなのに。

 隼人の唇からは肝心のひと言がどうしても出てこなかった。
 いつの間にか、打鍵音もなく、溜息もなく、部屋は静まり返っていた。息を詰めたふたりの気配だけが空間をさまよっている。
 ——なぜ、こんなことに。
 息苦しさに、隼人の顔が歪んだ。

   †   †   †

 気づけば、だいぶ時間が経っていた。
 ずっと考え事をしているようで、結局は何も考えられなかった。始まってもいない竜馬との関係を終わらせたいと望んでいたのに、できないでいる。
 細く、長い溜息が零れる。ギシ、とベッドが鳴った。
 耳を澄ます。
 だがそれきり、背後から聞こえる音はない。
「…………竜馬」
 返事はない。
 十分に時間を取ってから、そろりと振り向く。竜馬はこちらに背中を向けてベッドの上で丸まっていた。意を決して立ち上がる。
「おい」
 隼人の影が竜馬の横顔を覆う。
「狸寝入りか」
 牙がある男に向かって狸とはな、と自分で発した言葉に妙な笑いが漏れた。
 ——そうだ。
 竜馬こいつは飼い慣らせるようなタマじゃない。
「……」
 じっと上から射る。
 どうやら本当に眠っているらしい。
「おめでたい野郎だな」
 嫌みにも反応しない。
「本当に、おめでたい」
 ベッドに乗り上げる。体重をかけると、不機嫌そうな軋み音があがる。竜馬の目蓋が動いて、隼人のほうへ身体を返してきた。
「——」
 仰向けで止まる。起きる様子はなく、単に寝返りを打っただけのようだった。
 胴体を跨ぎ、手を頭の両側に置く。これでも竜馬が起きないのは、隼人に殺意がないからだ。
 堕ちたものだ、と自虐に薄い笑みが浮かぶ。当然、竜馬はゲッターのパイロットだから殺せない。それでも、隼人には未だ牙と爪がある。いつだって闘う準備はできている。本気の殺意はないにしても、竜馬ほど勘のいい者ならば自由を奪おうとする気配を感じ取ってもいいはずだった。
「散々引っかき回しておいて、その顔か」
 眠っていると、二、三歳も幼く見える。まるで無邪気な少年だった。あの口の悪さも、鋭い目つきも、言葉より速く放たれる拳もない。代わりに長い睫毛と柔そうな頬、無防備な半開きの唇がそこにある。
「おい、起きろ」
 顔を近づける。
「竜馬」
 寝顔に変化はない。
「起きないと、キスするぞ」
 すう、と寝息が聞こえてくる。
「…………竜馬」
 ここでは、何も隼人の自由にならない。
 ——ゲッター線も、この男も。
 自信に溢れるあの笑みが、男に組み敷かれ逃げられないと悟ったときにどう変貌するのか。
 そんなつもりじゃなかった、と殊勝な顔つきで言い訳するのだろうか。それともそんな場面ですら挑戦的に煽ってくるのだろうか。

 本当は、知りたい。

 さらに近づく。
「……ン」
 竜馬の眉間に皺が寄る。隼人は動きを止める。
「ン」
 睫毛が震える。自分の前髪が竜馬の肌をくすぐっているのだとわかり、身を起こした。
 やがて眉は穏やかな角度に戻る。
「…………」
 眼下の男は平和そのものの寝顔だった。
 道理で、起きないはずだ。自分のほうが尻込みしている。眠っている相手にも振り回されている。
 その事実にいい加減おかしくなってきて、隼人の唇から乾いた笑いが零れた。

   †   †   †

「……あれ?」
 背後で不思議そうな声があがった。それから、ベッドの軋みともぞもぞ起き上がる音。
「今何時だよ」
 隼人は背中を向けたまま、答えない。
「うわ、日付け変わってンじゃねえか!」
 慌ててブーツを履いている。
「起こしてくれりゃよかったのに」
「——俺と一緒に寝たいのかと思ってな」
 気配が止まる。
 隼人は息を殺し、モニタを見つめる。コマンドの実行を終えたカーソルが次の指示を待って点滅していた。
 竜馬の視線を背中に感じる。振り向きたい衝動を抑える。
「……おめえがそんな冗談言うなンてな」
 次いで小さな笑い声。
 固まった空気と時間がゆるやかに流れ出す。隼人は詰めていた息を密やかに吐き出した。しかし、

「いいぜ」

 放たれた言葉に今度こそ息が止まった。
 一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「おめえが寂しくて、どうしても俺と一緒に寝たいってンなら、添い寝してやらねえこともねえ」
 キーボードに乗せていた指が反射的にぴくりと浮いた。
「ふざけるな」
「おめえが言い出したンだろ」
「何だと?」
「おめえ、俺と『仲良しごっこ』をするつもりはねえンだろ? そんなら『ごっこ』は抜きにすりゃいいじゃねえか」
「————何を、馬鹿な」
 次を待ってはいけない。何も期待しなければ、望まなければ、何も失わないし、これ以上乱されることもない。
 それなのに、
「別に、バカなことでもねえだろ」
 どこまで本気なのか、再びあの淡々とした声音が聞こえてきた。それから扉へ向かって歩いていく。
「……もう、来るな」
 絞り出すように言ってはみたが、足音は止まらない。
 扉が開く。
「じゃあ、またな・・・
 いつもの明るい調子。ニヤリと笑う顔が目に浮かんだ。
 靴音が変わる。室内から通路へ出た。そして、扉が閉まる。
「——」
 振り向く。
 無機質な扉はピタリと閉じている。今はまだ、ふたりの間を隔たるように。
 姿は見えないとわかっていて、それでも振り向いた。こんなことは初めてだった。
 もう、期待している。またあの扉が開くのを。
 まだ堕ちるのか、と情けなく思う一方で、どこまで堕ちていくのか知りたい気持ちも湧いてくる。それに、

 あの無邪気な悪魔に堕とされたいという願いも。

 こうして人は狂っていくのか。
 隼人は笑う。
 次はどんな言葉を向けてくるのか。もし目が合ったら、どんな表情をするのか。その瞳の奥で何を訴えてくるのか。

 それは、誰も知らない。

◆◆◆

知ってるくせに

 扉が開いて、靴音が近づく。迷いなくまっすぐに向かってくる。隼人は素知らぬフリをする。
 フリをしている自分にあきれる。完璧に「ない」ものとして扱えないのなら、いっそのこと振り返って迎えたほうがマシではないかとすら思う。
 できないのは、単にプライドのせいなのだろうか。それとも向き合うことを避けているのか。
 足音は真後ろでぴたりと止まった。
 空気が揺れる。
「ン」
 右肩越しに、にょっきりと竜馬の腕が生えてきた。何か握っている。それを胸の前まで持ってきて、ぽとりと落とす。
「部屋代」
 視界から手が引いていく。
 スティックタイプのチョコレートの箱だった。ひと口サイズのものが十二枚収められている。
「お前にしちゃ気が利くな」
 手に取り、包装フィルムを剥がす。すると、
「ひと言、余計」
 背後から笑い声があがった。
「フン」
 一枚取り出し、金色の包み紙を開く。作業の合間に食べられるし、手もほとんど汚れない。甘過ぎるものは苦手だが、手軽にブドウ糖を摂取できて気分転換にもなるので、こういう手合いは歓迎だった。
 だが、今どうしても口に入れたいわけではなかった。それでもすかさず手を出したのは、そうでもしないと間が保たないからだった。
 チョコレートの甘い香りが広がる。その下に、まだ竜馬の匂いが残っていた。風呂から上がって間もないのだろう。わずか数秒であってもはっきりとわかった。石けんと洗髪剤の香り。衣服からも微かに洗い立ての匂い。
 それから——。
「……」
 チョコレートを口に放り込む。早く鼻腔の奥から竜馬の存在を消してしまいたかった。
「何だか久しぶりだな」
 座り心地を確かめているのか、ギィギィとやかましくベッドが軋む。
「昼は毎日顔合わせてンのにな」
 寝転がった音がした。
「おめえ、ここ最近いなかったよな」
 忘れたくても忘れられない時間が突きつけられる。
 あの夜・・・
 確実に均衡が崩れていくのを感じた。そのまま堕ちていきたい自分と、抗いたい自分がいた。翌日の夜、訪問者を待ち侘びていることに気づき、衝動的に部屋を飛び出した。それから三日間、夜の間は部屋を空けていた。次の二日間は部屋にいたが、今度は竜馬が来なかった。やはり気まぐれだったのか、とベッドを眺め鬱々とした思いに囚われて、再びそんな自分に嫌気が差して部屋を留守にした。
 この時間に自室にいるのは三日ぶりだった。竜馬が言う「ここ最近」はこの一日二日のことか、それとももっと前の夜も含めてか。
 竜馬が来なかったのはわざとだったのか。駆け引きだったのか。
 ——駆け引き? 何の?
 自分で持ち出した表現にまさか、と思う。
 ——竜馬が駆け引き?
 いいや。そういう男ではない。
 ——本当に?
 やりとりを思い返す。決して勢い任せではなかった。竜馬は血の気は多いが、馬鹿ではない。しかし、計算や打算といった言葉もそぐわない。狡猾とは程遠い。むしろ、あれは。
「気を引く」と表すのが一番しっくりきた。
 ——まさか。
 身体の中が熱くなる。
 隼人の気を引こうとしていた。思い通りにならなければ別の手を出してくる。撥ねつけられれば戸惑って口をつぐむ。けれども、離れようとはしない。様子をうかがって、拒まれていないと判断したらまた傍に寄ってくる。
「——」
 状況が物語っている。それでも、確信が持てない。「そうであればいい」というよこしまな希望に過ぎない。
 データはモニタ上を淡々と流れていく。瞳はぼんやりとその動きを追っている。コマンドを間違えなければ、結果は期待通りのものとなる。誤差はつきものだが、存在を知っていればそれなりの対処はできる。データは隠されないし、嘘をつかない。
 人間ひとの思いも、測れたらいいのに——。
「って、聞いてンのか?」
 なあ、と続いて、隼人は我に返る。
「……ま、いつものことか」
 竜馬の呟きには笑いが滲んでいた。振り返らない背中は、きっとパソコンモニタに魂を吸い取られたようにでも見えるのだろう。原因が自分だとも知らずに。
 やがて、んあ、と呑気に伸びをする気配がした。
「形は同じなのによ、俺のより隼人のベッドのほうが寝心地いい気がするぜ」
 キシキシと聞こえ始める。何度も体勢を変えながら跳ね返りを確認しているのだろう。相も変わらず自由だった。
「それに、何だかいい匂いがする」
 隼人が耳をそばだてた瞬間、ぼふん、と枕に顔を突っ込む音がした。
 途端に鼻の奥によみがえってくる。竜馬が訪ねてきた夜——特に長めの時間を過ごしたあと——のシーツの残り香は毒でしかなかった。
「——っ」
 まとわりつく記憶と感情を振り払うかのように立ち上がると、竜馬には視線をくれずにベッドの脇を通り過ぎる。
「隼人? ああ、便所か」
 何も言わず洗面所へ向かう。室内とを隔てるドアを開け身体を滑り込ませると後ろ手で閉める。そのままドアにもたれると、隼人は天井を仰いで深い息を吐いた。

   †   †   †

「お、戻ってきた」
 寝そべっていた竜馬が身体を起こした。隼人はベッド脇まで来ると立ち止まり、竜馬を見下ろす。
やっとこっち向いた・・・・・・・・・
 竜馬はあぐらをかき、遊び相手が見つかったとばかりに目を細める。警戒心のまったく見えない表情。隼人は右手を伸ばし、竜馬の顎にかけた。
「あンだよ」
 撥ねのけるでもなく、上目遣いが返ってきた。鳶色の瞳に部屋の照明が反射してきらりと光る。
「キスでもしようってのか」
「して欲しいか?」
 静かに問い返す。竜馬は顔色ひとつ変えない。
「おめえがしたいなら。……つうか、さっき部屋代やっただろ」
「今までの分が溜まっている」
「え」
「一日一枚換算でも、まったく足りない」
「——く」
 口元が歪む。
「くははっ」
 顔をくしゃりとさせ、弾けるように笑い出す。身体が揺れ、隼人の手から離れた。
「は、おめえ、マジで——ふ、くははっ!」
「何がおかしい」
「いや、っつうか、おめえ、すっげえマジメなツラしてっからよぉ」
「……」
「ふふっ、部屋代か」
 ひとしきり笑ったあと、ぴっと背筋を伸ばし、いつもの挑戦的な表情で隼人を見上げた。
「キス、何回分だよ」
「……嫌がらないのか」
「嫌なら、もう逃げてる」
「——っ」
 聞くなり竜馬を押し倒し、素早くマウントポジションを取る。だがそれも想定済みなのか、動揺は微塵も感じられない。
「……やべえ。隼人に押し倒されちまった」
「その割に、冷静だな」
「ンなことねえぜ。結構どきどきしてる。……確かめてみるか?」
 顎をくい、とやり、唇の端を上げる。やけに婀娜あだっぽい仕種に隼人の目が釘づけになる。心の奥がざわりと波立った。
「…………ずいぶんと煽るじゃないか」
 平静のつもりだった。しかし、ほんの少しだけ声が震えた。気づいたのか、竜馬がニッと笑う。
「おめえが、煽られたそうだったから」
「……犯すぞ」
 口の中が乾いていた。緊張を悟られたくない。これ以上、竜馬に優位を与えたくない。タンクトップの裾を乱暴にズボンから引きずり出して、左手を滑り込ませる。
「ンっ……ふふっ」
 悪戯を愉しむような笑い声。竜馬の引き締まった腹が上下し、くすぐったそうに右肩がよじられた。隼人の指はまだためらっている。その気になりさえすれば、逃げられるだけの余地が残されている。
 だが——。
『やれるモンならやってみろ』
 前髪の隙間から流れてきた視線がそう焚きつけてきた。
 頭に血が上る。
「……お前、いい度胸だな。俺がどんな人間か、知っているくせに」
 くひ、と喉から迫り上がる。
 普段から、煽られるのは竜馬のほうだった。すぐカッとなって手を出す。自分はそれを受け流す。そういう関係性だったはずだ。それなのに、今夜は自分が煽られている。無様だなとあざけりたくなる反面、妙に嬉しくてぞくぞくする。
 ——いいや。
 ふたりきりのときは、いつもこちらが煽られていた。
「——」
 隼人の指が明確な意志を持って竜馬の肌をなぞり始める。ひく、と鍛えられた腹が震える。熱くて、少し汗ばんでいる肌が指に吸いついてきた。
「……ふ、…………ン」
 指が動くと、鼻にかかった声があがる。ゆっくりと竜馬の目が閉じられていく。
「————竜馬」
 はあっ、と隼人の唇から吐息が落ちた。
 興奮と期待でくらくらする。もう、戻れない。

 ——いや、まだ戻れる。

 手が止まる。
「…………ン?」
 竜馬の左目が開いた。
「隼人?」
 不思議そうに見上げてくる。
「……竜馬」
 執着と肉欲にまみれた瞳をしているのだろうと思う。それでも、竜馬は受け入れるのか。だからこそ、受け入れるのか。

 ——それなら、俺でなくても。

 あのとき・・・・、竜馬は何と言っていたか。
『相手に困ってねえから』
 確かにそう言った。
 自分は誰かの代わりか。もしくは暇つぶしの相手か。
「お前」
 身体から手を離す。
 胸の内にくらいものがくすぶっている。理由はわかっている。
 竜馬が好きだからだ。
 誰にも渡したくない。その相手が自分であればいいと切に思う。だが、もし違ったら。竜馬がそうでないのなら——。
「隼人」
 右手が伸びてきて、隼人の腿に触れた。指に力が込められ、瞬間的に逃げようとする体躯を引き留める。すぐに服を通り越して肌の熱さが伝わってきた。
「逃げなくったって、いいだろ」
 唇が動く。そのさまも眼差しも、ひどく艶かしい。ほんのわずか、肩をすくめる動きにも目を奪われる。
 いったいどこでしなを作る術を覚えたのか。それとも、
「…………りょう……ま……」
 竜馬の本分なのか。
 もしもそうなら、自分と向き合ったときにだけ露わになるものであればいいのに。
「……俺を」
 声がかすれる。
 訊いてどうするのか。
「……俺を……好き、だとでも……?」
 違う、と言われても、きっともう戻れない。

 ——竜馬。

 身を乗り出す。近づいた分だけ、ベッドが軋む。
「りょう、ま」
 石けんと洗髪剤の香り。衣服からも微かに洗い立ての匂い。
 それから——。
 竜馬自身の匂いが頭の奥を痺れさせる。シーツの残り香など比べ物にならない。甘い香りに誘われ、狂った蟲は止まらない。
 いつか、こうなるとわかっていた。
 竜馬の瞳が笑う。
「はやと」
 唇がささやく。
 そして、短い言葉が明確に伝えられた。扉が開かれる。
「————」
 ようやく気づく。初めから、鍵などかかっていなかったのだと。
 理性が崩れ落ちていくのを、欠片となった理性で認識していた。その意識ももうすぐ消え失せる。
「りょうま」
 今にも零れ落ちそうな蜜に舌を伸ばす。もはや、毒であっても構わない。
 耳の奥で竜馬の声が木霊こだまする。隼人は幾度も繰り返されるその言葉を、溶けていく正気の端で聞いていた。

 知ってるくせに——。

 

 

 〈完〉