運命のひと

新ゲ隼竜

【閲覧注意】
つきあってます。ただし隼人は出ません。人を選ぶ内容なので下記を確認のうえ楽しめそうな方のみどうぞ。
黒平安京に竜馬が数日早く着いて山中で隼人そっくりの男に出会う話。一目惚れされ夜這いされますが貞操は守ります。
隼人を思い出して寂しいって思う竜馬。この先の自分たちのことを初めて考えるシーンがあります。あばダチに繋がるような描写が少しあります。ちょっとしんみりシリアス系。
・隼人そっくりの男の名前は出てきません。竜馬も「おめえ」呼び。素性も明らかにはなりませんが、現地の人です。
・隼人が記憶喪失になっているのかもと思って竜馬が最初に名乗るので、男は竜馬の名前をわかっています。「リョウマ」呼び。
・竜馬はまだ現代にいると思っています。季節はアニメの描写から初夏としています。
・山中で右も左もわからない状態のため、誘われるまま男の家に厄介を決めます。
・一目惚れされていると気づいていないので、竜馬は基本的に自然体。ただし時折、隼人を思い出して盗み見したりはします。
・泊めてもらったお礼に色々手伝いをしますが、ふとした時に子供の頃やご近所さんのことを思い出します。道場は竜馬が生まれる前に上京した一岩さんが購入した設定&ご近所づきあい諸々捏造。
・「シブキ」という植物が出てきますが、ドクダミの古名です。
・夜這いは、始めは寝惚けて隼人と勘違いして受け入れようとしますが、違うとわかって全力で拒みます(殴ります)。
・頬へのキス、のしかかられる、抱きしめられる、があります。
・プロポーズされます(断ります)。
・ゲッターが埋まっている山はのちの大江山と設定していますが、北部・丹後半島の付け根の大江山ではなく、平安京の西側に位置していた大枝としています(図参照)。
・羽衣伝説をベースにしています。
約24,000文字。2023/6/25

【地図】

※分割しています





◆◆◆

 

 男の足が止まった。
「ちっとばかり見ねえ間に、泥棒になってたとはな」
 降る声に顔を上げようとする——。
「よっ」
 その前に大きな影が枝から飛び降りてきた。
「隼人」
 呼ばれて、男の目が大きくなる。萌黄色の塊を抱えたまま、一歩下がった。竜馬は腰に手をあて仁王立ちになる。
「パンツ穿いててよかったぜ。素っ裸じゃこのポーズもカッコつかねえしな」
 そうしてニッと笑った。
「ところでよぉ、ここ、どこなンだよ。弁慶の野郎は? ゲッターは」
 だが返事はない。
「隼人?」
「……ぁ」
 どうも様子がおかしい。
 視線が覚束ない。先程は確かに目が合った。けれども今は逸らされ、意識的に逃げている。
「何だ、おめえ」
 今更、竜馬の裸に照れることもあるまい。
「どっか悪ぃ——え、まさか」
 あの渦の中。光に飲み込まれ、時間の感覚が消えていき、意識が遠くなって——気がつけばこの山の中だった。しばらく探し回ったが、隼人も弁慶も、ゲッターロボも見当たらなかった。
「おい、俺の名前は」
 首が横に振られる。
「……記憶……そーしつ?」
 戦闘の衝撃で頭をコックピット内に打ちつけることは稀にあった。そんなときはメディカルチェックが長引いた。目に見える傷はなくとも頭蓋内で出血していることもあるし、強打すると一時的に記憶が欠如・混濁する可能性があるのだと言われていた。
 ——まさか。
「おめえ、自分の名前もわかンなくなっちまったのか」
 着物の襟を掴んで問い質す。薄い唇が一旦は開かれるが、声は聞こえてこなかった。男は竜馬の顔をまばたきもせずに見つめ、口を閉じる。隼人特有の鋭い気配を感じられず、胸の中がざわついた。
「おい、隼人!」
 襟を引っ張る。
「なあ!」
「…………口は、きける」
「——お、おう」
 聞き慣れた声にようやく竜馬が息をついた。手を離すと、凡そ隼人とは思えないほど緩慢な動作で襟を直し始めた。
「……」
 じっと見つめる。自分の目線と顎の角度はいつも通りで、見える隼人の顔もいつも通りだった。やはり隼人だ。しかしまだこちらを見ようとはしない。
「……これ」
 男は抱えていた塊を竜馬の胸に押しつけた。端がはらりとめくれ、浅葱色が覗いた。
「俺のマフラー、風呂敷じゃねえンだけどな」
 包むには幅が足りないので、ぐるぐる巻きにされていた。ゆっくり逆方向に解いていくと、パイロットスーツとブーツが現れた。
「お、ちゃんと乾いてら」
 スーツの布地をこすって確かめる。
「目ぇ覚めたら泥まみれでよ。しょうがねえから川で水浴びだ。温泉でもありゃよかったンだがな」
 引っ張り出すとグローブも落ちてきた。
「これはまだちっと湿ってンな。ま、しゃあねえ」
 その場で身につけていく。
「うし」
 マフラーを巻いて、慣れた姿になる。
「しっかし盗まれるとは思わなかったぜ」
 スーツとマフラーを手近な木の枝に干し、のんびり寝転がっていた。視線と忍び寄る気配に気づいたが殺気はなかったので放っておいたのだった。
「しかも隼人にだなんてな」
「……悪かった」
「おう」
 いったい、どうするつもりだったのか。傍に寄り、しげしげと眺める。
 髪は後ろで束ねられていたが、見るからにパサついて手触りが悪そうだった。くたびれた着物を着ている。袖も裾も短い。足元は草鞋わらじで、山の中をよほど歩いたのか汚れていた。
「ンで、おめえはどうしてたンだよ。何でそんなカッコしてンだ? パイロットスーツは」
 再び矢継ぎ早に問う。
「鬼に破られでもしたか? それともまさか、気づいたら素っ裸だったとか」
 間抜けな状況を思い描いて吹き出した。
「それで俺のを盗んだンじゃねえよな。伸びるっつったって、キツいだろが」
「俺は、その」
 男の目が泳ぐ。
「ン?」
「その、隼人という男ではない」
 竜馬は首を傾げる。申し訳なさそうに男が呟いた。
「……別人だ」
「は? 何言ってやがる。隼人だろ?」
 一歩踏み込む。遠慮のない恋人の距離。竜馬が顔を近づけると、その分だけ男は顔を後ろに引いた。
「……」
 め上げる。喉仏の形、顎のライン、小鼻や鼻筋、瞳の大きさ、肌の色。
「隼人じゃねえか」
「違う」
「こんなときに嘘つきやがンのかよ。おめえ、いい趣味してンな」
 右腕を掴む。無造作に袖をまくるが、前腕にあるはずのホクロがなかった。
「——」
 あわせを掴んで引っ張る。左の鎖骨の下にもホクロはなかった。胸元を覗き込むが、昨日の夜に竜馬がつけた噛み跡も当然——。
 弾かれたように顔を上げ、眼前の男を凝視する。
 どこからどう見ても隼人だ。
 だが、違う人間だという。信じられなかった。
「……おめえ、ほんとに隼人じゃねえのか?」
「違う。俺は」
「待て」手を離す。
「言うな」
 頭の中がこんがらがっている。
「言わなくていい。……聞きたく、ねえ」
 一歩、二歩、後退りをしては距離を取る。隼人——によく似た男は、竜馬の挙動を見つめる。
「……人違いだ。悪かったな」
 竜馬は深い溜息をついた。背を向け、足早に歩き出す。

「待て」

 足を止めてしまったのは、同じ声だったからか。
「どこに行く」
「知らねえ。けど、探しモンがあンだよ」
「もうすぐ陽が落ちる。近くには村がない」
「……なら、どうしろってンだ」
「よければ、俺の家に来ないか」
 思わず振り返る。
「夜の山歩きは無理だ。それに、この土地は不案内なんだろう?」
「う」
 その通りだった。
「もしよければ探し物が見つかるまで——いや、一日二日でもいい、ここにいないか」
「え……」
「たいしたものは出せないが食うものはあるし、少しなら酒もある。その探し物を教えてもらえるなら、何か手助けができるかもしれない」
 男の眉がわずかに下がり、遠慮がちな表情になる。
「……俺が、その『ハヤト』に似ているのが嫌じゃなければ」
「…………」
 目の前の男をじっくりと見つめる。
 隼人に瓜二つな男が「ここにいないか」と誘う。隼人と同じ声で、どこか縋るように。
「……あ」
 視線を外す。ふらふらと迷って、自分の爪先に落ちる。
 さっきまで隼人と同じ顔の男が嫌だったのに、離れようとすると気にかかる。
 ——何で。
 迷うことではないはずなのに。
「気兼ねしなくていい。落ち着かないというなら、手伝いをしてくれ」
「……手伝い?」
「ああ。こんなところでもそれなりにやることはあってな、仕掛けた罠の見回りや村々で売るものを作る手伝いをしてくれたら、助かる」
 ——俺。
 胸の奥がもやつく。心地よくはない感触。それをもっと奥へ押しやる。
 ——これは「合理的」ってヤツだ。
 いつも隼人が言っている。あてはめて考えるなら、見知らぬ土地で闇雲に動き回るよりは、様子をうかがって機会を図るべきだ。今のところ鬼の気配はない。留まるリスクも低いだろう。
 何より、こんなひと気のない山中で寝る場所と食べ物を提供してくれるのなら、願ったり叶ったりではないか。
 決して、彼が隼人に似ているからではない——。
「そンなら、ちっとばかし世話になるぜ」
 本当なら、前に進むべきだ。わかってはいた。

 

 

 男の後をついていく。
「ここってずいぶん山奥みてえだけど」
 気づいたあと、手近な木に登ってはみたが四方とも山だった。それほど標高があるようには見えなかったが、人里の気配は感じられなかった。男は「ああ」と笑う。少しだけ憂いを含んだような笑みだった。
「この辺には俺しかいない。一番近くの村で、ふたつ向こうの山だ」
 右手でずっと向こうを指す。
「……ふう、ん」
 いつでも、どこでも、そういう人間は訳あり・・・だ。周囲を見回すふりをして男を盗み見る。
 背丈も体つきもそっくりだった。山での独り暮らしなら、ひ弱ではやっていけない。ここで鍛えられたのか、その体格を必要とする何か・・をしていたのか。話振りは穏やかで、攻撃的な印象はまったくない。住んでいた土地柄、いわゆる「ヤバい奴」の雰囲気はわかる。けれどもこの男からは、初対面の隼人が放っていたようなひりつく空気や、たまに見る肝の据わった、あるいは頭のネジが数本イカれた筋者特有のギラつきを感じなかった。
「けど、ひとりじゃやべえときもあるンじゃねえの? 熊とか強盗とか……鬼とか」
 男が立ち止まり、振り向く。
「鬼?」
「あ——ああ、例え話」
 男がまばたきを繰り返す。不審に思われただろうか。踏み込む気はない。ただ、もう少しだけ土地のことも、この男のことも知りたかった。けれども、どこまで何を話せばいいのか。
 こういうとき、隼人なら誤魔化すにしても作り話をするにしても、きっとうまくやるのだろう。
「……こんなところまで野盗の類は来ない。だが獣はそこら中にいるし、敏感だからな。食い残しの始末だけは気をつけている」
 わずかに目を細め、男が答える。
「ふうん、そっか」
 なるべく前のめりにならないように相槌を打つ。
「危険といえば、都に行った帰り道くらいだろうな」
「ミヤコ?」
「ああ。こんな山奥でもいろいろ獲れる。それを村まで下りて売るなり食い物と交換するなりしている。たまには都まで稼ぎに行くこともある。だが、大きな道を外れた途端に野盗が湧くからな。徒党を組んで武装して、……それこそ鬼のようだ」
「襲われたことあンのか」
「まあ、な」
 困ったように笑う。
「そういうときは、運が悪かったと素直に諦めるしかない。だから、山の中に籠っているほうがよほど安全だな。ここの暮らしはそう悪いものじゃない、むしろ——」
 言葉を切り、竜馬を見つめる。
「……何だよ」
「いいや、何でもない」
 穏やかに笑う。
「——」
 胸が鳴る。隼人ではないとわかっていても、その笑顔は目を奪った。
 辿り着いた家は質素だった。山奥にひっそりと馴染んでいる。
「あばら屋ですまない」
「俺ンちも似たようなモンだぜ。雨漏りもする」
「そうか」
 聞いて、男が安心したように眉を開いた。
「ところでよ、俺ぁタダ飯は性に合わねえからな、薪割りでも水汲みでもするぜ」
「それは助かる。ならさっそくで悪いが——」
 身体を動かすのは気持ちいい。それに、不健康な考えになりにくい。竜馬は任せとけ、と張り切って答えた。

 

 鍋に火が通るのを待ちながら、ぽつぽつと言葉を交わす。
「なら、探しているのは仲間ふたりと、屋敷のように大きな赤い乗り物ということか」
「んー、まあ、そう。……ってか、仲間っちゃあ仲間……か?」
 いわゆるヒーローものの映画や漫画のように、固い絆で結ばれた者同士ではない。
「どうだろうな」
 竜馬の太い眉毛が動く。
 正直、まだどんなふうに位置づければいいのかわからない。腕を組んで首を傾げる。
「まあ、性格も目的もてんでバラバラだけどよ、それなりにうまく回るようにはなってきたかな」
 ゲッターロボがなければ、知り合わなかった三人。今は一蓮托生で、怒鳴り合いながら背中を預けている。不思議な縁だとは思う。
「俺と同じ状態だったら、山ン中ウロウロしてそうなんだけどな」
「ここ数日は誰も見かけていないし、異様な音を聞いたこともない」
「そうか」
「村まで行けば、何かわかるかもしれない。余所者や怪異の話は広がるのが早いから」
「そういうのって、どこでも同じだな」
 竜馬が小さく笑う。
「まあ、血眼になってまで探さなくても、アイツらだって何とかやってるはずだからな。そのうち会えンだろ」
 隼人はサバイバルの術を身につけているだろうし、弁慶は山奥の寺で自給自足の生活を送っていた。致命的な大怪我さえ負っていなければ——それも心配しなくていい気はするが——大丈夫だろう。
「信頼しているんだな」
「信頼ぃ〜⁉︎」
「……違うのか?」
 素っ頓狂な声をあげた竜馬に男が面食らう。
「いや、そう言われるとそう……かぁ? けど……、ンん……?」
 こんなふうに、あのふたりのことを訊かれたり語ったりしたことはなかった。
 ひとり「うん」とか「んん?」と首をひねっている間に、
「できたぞ」
 と湯気の上がる椀を差し出された。
「おっ、旨そう!」
「本当にたいしたものじゃないが」
「ンなことねえぜ。食えるうえにあったけえとか、それだけで十分だ」
 それでも申し訳なさそうに椀を手渡した男は、竜馬が表情を曇らせることなく、むしろ嬉々として椀をかき込むのを見て心底安心したように息をついた。
 竜馬にとっての問題は、そのあとだった。
「あ゛ーっ、かっ、痒ぃ‼︎」
 こらえきれず、叫ぶ。
「うっわ、すっげえ腫れてる」
 うなじの辺りを探ると、皮膚がぼこんと盛り上がっていた。
「う〜〜っ!」
 掻きむしるのはよくないとわかっていても、痒くてたまらない。気づいたら刺されていた。思いきり顔をしかめ、両の指をわしわしと動かして耐える。
「薬がある」
 あまりの悶絶ぶりに男が苦笑した。
「ま、マジかっ、頼むっ」
 必死さに、最後は声が裏返る。竜馬は急いで背中を向けた。
 小さな壺を手に男がいざり寄る。蓋を開けると鼻をつく何とも言えない香りがした。竜馬の眉根がきゅっと互い違いに寄る。
「……マズそうな匂いだな」
「シブキの葉が入っている。効くぞ」
「聞いたことねえな。……けど、匂いは何か覚えあンな」
 鼻をひくひくとさせ、しばし考える。だが思い出す前に男が背後に陣取った。
「見せてくれ」
「おう」
 右手の人差し指を襟首に突っ込み、マフラーごと思いきり下げる。
「ここだ」
 左の手で指し示す。
「……その、髪で見えない」
「ああ」
 襟足を左手でかき分ける。
「これでいいか? 腫れてるだろ」
「…………ああ」
 わずかに、男の声が掠れていた。
「……?」
 何も感触がない。
「何だよ。暗くて見えねえのか? も少し左か右か、向いたほうがいいか」
「——いや、大丈夫だ」
「そんなら、早いとこ頼むわ」
「ああ」
 直後、ぬるくて湿った感触が肌にへばりついた。
「う、わ」
 妙な感覚にびくりと両肩が浮く。
「待て、まだ」
 前傾姿勢で逃げようとする襟首に男の指が触れた。
「————」
 また、ぴくりと肩が動く。それきり、竜馬は身じろぐのをやめ、黙り込んでしまった。
「……このままだと着物につくから」
 薬の上から何かを貼っているようだった。
「これで腫れは引く。こっちの手は離していいぞ」
 竜馬の右手にそっと触れる。指が離れると、男はパイロットスーツの首元を戻し、マフラーの形を整えた。
「もういいぞ」
「…………おう、あンがとな」
 少しだけ、空気が変に緊張していた。このままにしたからといって、どうなるものでもないはずだ。それでも居心地がいいに越したことはない。雰囲気を変えるきっかけを探そうとしたときだった。
「あ! 松田のばーちゃん!」
 急に思い出した。
「…………マツダ?」
 男は不思議そうに繰り返す。竜馬はさっきまでのおとなしさとは打って変わって、明るい表情で「おう」と返した。
「三軒後ろのうちでな」
 道場がある一角は近くに住むある人物の土地だった。地方から出てきた父親が、元は柔道の道場だった建物付きの土地をこの大家から買った。竜馬が生まれる前のことだ。
 その辺りは古くからの住人が多かったせいもあり、近所づきあいが盛んで、竜馬も彼らに可愛がられて育った。
「親父が留守にするときとか、近所の人たちンとこ転々としてたな」
 ひとりだと何かあったら危ないから、と進んで幼い竜馬を預かりたいという人たちばかりだった。
「松田のばーちゃん、いっつもニコニコしててな、おはぎとかふ菓子とかすげえ出してくンのな。それが旨くてつい食い過ぎてよ、晩飯残しそうになって親父に怒られて——あ」
 竜馬が目を丸くする。
「おい」
 呼びかけに男がきょとんとする。竜馬は真顔になる。
「もう痒くねえぞ」
 聞くと二回、三回とまばたきをして、男の顔がゆるんだ。
「——」
 穏やかで、嬉しそうな顔に見惚れてしまう。隼人が不意に笑みを浮かべることはあっても、ここまではっきりとした笑顔にはならない。
 それとも。
 もっと長く一緒にいたら、こんな笑顔で自分を見てくれる日が来るのだろうか。
 ——「長く」って?
 突然湧き出た疑問に意識を持っていかれる。
 ——いつまで一緒にいられンのかな。
 考えたこともなかった。
 ——俺。
「よかった。また刺されたら言ってくれ」
 我に返る。男は竜馬の目を覗き込みながらもう一度、笑った。

 

 

 静かに、だが確実に空気が揺れた。
「——」
 竜馬は目を閉じたまま様子をうかがう。ごそり、と男が起き上がる。辺りを気にする気配がし、ゆっくりと寝床を抜け出す。
 そのまま土間へ下りると、竜馬を起こさないためなのだろう、ひどく慎重に戸口を開けて表に出ていった。
「……」
 五分ほど待つ。戻ってこないところをみると、一時的なものではなく、完全に寝床を離れたらしかった。
 目蓋を持ち上げる。まだ薄暗かったが、朝が近いとわかった。
「う、お」
 伸びをすると、身体がボキ、と鳴った。
 男の家には布団がなかった。藁と筵を重ねるだけの簡単な寝床で、男は追加であるだけの着物を渡してくれたが、板間に直に寝ているようなものだった。
「ンん、お」
 あちこち強張り気味になっていた身体をほぐす。
 夕飯にありつけて、屋根のあるところで眠れるだけありがたかった。肉の下からポキポキと関節の音が聞こえてくると、自宅の古い布団の記憶がよみがえってきた。綿が詰まってはいたが、ひとりになってからは打ち直しもせず煎餅布団のままだったので、たいして変わりない。板張りの上で眠ったら同じように凝っただろう。
 あの敷布団も掛け布団も妙に重かったな、と不思議な感慨があった。
 土間の甕から水をもらう。気づけば屋根の隙間から明るさが差し込んでいた。鳥のさえずりも聞こえる。初めて耳にする鳴き声もあった。
 やがて、足音が近づいてきた。出ていったときと同じように、そろそろと引き戸が開けられる。
「よう」
「……起きていたか」
「ああ。水、もらったぜ」
「構わない」
 手にした桶には水が入っていた。それを別の甕にあける。
「起こしてくれりゃよかったのに。そしたら二馬力だぜ」
「まだ夜明け前だったから」
「え?」
「道に慣れていないと、危ない」
「あー、確かに」
「崖から落ちないとも限らないしな」
「それ、やべえな」
 笑う男を改めて見る。やはり隼人と瓜二つだった。
「少しは休めたか」
 声も同じ。竜馬はそっと息をつく。それから、
「ああ。問題ねえ」
 気を取り直して答えた。
「それなら、さっそくですまないが、罠の見回りにつきあってくれないか?」
「おう。何がかかるンだ?」
「ウサギ、キジ、それから運がよければ、イノシシ」
「マジか。もしかかってたらよ、任せとけ」
 男が目を丸くする。
「いや、危ないから——」
「大丈夫だって。俺、親父と山籠りしてたことあってよ、イノシシは全部で三回ぐれえかな? 突然襲われてよ、倒したことあるンだぜ」
 ぽかんとしている男に右手で中段突きの構えを見せて笑った。

「へえ、これが罠か」
 単純な仕組みだった。動物自身の動きによってストッパーが外れ、紐が締まる。獲物は脚を封じられる。
「けど、そんなに上手くいくのか?」
「ここは通り道だ」
「ほんとかよ」
 道があるようには見えない。
「こうして見ると」
 男がしゃがむ。竜馬も倣う。すると、うっすら道が浮き上がっているように見えた。
「あれ?」
 立ち上がり、もう一度しゃがむ。今度ははっきりと道が見えた。
「草が踏み分けられたり、動物の体に沿って細い枝が折れるから、道だとわかる」
「へえ」
 一歩踏み出そうとして、大きな石くれに阻まれる。
「ン、この石、邪魔だな」
 避ける。だが罠の真上に足を置いてしまった。ピン、と罠が起動して爪先に縄がかかった。
「お、わ」
「この石も仕掛けのひとつだ」男が笑う。
「動物も人間も同じだ」
「あ」
 通り道に邪魔なものがある。自然と避ける。そこに罠がある。まったく合理的なものだった。
「すげえ。よく考えてンだな」
 何手も先を読む闘いのようだと思った。きっと生きることと深く結びついているものだから、そう呼ぶのはあながち間違いでもないだろう。
「それでも、毎日かかるわけではない」
「そっか。ってか、悪ぃ。ムダに罠動かしちまった」
「大丈夫だ。すぐにまた仕掛けられる」
 獲物はかかっていない、無駄働きをさせられている、それなのに、男はにこやかだった。
「…………ああ」
 この男は、竜馬が何か言うとすぐに笑う。
 隼人とは違った。
「…………」
「じゃあ、もうひとつ寄って、それから戻ろう——リョウマ」
 声に、はっとする。
「腹が空いてきただろう? 戻ったら飯にしよう」
 男に促され、進む。木々も下生えも青々と繁っている。男が幾度も通っているからなのだろう、かろうじて道ができてはいるが、幾日か放っておけば緑の勢いに覆われて消えてしまいそうだった。
「もうすぐだ」
 やがて道は下りになり、水音が聞こえてきた。緑の隙間から水面みなもが覗く。
「あそこだ」
 ちょうど川岸、大小の岩の陰から湯気が上がっている場所があった。
「……温泉?」
 石だらけの川原を進む。すると、大きな岩により本流と分かれた、小さな流れがあった。いくつかの大振りな石がうまいことせきの役割を果たし、水溜まりのようではあるが絶えず出入りのある穏やかな淵ができていた。ところどころ、川底からポコポコと泡が浮き上がっている。
「マジで温泉じゃねえのか?」
 竜馬が指先を水面にちょんとつける。生温かった。右手を突っ込んでみる。
「うおっ、あったけえ」
「真ん中の底はやめたほうがいい。かなり熱いからな」
「おう」
 それで、と上流側の石を見やる。少しずつ水が流れ込んでくるようにし、温度を調整していたのだ。
「けど何だって」
 視線を戻す。何か沈んでいる。男は湯の中からそれを引き揚げた。
「何だそれ」
 ツルでざっくりと編まれた大ぶりのかごが湯気を上げていた。中には丸まったツルが大量に入っている。
「湯に浸けると柔らかくなって編みやすくなる。これで籠を作る」
「へえ。それを売るってことか」
「ああ。食い物や着物と交換することも多いがな。腐るわけじゃなし、いくらあってもいい」
 男が竜馬を見る。
「飯のあとでやり方を教えるから、手伝ってくれないか」
「いいぜ。けど、できっかな」
「仕上げは俺がするから、途中まででいい。大きな穴が開いていなければ大丈夫だ」
 竜馬の眉毛がぴくりとする。
「……そう言われると、ちゃんとしたモン作って『どうだ』ってやりたくなるな」
 男が笑う。
「しっかりしたものなら、尚のこといい。俺の評判も上がる」
「おっしゃ、そんなら任せとけ」
 ふん、と鼻を鳴らした竜馬を、優しげな瞳が見つめた。

 

「そう、もう少しここを引っ張って目を詰める」
「ン、こんぐれえか?」
「——ああ、そのくらいでいい」
「おう」
「それでもう一周、巻いてみてくれ」
 言われた通りの手順、力加減で編み込む。
「本当に初めてか? 上手いな」
「へへっ、俺ぁ器用なンだぜ」
 得意げに、にっかり笑う。
「目ぇ瞑ってても片手で包帯巻けるしよ」
「ホウタイ?」
「ああ。毎日、稽古のたびに手足に巻いてた。あれ、筋肉の動き方もわかってねえといけねえし、引っ張りが足りなくてもすぐにゆるんでグズグズになっちまうンだよな」
 何でもそうだった。自分のことは自分でできるように、他人をあて・・にするな、と父親に教わった。
 飲み込みが早い部分もあったが、繰り返すうち自然と身についた。繕い物も、料理もできる——さすがに一級の出来ではないが。
「そういやガキん頃、近所で編み物か何かの手伝いしたことあったな」
 朧げな記憶を辿る。
「夕べの、マツダという人か?」
「いや、縫い物とか編み物とか得意だったのって、橋本のばーちゃんだったかな」
 確か、浴衣を縫ってもらったことがあった。
「そうだ」
 その浴衣を着て、花園神社の祭りに行った。
 物心ついたときから片親だったが、自分を不幸だと思ったことはなかった。それはきっと住む家があって、厳しかったけれども父がいて、近所の人たちがいて、彼らと朝な夕な挨拶を交わしていたからで——。
「……フツーの生活ってそんなだよな」
「フツー?」
「ん? ……いや、こっちの話だ」
 空手の稽古はきつかった。子供相手でも父親は手加減しなかった。むしろ息子だからこその容赦のなさだった。それでも嫌にはならなかったし、強くなっていくのは楽しかった。同年代の家庭とはだいぶ隔たりがあるのはわかっていた。けれども、自分にとっては当たり前で、ずっと続くと思っていた世界で、今となってはあの暮らしこそが夢だったのではないかと思う。
 ふと顔を上げる。跳ね上げ式の明かり窓の向こうに木々の緑が見える。枝が揺れ、小屋の中を風が吹き抜けていく。
 ——たぶん。
 あの世界は、ここと同じだ。ちょっとした問題は起きても、生活そのものが変わることはない。繁華街とはさほども離れていないはずなのに、あそこは異なる時間の流れ方をしていて、皆マイペースだった。
 だからこんなにも、思い出してしまうのだろう。
「……籠、こんなモンでいいか」
「ああ、上出来だ。仕上げは俺がやるから、このままにしておいてくれ」
「わあった。そんなら、残りも同じでいいか?」
「ああ」
「あと三、四……六個だな」
「助かる。それじゃあ、俺は俺で仕事をさせてもらうかな」
 男は部屋の隅から箱を持ってくる。中から小さな容器と紙に包まれた数個の物体を取り出し、広げ始めた。木の器と塗り物の道具のようだった。
 竜馬が不思議そうに見ていると、男が手にしたものを差し出した。
「漆だ」
 容器の口に被せてある和紙を剥がすと、どろりとした液体が入っていた。それよりも、何か書かれている紙のほうが目を引いた。
「これか?」
 ひらりと手を返して、文字を見せる。
「うわ、何だそれ」
 漢字が整然と並んでいる。まったく読めない。
「何かのまじないか?」
「古い本の切れ端だ」
「本?」
「漆が乾かないようにするにはこういう紙が一番いい。ただ真新しいものは高くてな。だから大きな集落に行ったときは役人から古いものを束で買い取っている」
「へえ」
「火種にもなるし、揉めば柔らかくなるから、あれば何かと役に立つ」
「読んでみりゃ面白えモンもあンのかよ。……ってか、読めンのか?」
「だいたいはな。……そうだな」
 男は椀を包んでいた紙に目を走らせる。
「これ」
「?」
「役人の封禄が書かれている」
「ほーろく?」
「俸給——勤めに応じて役所からもらえる手当てだ」
「ああ、給料か!」
 見せてもらう。名前と役職、俸給の内訳がずらずらと続いていた。
「この赤で書かれてンのは?」
「これは……不始末を起こして手当てを減らされたという記録だな」
「うっわ。ンなの、人に見られたくねえな」
「確かに」
 顔を見合わせて一秒ののち、同時に笑った。
「それじゃ、邪魔しちゃ悪ぃからな。俺は籠編みに戻るぜ」
「ああ」
 そうして、初夏の気配を感じながら時間が過ぎていった。
 最後の籠に取りかかった頃。
「っ……」
 びりっと右手の先に感じ、手を離す。
「どうした?」
 すぐに男が寄ってきた。
「あ、いや、何か刺さった感じがしてよ」
「見せてみろ」
「あ——」
 返事を待たず、男は竜馬の手を取る。
「ここか」
 人差し指の側面に血の玉ができていた。
「すまない。節は全部削いだと思っていたんだが」
「こんぐれえ、別に何ともな——」
 指が男の口元に持っていかれる。
「え、あ」
 唇につく寸前で慌てて手を引く。
「だ、大丈夫だ。何ともねえ」
 自分で吸う。
「ンなの、ケガのうちに入ンねえ」
 鼓動が騒がしい。悟られないようにさりげなく目線を外す。
 男がじっとこちらを見ているのがわかる。思わず力が入り、唇の隙間から空気が入って間抜けな音が鳴った。
「……もし深いようなら、血止め草があるから言ってくれ」
 遠慮がちに残し、男が離れる。
 押しの強い男でなくて助かる。竜馬は目を合わせないまま、こくりと頷いた。

 

 

「……そういや、風呂ってねえのか」
 竜馬は改めて小屋の中を見回す。外にもそれらしい離れはなかった。こんな山の中で井戸もなければ当然だろう。入浴できるだけの水を汲むのも、薪を用意するのも大変だ。山籠りのときは川で水浴びをしたほかはドラム缶を湯舟代わりにしていた。これも稽古のうちと言われ、ひたすらバケツで水を運んでは薪を割ったなと思い出す。
 原始的な暮らしに近づくほど生きていくのが最優先で、快適さは二の次になる。風呂を沸かすくらいなら、食糧の確保に労力を割くほうが建設的だった。
「……何から何までひとりですンのは、大変だよな」
「だが、そういうものだ」
 こともなげに男は答える。
「なるようになるし、慣れる」
「まあ、人間ってそういうとこあっけどな」
「そういうことだ。湯なら沸かせるし、雪がよほど降らなければ川に汲みに出られる。身体は汗と泥汚れが拭えれば問題ない」
「ああ、そっか——ん、待てよ」
 不意に竜馬の視線が上を向く。
「……ン、いけるな」
 ひとり頷いて、不思議な顔をしている男に向き直った。
「なあ、まだ暗くなンねえよな」
「……ああ」
「おしっ、ならちっとつきあえ」
 勢いよく立ち上がると、右手の人差し指で誘った。

 

「っかしいなぁ」
 竜馬はしきりに首をひねる。
「いい考えだと思ったンだけどな」
 どっかと腰を下ろし、大きな息をついた。
「温泉作りゃいいだろうが」
 そう言って意気揚々と石を寄せ始めた。外郭はすぐにそれらしいのができた。だがそこからが大変だった。
 深く掘ろうにも、砂利をさらった端から周囲が崩れ落ちて穴が埋まる。幾度繰り返しても同じだった。幅自体は少しずつ広がるが、一定の深さ以上、掘れないのだ。
「これじゃ無理だな」
 鍬やら鋤やら持ってきてもらっていたが、人が使える道具の限界だった。
「しゃあねえ、足湯にでもすっか」
 溜息のあとでブーツを脱ぎ捨てた。
「おっ」足先をつけると途端に顔が明るくなる。
「なかなかよさそうだぜ」
 笑い、パイロットスーツの裾を膝までめくり上げた。そのまま両足を突っ込む。
「おお」
 足を揺らして感触を楽しむ。体力自体はまだ余っていたが、組み手とも違う身体の使い方をしたものだから少しだけ疲労感があった。それが一気に抜けていく。
 男も倣う。
「気持ちいいな」
 竜馬の隣に腰を下ろす。並んで川面を見つめる格好になった。
「露天風呂でも作れたらよかったンだけどな」
 手足を伸ばせる風呂は最高だ。景色がよければもっと。
 子供の頃、時折連れていってもらえる銭湯が好きだった。家の風呂と違って広くて、賑やかで、楽しい。冬は脱衣場が暖かくて、毎日でも行きたいくらいだった。
 何より好きだったのは、稽古が特に上手くできたときに買ってもらえるコーヒー牛乳だった。味はもちろん、そこでしか手に入らない特別感が嬉しかった。研究所には大浴場がある。殺風景だったがタイル張りと広さのせいか、初めて入ったときは妙に懐かしい感じがしたのを覚えている。売店に瓶入りのコーヒー牛乳があったから、湯上がりに買ったのだった。
 そういえば最近は炭酸飲料ばかりだった。戻ったら買ってみようか。
 ——そうだ。……戻ったら。
 いつまでも、夢の世界にはいられない。
「……ショベルカーでもありゃあな」
 きっと思い通りにできた。
「しょべるかあ?」
「ああ。周りが崩れてくる前にガボっと一気に砂を浚っちまえば楽にできると思うンだよな。それか、崩れてこねえように柵でも作って覆ってから浚うとかよ」
 身体を動かすのは億劫ではないが、これはお手上げだった。
「そんなに湯に浸かりたかったのか」
 男が笑う——嫌みやあきれからではなく、拗ねる子供を見守るように、優しく。
「ん……、っつうか、俺が入りてえってのもまああるけどよ、世話ンなった礼にとでも思って」
「その『しょべるかあ』という道具はないが、朝からふたりがかりでやれば日暮れまでにはできると思うぞ」
「あー……、そうかもしンねえけどよ。……明日、出ていくわ」
 男の笑みから感情が抜け、張りついたようになる。竜馬は気づかない。
「ここで落ち着いててもしゃあねえからな、そろそろ行こうかと思ってる」
「…………そうか」
「悪ぃけど、今日もうひと晩、泊めてくれよ」
「……ああ、構わない」
「おう、あンがとな」
 ただじっと水面を見つめる。こぽこぽと小さな空気の泡が絶えず浮き上がってくる。泡は空気に触れると波紋だけを残して、一瞬のうちに消えていった。
「…………」
 ゆらゆらと揺れる。
 竜馬は足でゆっくりとかき混ぜて、惑うような水面を壊していく。
 ——今日が最後だ。
 言い聞かせる。
 もう日も傾き始めている。
 ふと左足の先が男の肌に触れた。
「——」
 何でもないふうを装って、足を引く。
 水音と木々の葉ずれの音、その中に寝床に帰るのだろうか、鴉の鳴き声が混じる。
 男は黙している。
 揺らめく視界に映る足先も、少し視線をずらせばわかる膝頭も手の先も、まさしく隼人のものだった。
 ——何もそこまでそっくりじゃなくてもいいだろ。
 こんなのは、誰に文句を言えばいいのだろうか。
 隼人の顔と声。それだけではなく、髪型も体格も。
 ——何だよ。
 必死に抑えるが、どうしても盗み見てしまう。
 耳の形、額から顎にかけてのライン、首筋。着物から覗く鎖骨、胸筋、前腕のたくましさ。
 ——ああ、くそっ。
 目を瞑って顔を背けた。
「リョウマ?」
「——何でも、ねえ」
 毎夜のごとく情を交わしていると、触れられない日が不自然に思えてきてしまう。いつからか、吐息と体温で存在を確かめるようになった。今日も隼人はここにいる、と安心する反面、どこまでものめり込んでいきそうな自分を感じてほんの少しだけ不安を抱えていた。
 隼人の傍にいることが、当たり前になってしまうのが怖かった。
 現に今、隼人の面影を追ってしまっている。一宿一飯の礼は十分したはずだ。それなのに、さっさと出立もせずにこの男のために時間を使っている。
 ——何のために?
「…………」
 隼人の、笑った顔がもっと見たかった。

 こうなることを恐れていたのに。

 ——違う。

 寄りかかってなんかいねえ。
 そう言い聞かせる。
 目覚めてから人っ子ひとり会わなかった。だから。
 都合がいいと思った。だから。
 ——けど。
「……」
 ——やめよう。
 小さく頭を振って降り積もった考えを追い払う。ふう、と息を吐いて意識を外へ切り替えた。
「少し熱くなってきたな」
 男の顔は見ない。
「ちっと水、足すわ」
 堰ににじり寄り、ひとつふたつ石を取り崩す——と、清流が一気に流れ込んできた。甲にひんやりとした水が触れる。
「あ、やべ」
 慌てて元に戻そうとすると手があたり、余計にカラカラと崩れ出した。
「くそっ」
 あっという間に湯がぬるくなる。
「あー、やっちまった」
 はあ、と溜息をつき、天を仰いだ。すると、ぱちゃん、と何かが水音を立てた。
「リョウマ」
 男の声で水面に目を向ける。影がくねっているのが見えた。
「——おい、晩飯がやって来やがったぜ」
 今度は竜馬の声が明るく跳ねた。魚は素早く方向転換しながら逃げていく。
「そっち行ったぞ」
「リョウマ、あそこに」
 男が目線で淵の端を指す。幅が狭まり、浅くなっている場所があった。
「おう」
 大の男ふたりが中腰でじりじりと蠢く。魚は徐々に追い詰められていった。
「俺がやる」
 竜馬がすう、と息を吸い、止める。
「おりゃっ!」
 ひゅ、と右手が風を切る。速度を保ったまま水を割り、左肩へ抜く。魚は放物線を描いて石の上に落ちた。
「リョウマ、もう一匹——いや、二匹」
「任せとけ!」
 同じ要領で囲い、弾き上げる。魚は次々と宙を泳いで川原に着地した。
「へへっ、これで焼き魚が食えるぜ」
「そうだな」
 男が楽しげに笑う。竜馬はほんの一瞬だけ見惚れ、すぐに堰を元に戻すために背中を向けた。

 

 

『竜馬』
「……ン」
 呼ばれた気がして、薄目を開ける。身体を動かそうとしたがいつもと勝手が違う。キシ、と乾いた音が身体の下から鳴った。背中も腰も尻も痛い。
 ——マット、こんなに固かったっけ。
 研究所の備品はどれもこれも古臭い。だが、ベッドマットはこんなにも弾力が失われていただろうか。
 ——夢、か……?
 とろとろと眠気が襲ってくる。思考が霞に溶けていく——その寸前。
「竜馬」
 はっきりと呼ばれる。
 ——隼人。
 目を開ける。
 暗闇が飛び込んでくる。
 しかし完全な闇でもない。薄明かりが差し込んでいて、目の前にシルエットが浮き上がった。
 ——あ。
「…………はやと」
 薄暗くても、すぐわかる。見慣れた顔。
「リョウマ」
 ——ああ、やっぱり隼人だ。
 聞き覚えのある響きに目を細める。何だかずいぶんと久しぶりに会った気がする。
 右手を伸ばす。見た目のクールさと違い、しっかりと熱を持った肌が指に触れる。
「隼人……」
「リョウマ」
 唇が下りてきて左の頬にキスをする。
「ン」
 吐息と唇のくすぐったさに逃げると、あたたかい手のひらに顔を包まれた。
「リョウマ」
 唇のすぐ横に口づけられる。はあ、と息が唇をかすめる。
「ん、あぁ……」
 ぞく、と身体を走る感覚に思わず喘いだ。
 ——……気持ちいい。
 隼人のキスは、いつだって欲しい。髪を撫でて、きゅっと抱きしめて欲しい。甘く名前を呼んで、快感を落としていくその指で全部を触って欲しい。
「……はやと」
 両手で頬を包み返す。手のひらが覚えている。頬の曲線と肌の熱さ——。
 目を閉じようとしたときだった。
「——え」
 違和感に総毛立つ。
 ——隼人じゃない。
 心臓が思いきり収縮した。
「——っ」
 男が体重をかけてくる。
「おいッ! てめッ……やめ、ろ……ッ!」
 跳ねのけようとするが、のしかかった身体は意外なほど重く、敵わない。右手で後襟を引っ張るが、袷がずれていくだけで何の役にも立たなかった。
「くっそ! おいッ‼︎」
「リョウマ」
「————ッ⁉︎」
 耳元で低くささやかれる。
「……ッ、や、め……ッ」
 唇が触れる。息がかかる。ゾクゾクとした快感が左耳から全身に広がった。
 ——ちきしょう。
 自分に快感を与えられるのは隼人だけなのに。
「代わりでいい」
「やめっ、しゃ、喋ンな……っ」
「リョウマ」
「っひ、あ……っ」
「その男の代わりでいい。リョウマ、俺はひと目見たときからお前が——」
「や、めろッ‼︎」
 右手で思いきり顎を押し上げる。欲に濡れた瞳が、屋根板の隙間から差し込む月光を受けてぎらりと光った。
「リョ、ウマ」
 鋭い眼光が竜馬を射抜く。背筋を冷たいものが這う。
 ぐ、と体重をかけられる。下半身が密着して、その中心の質量が伝わってきた。
「——ひっ」
 我知らず、喉の奥から零れた。
「やめ、っあ、くそっ……!」
 一瞬、怯んだ隙に指先を舐められ、口に含まれる。全身の力が霧散していきそうだった。
 ——ダメだ。
 ひたすら言い聞かせる。自由を許す相手は、隼人だけだ。
「いい加減……、離れ、ろ……ッ‼︎」
 顎を跳ね上げ、落ちてきた顔に拳を放る。左頬に竜馬の右拳が直撃した。
「がっ……!」
 男が目の前から消える。同時に、全身を覆っていた熱くて粘っこい質量も失せる。代わりに、男が這いずる音と、竜馬の震える呼吸が折り重なった。
「……っふ、ふざけたマネ、しやがっ……て……!」
 蠢く闇に向かって叫ぶ。しかし、思っていたよりもか細い声にしかならなかった。これでは牽制にもならない。
 ——クソっ、何だよ……!
 身体の奥、芯のほうからぞくりと震えが湧き上がってくる。武者震いとは違う。
「……ッ」
 情けなくて、唇をギッと噛みしめる。
「……ッく、ちき、しょう……っ」
 自分を奮い立たせるように吐き出す。
「お、俺に、近づくンじゃ、ねえ……っ!」
 闇が停止する。
「お、おめえは……隼人じゃ、ねえ……っ! アイツの代わりなンて、いねえ……っ」
 心を振り絞る。
「だから、……だからっ、おめえとは寝ねえ……!」
 爪が手のひらに食い込んだ。
 沈黙が続く。
 やがて、のろのろと濃い影が立ち上がった。影はしばらく佇み、それから足を引きずるようにして小屋から出ていった。
 辺りは、完全に竜馬ひとりきりの気配になる。
「……くそっ」
 まだ、感触が消えない。唇も、吐息も、肌の熱さも。
 膝を抱く。
 男を責めたが、自分はどうだ?
 隼人に似ている、と何度も何度も視線を送った。薬を塗ってもらったときも、目が合ったときも、隼人を思い出して、隙を見せた。
 ここにいようと決めたのは自分だ。誘われたからではない。
「……最低なのは俺か」
 視線を床に落とす。
 自分の弱さが招いたことだ。
「くそ……」
 隼人と出会う前、自分はもっと強かったはずだ。誰の存在も気にせず生きていられた。それが今はどうだ。
 たったひとりの面影を探して、惑って、狂わされている。
 ——隼人。
 それでも、思わずにはいられない。
 どこにいるのだろうか。
 同じ状況なら、たぶん大きな怪我は負っていない。いろいろと知識のある男なのだから、この事態を的確に把握して必要なことを考えているだろう。無事に違いない。
「……」
 そうして。
 苦しげに息を吐き出す。
 竜馬と同じように、はぐれてしまった恋人のことを考えてくれているだろうか。眠るときに、隣にいない自分のことを思ってくれているだろうか。
「…………隼人」
 隼人に会いたい。
 今すぐ、会いたい。
「……っ」
 身体の奥にまだ震えが残っていた。身を守るように両肩を抱く。あれが隼人の指ならば、どんなによかっただろうか。自分の名前を熱っぽく呼んだあの唇が、隼人のものだったらどんなによかっただろうか。
 ——隼人。

 今、どこにいるのだろうか。

   †   †   †

 鳥のさえずりが聞こえる。それと、足音も。明るく跳ねるような鳥の歌とは違い、男の歩みは物憂げな重さだった。
「どこ行ってやがった」
 引き戸が開くと同時に投げつける。男は驚愕の色を浮かべて竜馬を凝視した。
「……もう、いないかと」
 声にはわずかに喜色が滲んだ。
「さすがに黙って出てくワケにもいかねえからな」
 竜馬はぶっきらぼうに返す。食事も寝床も、世話になった事実は変わらない。助かった。その礼だけは告げて発とうと思っていた。
「つうか、おめえ」
 男の左頬は腫れ上がっていた。
「そのツラ、色男が台無——」
 反射的にからかおうとして、すぐに口をつぐむ。
「……台無しにしたのは俺か」
 ふう、と溜息をついて頭をかいた。着物の裾から見える手足にも新しいすり傷と青アザができていた。竜馬に殴り飛ばされたときにできたのだろう。
「けど、謝らねえぞ。そうさせたのはおめえだかンな」
 自分だって、隼人と間違えて煽るように触れてしまった。そこからは目を背け、竜馬はちくりと男を責めた。
「ああ。……すまなかった」
 男が土間に膝をつく。
「——なっ」
「リョウマ、悪かった」
「おいっ、やめろ」
 竜馬が立ち上がる。二歩踏み出してから、さらに近づこうか逡巡する。その間に男の額は地についていた。
「てめ……っ、やめねえか!」
 土間に飛び降り、着物の襟を引っ掴む。
「やめろって言ってンだ」
 力を込めると、最初は抵抗があったものの、すぐに男が従い上体を起こした。
 男の視線が続きを乞うように、まっすぐ竜馬に向けられる。竜馬は咄嗟には受けとめられず、手を離して後退った。
「……立てよ」
 男が無言で従う。隼人とそうであるように、男との身長差が生まれる。手を伸ばせばまだ触れられる危うい距離に、竜馬がまた一歩、後ろに下がった。
「もう、いい」
「……ああ」
 黙ったふたりの間を、鳥の鳴き声が流れていった。
 やがて、
「……見せたいものがある」
 男が板間に上がる。奥に向かい、籠が積まれた一角にしゃがみ込むと、何やらごそごそとやって戻ってきた。
「これを」
 折り畳まれた和紙を差し出した。
「あン?」
 広げると文字がびっしりと並んでいた。昨日の比ではない。竜馬が顔をしかめる。
「全っ然読めねえ」
 横にしても逆さにしても読めないものは読めない。竜馬が男を睨む。
「ここ」
「ん、……ん?」
「赤い鬼について書かれている」
「赤い鬼ぃ?」
 男の指先を辿ると、「人」「鬼」「赤」と、竜馬にもわかる漢字があった。
「いつ頃の話かはわからないが、羅城門よりも大きな赤い鬼が淡海あわうみから現れて、都の向こう、大枝おおえの辺りに飛び去ったとある」
「あ、あわうみ?」
水海みずうみだ。潮海しおうみと違って塩辛くない」
「みずうみって——琵琶湖か」
 渦に揉まれながら、隼人が確かそう言っていた。
「お前の国じゃそう呼ぶのか」
 男の眼差しがふと和らいで、また紙面に戻る。
「赤い鬼はすぐに姿を隠した。だがその鬼と入れ替わるように人を喰う鬼が里に出るようになった、と」
「……人を喰う、鬼」
「噛まれた者はやがて鬼になる、ともある」
「……」
「あくまでも古い言い伝えだ。これはそんな奇異話ばかりまとめた文書の一部だ」
「これも、役人から買ったってヤツか」
「ああ」
 竜馬は目を進める。ぽつぽつとわかる文字はあったが、どうやっても文章としては読めなかった。
「……すまない」
 微かに聞こえた。
 男をちらと見る。
 もう一度、男の口から今度ははっきりと「すまない」と聞こえた。
「何が」
「お前と会ったとき……、二度も『鬼』と言っただろう? すぐにこの話を思い浮かべた。だが、黙っていた」
「え」
「そのほうが、少しでも一緒にいられると思った」
「何でそんな——」
 訊ねようとしてやめる。
「じゃあ、俺のパイロットスーツ盗ンだのも」
 売るためでも、ましてや自分のものにするためでもなく。
 昨夜の告白がすべてだった。
 男が目を閉じる。自らを落ち着かせるように深く呼吸をし、睫毛を上げた。
「……昨日の川に沿って下って行けば、明日には淡海の近くに出られる。途中に廃寺や祠が二、三あるから、夜露はしのげるだろう。大きな街道に出たら、左に進めばやがて都に着く。もし大枝に行くつもりなら都の向こう側だ。それから」
 小さな布包みを差し出した。端が長く、身体に巻きつけられるようにしてある。
「この中に少し、食い物が入っている」
 竜馬は男と包みを見比べた。表情を崩さないようにしてはいるが、つらそうに見えた。左頬の腫れと相まって痛々しい。
「……けど、今教えてくれたじゃねえか」
 受け取ったときと同じになるように、紙を折り畳む。それを男に戻し、笑う。
「何にもねえ山ン中だったから、ほんと助かったぜ」
 本心からだった。隠していたことを責めるつもりはない。
「あンがとな」
 男の目が見開かれ、今度ははっきりと歪んだ。
「じゃ、とりあえずそっち行ってみるわ。これも、ありがたくもらっておく」
 隼人と同じ顔が苦しむさまは見たくない。包みを受け取り腰に巻きつけると、間を置かず踵を返した。
「……リョウマ!」
 同じ声が呼びとめる。違うとわかっていても、足が止まってしまった。
「リョウマ」
 すぐ後ろに迫る。
 ——早く、行こうぜ。
 自分に言い聞かせる。
「リョウマ」
 右手を掴まれる。強い力ではない。
 ——振り解けよ。
「……」
 できなかった。
「もし」男が軽く手を引く。
「探し物が見つからなかったら……その男と会えなかったら」
 きゅっと握られる。
「戻って来てくれないか」
 ——え?
「一緒に住もう」
 思わず振り向く。
「ここで俺と、一緒に暮らそう」
「……一緒に…………暮らす?」
「ああ」
 目が合う。
「もしここが気に入らなければ、ほかへ移っても構わない。お前が落ち着けるところに住もう」
 射抜かれたように身動きができない。竜馬はまばたきもせず男をただ見つめた。
『俺と同じ顔なんだろう? 同じ声なんだろう?』
 眼差しはそう言っている。
『俺じゃ駄目なのか』と。
「……な、に……バカな……こと」
 虚をつかれ、まともに頭が働かなくなる。
「俺がお前のハヤトになる。だから、リョウマ」
 右手をもっと強く握られた。
「俺の傍にいてくれ」

 ——隼人・・と、暮らす?

 呆けたように口を開け、立ち尽くす。

 ——隼人と、俺が?

 いつも今だけを見ていた。未来に目を向けたことなどなかった。
 ——もし。
 鬼を殲滅できたら。
 ゲッターロボに乗る必要がなくなる。そうすれば、自分は研究所を出て、新宿に戻るのだろうか。あの道場に戻れるのだろうか。
 隼人は——。
 あれほどゲッター線に入れ揚げているのだから、研究所に残る道もあるだろう。あの頭脳なら早乙女博士のほうが引き留めるかもしれない。そうなれば普段は離れて暮らして、月に一度か二度、会う形になるのか。それとも、通信手段さえ確立できるのなら東京で同棲する選択肢もあるのか。
 ——あの隼人と? もしかして……俺の家で?
 古い家だ。あちこち直さなければ、雨漏りもするし隙間風も入ってくる。何より、借金がある。
 いや、これだけ働いたのだから、借金を返済できる分の褒美はもらってもいいはずだ。どうしても無理なら、隼人に株でも何でも合法で稼げる方法を考えてもらって、それで綺麗さっぱり金回りを片付けて——。
 待て、と心の中で突っ込む。隼人のことだからパソコンを何台も持ち込むに決まっている。道場を研究所のようにされては困る。協会に属していなくても道場は開けるし、まだそのつもりはある。なら、隼人は近くに部屋を借りることになるのだろうか。テロリストという過去は、政府の要人と繋がっている早乙女博士の一声でどうとでもなるはずだ。
「…………」
 そうなれば、きっと竜馬のほうが入り浸るだろう。細々とでもいい、道場を続けて、生活費はどうしたって足りないだろうから別口で稼げばいい。体力なら有り余っている。仕事が終わったら隼人の部屋に行って、一緒にご飯を食べて、同じベッドで眠る。
 ——……アイツの徹夜グセ、少しはマシになンのかな。
 食事の支度が面倒なときはいつもの店でカウンターに並んでラーメンでも啜って、たまには散歩がてらデートをして。
 そういう未来もあるのだろうか。
 ずっと互いを見つめて生きる——闘いのない世界で。
 きっと、とても倖せだろう。

 ——けど。

 たぶん、求めているものではないように思う。それに、願っても手に入らないような気がする。
 現実味がないというだけではなく、予感がする。
 そんな穏やかな生活を望んで、叶えて、受け入れられるのは弁慶だけのような気がする。自分と隼人は——自分たちだってまったく同じというわけではないが——普通・・には生きられない。
「リョウマ」
 抱きしめられる。
「——ぁ」
「……リョウマ、俺を選んでくれ」
 隼人と同じ見た目だが、異なる匂いが竜馬を包む。

 ——違う。

 誰も、隼人の代わりにはなれない。
「放してくれよ」
 静かに、だがはっきりと言葉にする。男の身体が怯むように震えた。
「顔も声もおんなじだけど、おめえは隼人じゃねえ」
 ——そうだ。
「俺はアイツが——隼人が好きなンだ」
 きゅっと拳を握る。誰にも、何にも譲れない思い。
「それに」
 目蓋を閉じれば隼人の顔が浮かぶ。記憶の中でも無愛想だ。それでも眼差しの奥には愛情を感じるし、ふとしたときに見せるささやかな笑顔は、だからこそ特別だった。
「アイツは俺のモンでもねえし……俺もアイツのモンじゃねえ」
 男の身体がゆっくりと離れる。その手はまだ、名残りを惜しむように肩に触れていた。竜馬は見上げ——名前も知らない男と間近で向き合う。腫れた頬が痛々しかった。
「謝ンねえって言ったけど、俺がここに来なきゃよかったンだよな。来ても、すぐ出て行きゃあよかったンだよな」
 この男が悪いのではない。すべては己のせいだ。自分が迷っていたから。
「悪かった」
 きっと、傷つけた。だから真正面からこう言うしかなかった。
「…………リョウマ」
「人に好かれンのは、悪ぃ気はしねえ。本当は減るモンでもねえし、詫びにキスのひとつくれえしてやりゃあいいンだろうけど、隼人のために取っときてえ。……あ、もし隼人にばったり会ってもよ、今のは内緒にしといてくれよ——恥ずかしいかンな」
 明るく、道化めかして笑う。それから男の手をそっと引き剥がした。爪の形も、指の長さも本当によく似ている。だがその手にある細かい傷は、隼人のものとは違った。
「……」

 ——いつか。

 いつか、隼人の手をこんなふうに離す日が来なければいい。
 けれども、そのときが来たら迷ってはいけない——すぐに一歩を踏み出せなかった自分は、もう終いにしなければいけない。
 指から、あたたかさが消えていく。ふたりの間にはもう、越えられない隔たりができていた。
 男は何も言わない。動かない。
 時間が結末に向かって流れていく。
「あ——そうだ」
 その中で突如、竜馬が口を開いた。
「あのよ、この世の中にゃ、自分とそっくりの人間がどっかにいるらしいぜ」
「……?」
 男が不思議そうに竜馬を見る。
「近所の床屋に、よくダベってるオッサンがいてな」
 竜馬の目が細められる。
 髪を切るでもなく顔剃りするでもなくそこにいて、主人の手が空くと茶を飲みながら将棋を指し合っていた。どこに住んでいるのか、床屋の主人に訊ねても「さあ、昔からフラフラしてるからね」と教えてもらえなかった。もしかしたら彼も本当に知らなかったのかもしれない。見ないときは一年でも二年でも見なかった。ふいにやって来ては、ひと月ふた月、長ければ半年ほども床屋に入り浸るのだ。
「やたらいろんな話を知っててよ、それが妙に面白れえンだわ。そのオッサンがよ、言うンだ。生き別れの兄弟姉妹でもねえし親戚ってワケでもねえ。けど、自分に瓜二つの人間がどっかにいるンだ、って」
 姿かたちだけではなく、声も眼差しも、心の動き方も。
「話半分に聞いてたンだけどよ、現におめえがいるンだから、ホントなンだろな。……そんならきっと、俺とそっくりなヤツもいると思うぜ。ソイツ探しなよ」
 男の首がわずかに傾いだ。そして、
「俺とそっくりだったらたぶん——いや、絶対、おめえのこと好きになるぜ」
 竜馬の言葉に目を見張った。
「……そのツラ
 思わず吹き出す。隼人の呆けた顔は何だか面白くて、少しだけ可愛らしく感じて、それから裏をかいてやったといい気分になる。
 ——懐かしいな。
「好きだ」と告げたとき、まるっきり同じ顔をしていた。再会したら、言ってやろう。今度はどんな表情を見せてくれるのだろうか。

 ——会いたい。

「俺、運命って言葉、あんまり好きじゃねえンだけどな。……こういうときは使いたくなる」
 胸の奥が隼人を求めてさざめいている。早く会いたかった。
「俺の相手はアンタじゃない」
 リョウマ、と男の声が聞こえた気がした。だが、それは隼人の声ではない。もう竜馬を繫ぎ留めることはできない。
 竜馬は男を正視した。
「じゃあな」
 今度こそ訣別の眼差しで告げて、背中を向けた。

 後ろ手で戸口を閉める。一歩二歩、足音が追いかけてきて止まった。
 まだ、引き戸越しに男の気配と視線を感じる。けれどもそれだけだった。
 竜馬はそっと戸口にもたれる。
 視線の先には新緑の木々と青空が広がっていた。今日一日、きっと天気がいいだろう。
 少しの時間、風を受ける。

 やがて。

「——うしっ!」
 思い切り両手で頬を叩き、気合いを入れる。
「いっちょ鬼退治に行ってくらあ!」
 威勢よく声を張り上げて、竜馬は大股で歩き出した。