続・「ひと口だけ」にはご用心

新ゲ隼竜

先月公開した『「ひと口だけにはご用心」』の続きです。
隼(自覚あり)⇄竜(無自覚)。つきあってません。
借りを作りっぱなしは嫌なのでメロンパンを買って隼人の部屋に乗り込む竜馬。パンを丸ごと渡して一件落着と思いきや、隼人には「『ひと口、貸しだ』と言った」と返され、やむなくひと口分を「あーん」ごと返す羽目となります。いつもと雰囲気が違う隼人と接しているうちに自分は隼人のことが好きなんだな、と自覚する竜馬のお話。約5,000文字。
・隼人がちょっと強引。竜馬の指先ごと口に含み、舐める描写があります。
・「トイチ」という単語が出てきますが、闇金が高金利でお金を貸すことの俗語です。
・前作の翌日のお話。
・キスの描写はありませんが、このあと確実にキスする。ハピエン確定エンド。

◆◆◆

 何が貸し・・だ。
 竜馬の唇がグイッと歪む。大勢の前で、しかも弁慶までいたのに、あんな間抜けな姿をさらしてしまった。
 ——冗談じゃねえ。
 やられっぱなしでたまるか——思い返すだけで全身がカッと火照る。沸き立った羞恥と腹立たしさは闘争心に変換される。竜馬は衝動に逆らうことなく大股で通路を突き進んでいった。
「隼人ぉ‼︎」
 扉が開くと同時に、道場破りさながらの勢いで怒鳴る。だが隼人はデスクについたまま。まったく動じない後ろ姿がまた竜馬をカチンとさせた。
「てめえ! 聞いてンのか!」
 ああ、と小さく返ってくる。けれども振り向きはしない。
「クソッ」
 竜馬が顔をしかめる。鼻の頭にシワが寄り、白い歯が悔しそうに噛み締められた。
「てめえ、人が話しかけてンだからこっち向けよ」
 ズカズカと近づき、肩を掴む——寸前でデスクチェアが回転し、隼人が振り向いた。
「……っ」
 竜馬はほんの一瞬、怯む。昨日、目の前で不躾に笑った顔が自分を見つめている。その口元に目が行き、反射的に右手を引っ込めた。
「何か用か」
 隼人が薄ら笑いを浮かべる。用があるから訪ねてきたのだ。それなのにわざと訊いてくる嫌らしさ。竜馬の表情は完全に不機嫌で塗り潰された。チッと舌打ちをし、左手に持っていた物体を放り投げる。
「おらよ」
 物体は隼人の膝の上に着地して、ぽすんと軽い音を立てた。
「それでいいだろ」
「……」
 隼人はしばし眺めてから、その袋を手に取る。裏返すと、製造日や販売元が記載されたシールが貼られていた。間違いなく、早乙女研究所の売店で売られているメロンパンだった。
「ちゃんと返したからな。これで貸し借りナシだ」
 シールを確認するには十分な間を置いて、竜馬は踵を返す。しかし三歩進んだところで、
「何の真似だ」
 そう問われ、足が止まった。
「はあ⁉︎」
 思わず大声をあげ、振り向く。
「何の真似って……てめえが自分で言ったンだろ、『貸しだ』って。コンピューターばかり見過ぎてイカれちまったのかよ? あ、つうか元からイカれてたか」
 ここぞとばかりに嫌みを贈る。だが隼人はムッとするどころかニヤリと笑った。狡猾そうな顔つきに、竜馬のほうが苛立って足を踏み出す。
「あぁン? てめえ——」
 ぎろりと睨みつけたが、何の効果もない。
「俺は、『ひと口』と言った」
 目の前で、切れ長の目がさらに細くなる。
「『ひと口、貸しだ』と」
「は……?」
 メロンパンの袋が放られ、竜馬の元に戻ってくる。
「『ひと口』——だ」
 クッと隼人の喉が鳴った。
「な……」
 その意味がわかった途端、竜馬の顔は再び不機嫌極まりないものになった。

「おらよ」
 竜馬が近づき、ヤケクソ気味に右手を投げ出す。隼人が椅子から立ち上がろうとしないのだから、こうするしかなかった。長い前髪の隙間から上目遣いが見える。
「……あンだよ」
 相変わらず底意地が悪そうに笑いやがって、と胸の中で悪態をつき、
 ——いや、「悪そう」じゃなくて、「悪い」だ。
 わざわざ言い直す。そうでもしないと収まらない。今すぐこの場を逃げ出したかった。
 もちろん、逃げるのが一番癪だったからこんな状況になっているのだが。
 隼人の唇が開く。立っている竜馬からは口元が覗き込める。赤くて柔らかそうな下唇の粘膜が見えた。
「……っ」
 竜馬の身体が強張る。昨日と同じだ。鬼との闘いでも緊張しないのに、まったくもって腹立たしい。おかげでずっと、気持ちが落ち着かない。
 催促するように隼人の顎がクイ、と上がる。竜馬は悔しそうに——少しだけ泣きそうに見える角度で——目元を歪め、声を振り絞った。
「あ、あー……ん」
 ——クソッ。
 猛烈な羞恥心が襲ってくる。首元から熱が上がってくる。きっと真っ赤になっているだろう。ひとつだけ幸いなのが、ここが隼人の部屋だということだ。食堂とは異なり衆人の目がない。パッと面倒事を片付けて部屋を出れば済む。あとは忘れるだけだ。
 ——さ、さっさと食いやがれ……!
 ひと口大に千切ったメロンパンを差し出し、待つ。隼人が満足そうに笑った。
「あーん」
 昨日と同じ、低い声。
「……ッ」
 耳にまとわりつくような隼人の声に、ぞく、と小さな震えが起きる。
 ——まただ。
 確かに隼人の声なのに、違う。普段ならそんなことはないのに、どうしてか、身体と頭の動きが鈍くなる。嫌な気持ちではない。わけのわからないモノに触れている頼りなさと、もう少し近づいてみたい好奇心が混じり合った心持ちだった。
 隼人の顔がゆっくりと寄ってくる。もったいぶって見えて、じれったい。
「……ぁ」
 メロンパンを持つ指先が微かに震えていた。気づいた隼人が、また上目遣いで笑った。
 ——あ。
 笑んだ口が大きく開かれる。瞬間、濡れた舌が目に入った。
 どく、と心臓の音が大きくなった。平衡感覚がおかしくなって、身体が浮いた気がした。驚きに手がぶれ、メロンパンをつまんだまま引き戻しそうになる。その手首を隼人が掴んだ。
「えっ、あ」
 パンが落ちる——そう思ったが、指先が強張って離れなかった。隼人はメロンパンを竜馬の指先ごと口に含む。
「い゛ッ⁉︎」
 妙な感触に竜馬の肩が跳ねる。隼人の意地悪い目が、愉快そうに細められた。
「————ッ⁉︎」
 指の先を何かが這っている。生ぬるい、いや、熱い何か。右手を引っ張る。だが隼人に掴まれ、びくともしない。その熱い何かは三本のすぼまった指先をこじ開けようと、隼人のやはり熱い口腔内でうねうねと動いた。
「あ——、あ」
 指先に感じる熱が頭の中にまで届く。
 何をされているのか、考えたくない。認識してしまえば、その先がどうなるのか絶対に気になってしまう。たぶんきっと、知らないほうがいい。けれども、このままだと引きずり込まれてしまう。
 竜馬は石化してしまったかのような指先に集中し、やっとのことでメロンパンを離した。くねる何かがパンをさらっていく。それでようやく、隼人の口元から解放された。指先が空気に触れてひやりとする。
 ——お、終わった……!
 竜馬は隼人の喉元に視線を移す。咀嚼が終わり、あそこが上下すれば借り・・はチャラだ。もうこの際、指先を弄ばれたのは目を瞑るとしよう。
 息を詰めて喉仏を注視する。一秒、二秒。そして、こくりと動く。
「……は、ぁ」
 思わず溜息が出た。張り詰めた空気が一気に抜けていくような脱力感に襲われる。苛立ちも腹立たしさも、あんなに感じていた羞恥心もすっかり消えてしまっていた。今はとにかく部屋に戻ってベッドに寝転がりたかった。
 気怠さに包まれて右手を引く。
 抵抗があった。
「——あン?」
 手首が掴まれたままだった。
「もう終わったろ」
 引っ張る。だが状況は変わらない。
「隼人」
 収まったはずの苛立ちが現れる。
「『ひと口』返したろ。放せよ」
 これまでよりも強く右腕を引くが、隼人はそれ以上の力で引き留めてきた。
「な、てめえ!」
「まだだ」
「は⁉︎」
「まだ、済んでいない」
「何言ってやがる! たった今食ったろ! おめえ自分でひと口だって言ったじゃねえか!」
「利息がまだだ」
「利息ぅ⁉︎ おめえマジで何言って——」
 赤い舌の先が見えた。
 息を呑む間もなかった。
 指先をぺろりと舐められる。
「はっ? えっ」
 口に含まれ、そっと吸われる。
「な、なにして、あ」
 人差し指、中指、それから、親指。隼人は肌に残ったざらめを探るように丹念に舐めて、吸う。
「あ、あ……ば、ばっきゃ、ろ……」
 思い切り振り払いたいのに、できない。隼人の舌に溶かされ、絡め取られていく。
 ——な、なん、だ、これ……。
 触れている場所から、ちゅ、と小さな音が聞こえた。
 ——う、わ。
 隼人がキスをしている。それも、自分の手に。
 唇の柔らかさ、舌先の感触、粘膜の生々しい熱さ——認識した途端、全身にぞくりとした感覚が走った。身体の表面だけではなく、内側までもくまなくなぞられていく。どこか、闘いの前の昂りと似ている気がした。
 けれども、そのものではない。もっと衝動的で、本能を揺さぶるような気配がした。
 気づけば、心臓がバクバクと激しく動いていた。
「ひゃ……ッ⁉︎」
 隼人の指先が手首の内側を撫でて、ゆっくりと這い上がってくる。
「っン!」
 薄い皮膚をくすぐられ、反射的にびくりと肩が上がる。全身がまた、ざわりとした感覚に覆われる。
 こんなふうに誰かに触れられたことはなかった。初めてだった。それなのに、わかる。これは快感の予兆だ。
「ン……」
 目の前の、嘘のような光景。
 隼人が何を考えているのか読めない。ただ——。
 手の甲に口づけられる。唇に視線が引きつけられる。
 竜馬の口の中に、昨日のメロンパンの味がよみがえってきた。あの唇も舌も、ざらめと同じに甘い味がするのだろうか。
 さらに鼓動が高鳴る。は、と吐息が零れた。隼人が目線を上げる。
「————」
 見慣れた底意地の悪い笑顔があると思っていた。しかし隼人の目はいつになく真剣で、まっすぐに竜馬の瞳に向けられていた。からかいや悪ふざけの様子はなく、むしろ一途な、ある種の熱を含んでいる。
 唇が動く。
「りょうま」
 低い声が耳元をくすぐった。繰り返し聞きたくなる、不思議な甘さを伴った響きだった。身体が痺れたようになり、奥のほうに熱が灯る。
 ——ああ、俺。
 心が理解する。
 ——こいつのこと、嫌いじゃねえ。
 それどころか、たぶん。
 ひとつの答えが自然に湧いてくる。
「隼人、俺」
 口が勝手に動いていた。
「俺、おめえが——」
 竜馬の声に導かれ、隼人が立ち上がる。竜馬は夢から覚めたように我に返った。
「あ、や、そのっ」
「竜馬」
「……ッ、ち、違っ」
 慌てて目を逸らす。
 飛び込めない。ずっと怖いもの知らずでやってきたのに、これからもそうだと思っていたのに、これ・・は何だか違う。
「違う? 何が」
 隼人が一歩、踏み込んでくる。竜馬は後退あとずさりをぐっとこらえる。
「お、おめえには関係ねえだろっ」
 回らない頭で懸命に文句を探す。
「そっ、そう! 利息だなんて、ふ、ふざけたこと抜かしやがって!」
「貸しには付き物だ」
「そ、それにしたってあんなこと……!」
 言いながら、顔中が熱くなっていくのを自覚する。
あんなこと・・・・・?」
 隼人が繰り返し、竜馬の手の甲にキスをする。竜馬の顔がこれ以上ないほどに真っ赤になった。耳の縁も首筋も赤い。
「う、う、うるせえっ! あれじゃトイチよりタチ悪ぃだろ! そこらの闇金よりよっぽどアコギじゃねえか!」
 叫んで、隼人の手を振りほどく。続けざまに突き飛ばそうとして——再び、その手を取られる。
「は、はな、せ……っ」
「竜馬」
「——ッ」
 竜馬の目が見開かれ、動きが止まる。
 ——こいつ、何で。
 もっと意地悪そうな顔をしていたらいいのに。
 咄嗟にそう思ってしまった。それなら大声で悪態をついて、力いっぱい殴って部屋を出ていくのに、と。
 こんな隼人は見たことがなかった。
 ——これじゃあ、まるで隼人が俺のこと……。
「……竜馬」
 竜馬の言葉の先を待っている声だった。普段のスカした態度も、一方的に指図する言い方も、今はない。いつもの隼人とは違う。
 どう反応していいかわからない。戸惑いに竜馬の瞳が揺れた。
 く、と手を引っ張られる。軽い力だったにもかかわらず、竜馬の身体は簡単に引き寄せられた。そのまま隼人の胸に飛び込む。
「……りょうま」
 柔らかな響きのあとで抱きすくめられる。何が起きているのか把握するより早く、隼人の体温が伝わってきた。全身にじわりと熱が回っていく。
「……あ」
 ほのかに甘い香りに包まれる。
 ——……やっぱり。
 ざらめと同じだ。それならきっと、キスだって甘いはずだ——。
 熱く溶けていく頭の隅で、竜馬はぼんやりとそんなことを思った。