2010年に新ゲのアンソロに参加させて頂いた時の作品です。お寺で修行中の弁慶のお話。
和尚の留守中に「助けて下さい」という手紙を受け取って、ひとりで山奥に出掛けてちょっとした事件に巻き込まれます。
女性のオリキャラひとりと、賑やかしのモブ男性が数名出てきます。
漢字・表現の修正、注釈をなくすために少し文面を手直し、空行の調整などをしました。古風な感じにしたかったので、硬めの表現、修辞モリモリの部分がありますので、ご了承ください。約1万文字ちょい。この時はpixiv以外で外部に向けて作品を出すのは最初で最後だろうなと思ってました。2021年修正。
◆◆◆
一
秋雨の後のぬかるみで時間を食ったが、午後には着くだろう。
弁慶は額の汗を拭い、それにしても、と呟いた。
——こんな山奥に女ひとりでは不便だろうに。
麓の町に出るにも、ひとつ山を越えればという場所ではなかった。ぽつぽつと集落もあるが、そこですべてが賄えるものではない。人里で暮らしたくない理由があるのか、暮らせなくなった訳でもあるのか。
何しろ坊主に助けを求めてくるほどなのだ。よほど、と想像しかけて弁慶は頭を振った。僧は下世話なことは考えず、助けを求められたら、できうる限りを為せばいいのだ。
弁慶はうむ、と頷いて歩みを進めた。
昨日。未明のうちに和尚は山間の集落に向かった。不幸があり、供養を頼まれたのだ。ここは菩提寺ではないが時折そういった依頼がある。麓の寺に遠いと断られたり、埋葬だけなのでせめて念仏を、という人々がいるのだ。
境内の清掃をしていた兄弟子が、山門の外で手紙を見つけた。和尚の戻りは夜更けか明くる日だ。勝手に開けるのは憚られたが、集まった弟子たちは急があっては、と判断して封を切った。
薄紫の和紙を開くと香りが広がった。弁慶が鼻を膨らませる。一瞬、つんとする匂いがしたと思ったが、すぐにほの甘さが流れてきた。
「花の……匂い?」
「これは葛だ」と兄弟子は弁慶の鼻先に手紙を出した。葡萄の香りがする。葛粉は苦いのに、どこを囓れば葡萄の味がするのかと思ったら、弁慶の考えを読んだ兄弟子たちが一斉に笑った。
「花の匂いを移すとは、風流な人はいるもんだな」
言って手紙に視線を落とした。だが、そこには風流とは縁遠い言葉が書かれていた。
『どうか助けて下さい』
大仰な文言に、皆顔を見合わせた。はて、困った手紙を開いてしまった、と焦りが滲む。封筒に戻して和尚を待つか、とも思ったが、見てしまった以上、ずっと気にかけることになる。
「——よし、読もう」
意を決して一番年長の弟子が言った。
送り主は山奥にひとり棲む千代という女であった。最近、山中に闖入者が現れた。それがどうも盗人や騙りの集まりのようで恐ろしい。どうにか追い払ってはくれまいか。女ゆえ、修行寺への立ち入りは憚られるので手紙を置いていく、とあった。
「盗人や騙り、か。坊主は警官ではないんだがなあ」
「お、もう一枚あるぞ。地図だ——また随分と山奥だな」
「ここらの麓は駐在ひとりだからな。……それで」
寺には葬式同様「何とか頼む」という案件が持ち込まれる。特に老人ばかりの集落からは、やれ倒木を片付けてくれ、やれ屋根の修繕を手伝ってくれと——要するに何でも屋である。僧とはいえ、若い男が六人もいれば貴重な戦力なのだ。
しかし盗人紛いを追い払えとなると、さすがに初めてである。
「熊なら追い払ったことがあるけどな」
兄弟子が弁慶をちらりと見やった。弁慶は自分のことだと気づき「でへへ」と照れ笑いをした。
「獣は勝てないとわかると素直だからなあ」
「そうだな。こいつの睨みはお不動様にも閻魔様にも負けていない」
「小細工したり悪知恵が働く分、人間の方が質が悪い」
強面のことでも引き合いにされ、持ち上げられると悪い気はしなかった。そして、弁慶が口を開いた。
「俺が行く。これから出れば、明日の昼前には着くだろう」
その言葉に、兄弟子たちが揃って目を剥いた。危ないから、和尚が戻ってから、と口々に異を唱えるが、弁慶は聞かなかった。
「大丈夫。すべて御仏が導いて下さる」
どしりと胸を叩き、鼻息を吹き出しながら言い放った。
兄弟子たちを危険にはさらせない。新参者が一番働くべきで、また自分はそのための力を持っている。人の倍以上の巨躯、桁外れの剛力は、こういう時にこそ活かすのだ——何かを守るために。
寺に来て、誰かの、何かの役に立ちたいと思うようになっていた。
頼られたら嬉しい。喜ばれたら嬉しい。褒められたら嬉しい。
だから善を為すのではないが、自分の行為が実になれば素直に嬉しい。自分にできることがあればやるだけだと、弁慶は思っていた。
二
質素とは聞こえがいいが、いかにもという茅葺きの住居であった。寺も随分と古いが、ここも負けじと年季が入っている。土壁は崩れかけ、屋根も雨受けの茶碗が必要に見えた。
弁慶はうほん、と咳払いをし「御免」と声をかけた。
返事はない。
だが気配はあった。こちらを窺っている硬質な空気だ。
「手紙を頂いた寺の者、武蔵坊と申す」
なるべく優しく話しかけた。
「……はい」
ややあって気配が和らぎ、女の声がした。予想に反し若々しい。
「お待ち下さい。すぐに」
走り寄る音に続き、かた、と心張り棒を外す音が聞こえた。戸が開くと手紙と同じ甘い香りがふわりと揺れ出た。
「よくいらして下さいました。武蔵坊、様」
現れた女は美しかった。
「ご足労頂きまして、本当にありがとうございます」
女は深く一礼をし、弁慶に茶を勧めた。
「これは——かたじけない」
女の面に見惚れていた弁慶がハッとする。
——いやいや、己の務めを忘れてはいかん!
自戒を込めてうほん、とひとつ。
「頂戴しよう」
だが女の相貌が気になる。千代という名と世捨て人のような棲家に老女と思ったので尚更だ。湯飲みを手に、そっと横目で盗み見た。
瓜実顔の美人とはまさにこうか。問えば皆が美しいと答えるだろう。白磁の肌、聡明そうな額、眉はたおやかな弧で、瞳は涼やかな切れ長、鼻梁は心得ある絵師の一筆が如く。
「熱いですから、お気をつけて」
赤い花弁のように艶やかな唇が動く。しっとりと落ち着いた声は、朝露に濡れて佇む牡丹のような密やかな色気を感じさせた。
歳は三十に届くだろうか。笑むとやや幼く見えるが、このふくよかな空気感は二十やそこらの娘には醸せない。
吉祥天が現身ならば、このような姿であったろうか。
——さもありなん。
その美貌は、周囲の妄想が悪意を孕むには十分過ぎた。女が取り巻くこもごもを煩わしいと思うなら、辺鄙で不便な山奥に籠もる気持ちもわからないではなかった。
「いい歳の女が、とおかしくお思いでしょう」
女——千代ははにかんだ。
「ひとりがいいのです。誰にも縛られず、気のままがいいのです」
「しかし、ここは山深い。難儀なことも多いでしょう」
「いいえ。武蔵坊様も、雪深い山寺で修行をなさるでしょう」
「う、うむ」
「それと同じです。私の生き方にはこの山が合っているのです」
清しいまでに俗世への未練を感じさせなかった。弁慶は感心しながら、千代の指先に視線を移した。
独り住まいにしては美しい手だった。白く細く、優美に動く。手首も細く、着物に覆われた肢体の華奢な様は容易に想像できた。
ふと、違和感が心をかすめた。
どうにも、逞しさが足りない。山を巡り沢で水を汲めば、どんなに細身の女でも頼りがいが出る。物言いには強かさも感じるが、伴う健やかさが見当たらず、少しも日に焼けていないのは奇妙だった。
それとも、この世のものとも思えない女は、生活にまとわりつく土臭ささえも美貌で押し隠してしまうのだろうか。
——不思議な女だ。
女を知らぬ弁慶ではない。その数も両手足の指を超えているが、このような女は初めてであった。
千代と目が合う。弁慶は我に返り口を開いた。
「うほん。あ、あー、それより、手紙のことを詳しく伺おう」
目を逸らし、懐から手紙に添えられていた地図を出した。千代はつと身を乗り出し、広げられた地図を指す。
「この家の裏手から、獣道を半時ほど行くと崖に出ます。崖といっても縄や蔦で降りられる高さですが、その下に木材の切出用の古い小屋があるのです。四、五日前から、そこに」
「人数は」
「確かなのは三人ですが、もうひとりふたり、いるかもしれません」
「武器などの見当はつきますか」
「銃声を聞きましたが数までは……。あと、もしかしたら小屋に鋸や鉈があるかも——錆びて使えないとは思うのですが」
千代が眉根を寄せた。ならず者が数人とあれば、女は誰でも怖気立つだろう。ひとりとなれば、その心許なさはどれほどか。
「では、明るいうちに案内願えるだろうか。大丈夫、万が一の場合は、この武蔵坊が全力でお守り致す」
弁慶は自信に満ちた表情で言った。
崖上に身を潜め、ふたりは山小屋を観察した。時折、薄汚れた窓の中で影が動く。確かに誰かいるようだ。
と、中からふたりの男が出てきた。二十代の半ば頃だろうか。ひとりは肩までの長髪を結わえ、色使いの派手な服の軟派な風体、もうひとりは首や腕回りが太い、がっしりとした身体つきだった。ふたりは少し離れた茂みに歩み寄り、並んで放尿し始めた。
今度は小屋の中から別の男の声がした。長髪の男が振り返り相槌を打つ。二言三言続き、下卑た笑いが起こった。どうやら小屋にも最低ふたりはいるようだ。
「千代さん、彼らですか」
「そうです」
人も寄らぬ山中に、そぐわぬ若者たち。のんびり茸狩りでもあるまいし、狩猟にも見えない。小屋は雨露こそしのげるが、手を入れなければ越冬はつらいだろう。長居はしないはずだ。
とはいえ、山中の平穏のためには即刻の立ち退きをお願いしたい。弁慶は周囲の地形と、麓の方向を確認した。
——さて。
弁慶の腕っ節なら全員をのして麓まで引きずっていけるが、仏に仕える身としては、積極的な暴力行為は慎まねばならない。だが和尚のように心に訴え、説伏できる自信もない。相手は銃に頼って攻撃的に出やすいだろうし、さすがに弁慶とて当たり所が悪ければお陀仏になりかねない。坊主がそれでは洒落にもならない。
どうしたものかと坊主頭を撫で回していると、千代が「熊でも襲ってくれれば」とぽつりと言った。
「熊……熊——そうか」
弁慶の顔に喜色が浮かんだ。
「千代さん、ありがとう」
「えっ」
「熊です。山の主にこっぴどく脅されたら、きっと震えて逃げて行くでしょう」
弁慶は不敵に笑った。
三
ふたりは一旦引き揚げた。弁慶は夕餉を馳走ついでに夜食に握り飯を包んでもらい、頃合いを見て再び小屋へ向かった。
小屋の窓からは明かりと男たちの話し声が漏れていた。
そっと覗くと、スポーツバッグの中から札束がはみ出ていた。その無造作加減に、偽札ではないのかと疑いたくなる。
長髪の軟派な男がひひ、と嫌らしく口を歪めた。
「こんなド田舎、何もねえと思ったが金だけはあったな」
「……お前、よっぽど面白かったのか。飲めばその話ばかりだな」
目つきの鋭い髭面の男が面倒臭そうに言った。
「成功したんだからいいじゃねえかよ。しばらく楽して暮らせんだ」
「あまり派手なことはするなよ。金の出所を疑われたら——」
「あんたは心配性だな。外車でも買わなきゃ大丈夫だって」
手をひらひらさせながらウイスキーをあおる。
「お前が捕まったら、俺たちまで危ないんだ。忘れるな」
体格のいい男がドスを効かせた声で釘を刺す。軟派男はその迫力にハッとし、目を泳がせながら「あ、ああ」と頷いた。
「おお、怖い」
別の男がおどける。短髪の、いかにも好青年の風貌だった。しかしその手には、缶ビールと同じ気軽さで拳銃が握られていた。
「初めての時は気も大きくなるさ。だが三度もやりゃあ、普通の稼ぎと同じに思うさ」
事も無げに言い、にやりと笑った。
不穏な会話、金、銃。どう転んでもまともな集団ではない。ひどい怪我をさせたらと気にかけていたが、あれでは骨の一本や二本折れたとしても反省するかどうか。
男たちは、続けて山を下りる算段を始めた。明日にしよう、いや明後日だ、と暢気に話している。
そうして彼らは何食わぬ顔で生活し、底がついたらまた非合法な手段で金を毟り取るのだろう。堕落は、覚えたら抗いにくい。
「何と、情けな——」
弁慶は言いかけて口を噤んだ。
記憶がよぎる。
自分に、彼らを情けないと言う資格があるだろうか。今でこそ仏門に入り清い暮らしをしているが、それで過去が消える訳ではない。
あれは、数年前の自分ではないのか。
そして和尚と出会わなかった世界の、未来の自分。
「……」
気の向くままの日々。
盗み、奪い、喰らい、呑み、暴れ、女を抱く。
世界は自分のものだと思っていた。咎める者はなく、睨み、拳をかざすだけで欲するものが手に入る。すべてがひれ伏す様は気持ちがいいもので、「鬼」と呼ばれようと、それすら優越感に変わった。
自分はこうして生きていくのだ。俺の人生、思う存分楽しんで何が悪い——。
そう嘯く自分は、目の前の男たちと何ら変わらなかった。
——だが……今は違う。
重なるのは過去の自分で、現在の自分ではない。
弁慶は迷いを断ち切るように首を振り、深呼吸した。
——今は、違う。
† † †
それこそ「御仏の導き」だったのか。
和尚は縁じゃよ、と笑ったが。
寺への道中、和尚は大事なことをひとつ教えようと言った。
「武蔵坊。人は煩悩を持っておる」
「ボン、ノー」
「うむ。人の心に起こる欲じゃ。何々がしたい、何々が欲しい、何々でありたい、というような、様々な固執が煩悩じゃ」
「その、ボンノーをどうするのですか」
「捨てよ」
しゃらん、と錫杖が鳴った。
「煩悩が実現せねば人は苦しむ。実現したとて、理想通りでなければ苦しむ。満足すれば、その次を求めまた苦しむ。苦しみは心を乱し、盲目にする。仏に仕える者は、そうあってはならんのじゃ」
弁慶の顔を見つめ、寝ていないことを確かめて続けた。
「お前、腹が空いた時はどうしておった」
「ええと、手近な畑や豚小屋なんかからちょいと失敬し——あっ」
「怒っているのではない。続けよ」
「……その、人のものを……盗りました」
「うむ。よく言った。問題なのは、盗もうとするその心じゃ」
「はい」
「盗みは、食欲に執着した結果じゃ。乞わず、働かず、手っ取り早く済まそうとする心がいかんのじゃ。食べるなというのではない。生きている限りは食わねばならん。大事なのは、どう食うかじゃ」
和尚は噛んで含めるように言う。
「誰も腹が空いたとて、人の畑から勝手に野菜をもいだり、鶏や豚をさらったりはせなんだろう。皆、育てたり買ったりしたものを食べておる。過度の贅沢を控え、身の丈に合ったものを食べておる。恣に欲に従うのではなく、制御するのじゃ」
「はい」
「これはすべてに通ずる。無欲は難しいが、近づくことはできる。武蔵坊、己を律せよ。欲は生きるに足る分が満足と心得よ。それ以上は必要ない」
「……」
「武蔵坊?」
「……ふご~っ」
いつの間にか弁慶は立ったまま、鼻提灯を膨らませていた。
「……やれやれ。これは本当に手のかかる弟子じゃのう」
だが和尚は言葉とは裏腹に、笑みながら大男を見上げた。
寺での生活はつらかった。
薄味で素朴に過ぎる食事、酒も女も娯楽もなく、夜明け前よりのお勤めと修行三昧。真人間になると誓ったものの、慣れぬ苦しさから、奔放で怠惰な毎日を懐かしむことも度々だった。
とりわけ厳しかったのは北の冬で、掃除や水仕事など雑務のつらさはもはや殺人的だった。寒さの感覚はなく、常に針の先で毛穴をほじくられるような痛みの後に、強張りと痺れが襲う。一年目は凍死を覚悟し、二度と桜餅も月見団子も食えないと嘆き、兄弟子たちを苦笑させた。
それでも人は適応するもので、丈夫だった身体は益々逞しくなり、意識は冴え、五官の機能は増幅した。己のことごとくが変化する様はとても不思議で、和尚は当然だと説明してくれたが、途中で寝入ったので結局どういうことかわからず仕舞いだった。
修行僧としての弁慶は決して優秀ではなく、読経を始めお勤めの順序を間違えたり、作法を誤ることも多かった。和尚の説法中の居眠りも常習で、正直、仏の教えの何たるかは漠然としていた。
そんな彼に、和尚も兄弟子たちも優しかった。厳しく叱られこそすれ、理不尽に怒られはしなかった。特に兄弟子たちはよく和尚の目を盗み、面白おかしい——時折下品な——話をして楽しませてくれた。聞けば皆、同じように和尚に諭された過去があり、元は悪たれが揃いも揃って今は坊主というのも、また面白かった。
家族とも呼べる仲間ができ、帰る場所ができた——弁慶は初めて心の平穏というものを知り、充足感を味わった。
四
午前三時。
草木も眠る、とはよくぞ言ったもので、しんしんと降る静謐だけが辺りに満ちていた。
闇——弁慶が蠢いた。
人は寝込みが一番無防備だ。暗闇は判断を鈍らせ、躊躇を与える。それに未知の現象が加われば、並の人間は恐慌状態に陥る。
弁慶は大きく深呼吸すると、意識を丹田に集中した。発する気が静寂にひびを入れていく。寝静まっていた鳥たちが、まるで縊られるかのような耳障りな鳴き声と共に飛び立った。
瞬間、弁慶の気が爆ぜた。
「嗚嗚嗚嗚嗚嗚嗚嗚嗚嗚——っ」
地の底から天へと突き抜けていく咆哮。大気が震え、小屋の窓ガラスが唸った。目を覚まさぬ者は死者のみだろう。
否、永久の眠りすら打ち破りかねない、そんな雄叫びだった。
「なっ、何だっ⁉︎」
「地震!」
小屋の中では男たちが飛び起きていた。
「違う! 熊だ!」
「お、お、おいっ! 銃! ど、どこだ!」
「馬鹿! さっ、騒ぐなっ」
男たちの声は上擦り、姿は見えなくとも混乱がわかった。弁慶は再びいっぱいに空気を取り込み、吠えた。
その恐ろしい響きは、地獄の門扉が開く音のようであった。
「う、うわああああっ‼︎」
戸が勢いよく開き、男たちが文字通り転がり出てきた。裸足の者、下着姿の者、口が開いたままのバッグを抱えている者——。
《出て行け》
闇から出ずる声。
「お、おい……何だよ、何か、言ったか……」
今にも消え入りそうな声に答える者はない。
《出て行け》
「————っ」
男たちは蒼白であった。
《欲に穢れし人間よ、出て行け。さもなくば、我が怒りを受けよ》
弁慶は小屋に張手をかました。もちろん、十分に手加減をして。
朽ちかけの小屋はぎしぎしと不穏な叫びをあげた。壁にかけられていただろう道具が次々と落ちる音が聞こえた。
何か、恐ろしいモノがいると本能が知らせていた。気を失ったら殺される。男たちの意識を繋ぎ止めているのはその思いだけだった。
——これでお仕舞いだ。
《出て行け》
低く太い声が、男たちを弾いた。
「ヒッ——ヒイィィィィィッ!」
男たちは一斉に、憐れな姿をさらして走り去った。
小屋の中は案の定、斧や釘抜きが転がっていた。食品の缶詰、飲料水、酒、衣類や寝袋なども散乱している。一瞬、食料を失敬しようかとも考えたが、未来の遭難者のために置いていくことにした。
外にはスポーツバッグと札束が点々と落ちていた。さすがに金を持って逃げる余裕はなかったようだ。弁慶は札束を拾い集め、バッグに詰めた。その途中で拳銃を見つけた。
——これがあったから、つまらぬことに手を出したのではないか。
仮に拳銃がなくとも、悪事に染まる要因は多くある。詮ないこととわかっていたが、思わずにはいられなかった。
弁慶はスコップを探し、深い穴を掘った。銃を入れ、丹念に埋める。
——人が暮らすのに、この力は必要ない。
過度の力は驕りを生み、やがて暴走する。そしていずれ悲劇をも手繰り寄せる。
人が御せない力など、ない方がいいのだ。
和尚に諭され、力の使い方の誤りに気づいたからこそわかる。
「……これでいい」
盗人たちの痕跡を払い終わる頃には夜が明けていた。
「只今戻りました」
声をかけると、転ぶように千代が出てきた。
「もう安心です。奴らは出て行きましたよ」
「はい——ありがとうございます」
花の顔が綻ぶ。弁慶はほっとしたと同時に、心底嬉しく思った。
「今、足湯をお持ち致します」
「かたじけない」
上がり框に腰掛け脚絆を解いていると、千代が湯桶を持ってきた。
跪くと葛の香りが漂う。
「お洗い致します」
「いや、そのような」
「いえ、私のために汚れたのですから」
押し止める間もなく手が動き、弁慶の足を取った。
細い指が這い、丁寧に泥を落としていく。想像以上の柔肌が、ぴたりと生き物のように吸いついてきた。
——こ、これは。
美人に尽くされ、悪い気はしない。むしろ——。
千代が上目遣いで弁慶を見た。艶めかしいという他に表現がない。
昨日とはまったく違い、色香が内側から溢れ出している。
「武蔵坊、様」
白い歯の間から赤い舌が覗いた。蠱惑的で視線を逸らせない。
「……お強いのですね」
ささやきに込められた熱で、気のせいではないと知る。指の股を優しくなぞられ、劣情がざわりと動いた。
「いくらひとりが好きでも、人恋しくなることはありますのよ」
明らかに誘っている。据え膳食わぬは何とやらと言うが——。
「————」
誘惑に負けてはいけない。そう、固く誓ったけれども。
「武蔵坊様」
膝頭にそっと手を乗せられた。禁欲的な日々を送る若い肉体に、物理的な接触は刺激が過ぎる。
——まずい。
弁慶は心の中で念仏を唱え始めた。自分が生来の女好きということは自覚している。だから尚更、ここで留めなければ。
「何を我慢することがありましょう」
千代の手が、今度は太腿に乗せられた。
——お、和尚様……!
煩悩に支配され、戒律を破れば破門である。
「い、いけない」
だが弁慶の言葉より早く、千代が倒れ込んできて——。
弁慶が南無三、と口走った刹那、
「喝っ!」
鋭い声が響き渡った。
五
——この、声は。
「…………お、和尚……様?」
「武蔵坊、しっかりせんか」
「和尚様! ……ほ、本物」
途端に気が抜けた。
「武蔵坊、盗人とやらはどうなった」
「あ……暗がりに紛れて驚かせたら、金も銃も置いて逃げました」
「その金と銃はどうした」
「銃は、埋めました。金は、麓の駐在所に届けようと思い、ここに」
「ふむ。盗人の話は本当であったか」
和尚が千代に向き直る。いつの間に膝行ったのか、千代は部屋の隅で小さくなっていた。
「これ」
千代が顔を上げる。双眸がつり上がっているように見えた。
「さすがに、銃を持った人間は恐ろしかったか」
——?
「ワシらにできることであれば、手伝おう。じゃが悪戯は大概にな。坊主に女犯を勧めるは、ちと行き過ぎじゃ」
「お、和尚様……?」
「武蔵坊、気づかぬか」
和尚は懐から薄紫の紙を出した。寺に残してきた千代の手紙だ。
「この匂いじゃ」
「……葛、ですか」
「その下の香りじゃ」
そう言われると微かに違う香りが紛れているのがわかった。初めに感じた、つんとすえたような——。
いや、これは。
「……獣の……匂い」
千代は微動だにしないが、今度は明らかにその目がつり上がっていた。瞳が異常に小さい、絵に描いたような四白眼。
「……千代、さん」
——葛は……匂い消しか。
「よいか」
和尚が、す、と前に出た。
「破!」
錫杖が一閃した。弁慶は思わず「あっ」と声をあげる。
千代は錫杖の先で強かに打ちつけられた——はずだった。
しかしその姿はない。身の重さを感じさせない軽やかさで跳んでいた。
「これは——一体」
千代がほほ、と艶やかに笑った。けれどもその口も横に大きく裂け、見惚れるほどの美しさはもうなかった。
「妖狐じゃよ」
和尚が錫杖を振り上げる。千代は再び跳び退り、くるりと回転しながら三和土に降りた。
瞬間、女は黄金色の獣に変わっていた。
「何と……!」
普通の狐よりも一回り大きい。そして目を引くのは、二股に分かれた尾だった。
「目眩ましの力が弱いゆえ、銃に恐怖を感じたのじゃろう。それでワシらの手を借りにきたのじゃな」
千代は答えない。
「手負いでなければ、まだ若いか。百か、百五十か」
「百二十」
狐の喉から漏れる声は、未だ女のものだった。
——ひゃく、にじゅう。
それが狐の年齢だというのか。
「武蔵坊様。化け狐は千年も生きますのよ。だから千代、と」
あやかしの声は、笑いをこらえているかのように弾んでいた。
「あなた様ほどの強い精であれば、この尾がひとつ増えたでしょうに。ああ、口惜しや」
だが恨み節の響きはなかった。玩具を取られたら、また探せばいいとでも言わんばかりの余裕だった。
「いずれまた、会うこともありましょう。その時は目眩ましされぬよう、要心なさいませ」
狐は壁際へぽん、と跳ねた。そして首だけで振り向き、
「——此度は、ありがとうございました」
そう言い、壁の穴に身を躍らせた。
弁慶は呆けたように狐の消えた穴を見つめていた。
やがて、気がつく。確かに古い家屋であったが、あのような穴はなかったはずだ。
「まさか」
ハッとして天井を見上げた。
ぽっかりと空が見えている。これでは雨漏りどころではない。そればかりか、床は破れ、梁は折れ、まさに廃屋ではないか。
「…………」
言葉もない。これでもあの妖狐の力は弱いという。
「武蔵坊」
和尚が肩に手をかけた。
「麓までつきあおう」
† † †
前を行く和尚の足元ばかりを見ていた。
——あんなに、泥だらけで。
法衣の裾や足元がひどく汚れている。寺に戻るなり事の次第を聞き、そのまま出てきたのだろう。
いつも、心配ばかりかけている。
兄弟子たちを危険な目に遭わせたくない。困っている人を助けたい。
それに——。
和尚に見栄を張りたい気持ちがどこかにあった。一人前の弟子なのだと、頼もしさを見せたい色気があった。
だが、それこそ未熟の証と叱られるだけではないか。
図体に見合う溜息をつくと、和尚が振り返った。
「武蔵坊」
「は、はいっ」
「怪我はせなんだか」
「あ……はい」
「ならばよいが、お前はいつも無茶をするでの。思い切りのよさは買うが、勇気と無謀は違うのじゃぞ」
「……はい」
いつものように諭されているのが情けなく、そして——嬉しかった。
「和尚様」
弁慶はドタドタと回り込み、しゃがんだ。
「和尚様、背にお乗り下さい」
それが精一杯だった。
「武蔵坊、まだまだ未熟ゆえ、この道も修行と致します」
和尚は自分から楽な道を選ばない。歩き詰めの師を労るにはこう言う他ない。小さな方便と、きっと御仏もお目こぼし下さるだろう。
「……武蔵坊」
その心が届かないはずがない。
和尚は破顔し、大きな背に被さった。
「和尚様」
「何じゃ」
「ひとりの間……いろいろと思い出しました」
弁慶は背中に向かって訥々と語り出した。
「和尚様と会わなかったら」
考えたくもない。
「和尚様と会えなかったら……俺もあの盗人たちに混じっていたかもしれません」
「……そうか」
「明日のことも考えず、今がよければそれでいいと……そうやって誰かを不幸にしていることに気づかず、自分は楽しんで……」
いずれはどこかで野垂れ死にしたことだろう。
「和尚様に会う前は、こんなこと、思いもしませんでした」
自分がいかに欲望のままに生きていたか。
まったくもって、情けない。
「……藤原敦忠か」
和尚がぽつりと言った。
「えっ」
「平安時代の歌人での、百人一首に歌がある」
逢ひ見ての のちの心に くらぶれば
昔はものを 思はざりけり
朗々とした声が、秋晴れの空に吸い込まれていく。
「本来は男の恋心を詠んだものじゃが、恋愛以外——人が生きていくにも、あてはまると思うての」
「どういう意味なのですか」
「ふむ。そもそも『逢ひ見ての』というのが男女の逢瀬のことでの」
「……」
「契りを交わした後が『のちの心』なのじゃが、それに比べると……」
「……」
「昔は何と——これ、武蔵坊」
遠くから聞き慣れた声がする。
「武蔵坊! このような急坂で寝るでな——こ、これっ!」
背中にあるのは、きっと倖せの重みなのだ——弁慶はそう、ぼんやりと思った。