降る雨に君は微笑(わら)う

サーガ隼竜

サーガアークで七夕ネタです。
Twitter企画「はやりょinサマー」に参加しました。
7月7日に竜馬に会いたいと願う隼人と、会いに来てくれる竜馬のお話。再会の約束を交わします。隼人寄り視点。キスまで。なお、2人の「おれ」「おまえ」表記は漫画版號までを参考にしています。
【竜馬の設定について】
・自分の意思では自由に動けず、普段は自我を閉じ込められている状態と受け取れそうな描写があります。
・自由に動ける時間内では、自分の姿を思い通りの年齢に変えられます。
約9,000文字。2023/7/7

◆◆◆

 溜息のほうへ隼人が視線をやる。
「……雨ですね」
 所員が残念そうに眉を下げた。
「だが、我々は濡れることはない」
「そうなんですけど」
 冷静な返しに苦笑いを浮かべ、所員は再び窓の外を眺めた。ガラスに雨粒がぶつかって流れて、ごく小さな川を作りながら落ちていく。眼下の緑は白くけぶっていて、幽玄的な日本絵画のようだった。
催涙雨さいるいうですね」
「……催涙雨?」
 初めて聞く言葉に鸚鵡おうむ返しになる。
「今日って七夕じゃないですか」
 隼人は目玉をくるりと巡らせる。
「そうか」
 言われて日付に気づく。
「七夕に降る雨を催涙雨って言うらしいですよ。天の川が増水して渡れずに会えない、織姫と彦星の涙だとか」
「……ほう」
「夜までに止んだらいいですね」
「優しいな」
 所員は困ったように首を左右に振る。
「そういうわけじゃないですけど……何だかそう、願いたくもなります」
 気持ちは何となくわかった。
 自分たちとはまったくかけ離れた、いわばファンタジーの世界。常に胃の中に飼っている緊張を、背中にひた・・と張りついている死の影を忘れて、束の間だけでも物語に浸りたいときもある。
「…………雨、か」
 呟く隼人の視線は、ずっと遠くに向けられていた。

 正直に言うと、所員の言葉を聞いて「止まなければいい」と思った。何も逢瀬を望むふたりを邪魔しようという意図はない。自分にとっては、晴天よりも雨のほうが思い出深かったからだ。
 いつも「一秒たりとも無駄にはできない」と脇目も振らず走っていた。それなのに、今日はひどく寄り道をしている。一般常識と呼べる範囲の知識は当然ある。けれども関心も情熱も、すべてはゲッターと、仲間とともに闘うためだけにあった。だからこの歳になって初めて、「催涙雨」「七夕」「織姫と彦星」など、普段の自分からしたらとうとう頭がイカれてしまったのかと思うような言葉を調べていた。
「……そういえば」
 ずっと昔。
 研究所にも笹が飾られていたことがあった。楽しそうに短冊を書いては吊るす姉と弟。背の小さな弟に抱っこをせがまれ大きな窓辺に連れて行くと、
「せっかくの七夕なんだから、雨が降ったらかわいそうだろ」
 そう言いながらてるてる坊主を吊るしていた。傍らには穏やかに、朗らかに笑い合う面々。
 あれはどのくらい前のことだったか。
 遥か遠くに消えてしまった日常・・。記憶の中の人々はみんな去ってしまった——隼人だけを残して。
 一年に一度でも、会えるならまだいいじゃないか。
 そう、羨む。
「——」
 ズキ、とこめかみの内側が疼いて思わず目を瞑る。今朝は気にならないほどの痛みだった。それが段々とひどくなってきていた。
 これも雨のせいだろうか、と息をつく。それとも、歳か。以前はこんなことはなかった。
 濃い目のコーヒーを飲み干す。カフェインの効果で一時的にでも痛みが和らぐのを期待したが、無駄だった。それどころか、頭の芯からズクズクと痛み出した。

 切り替えよう。外の空気を吸えば、いくらかは気が紛れるかもしれない。
 ひとつ深呼吸をして、寄り道ついでだから、とゆっくりと立ち上がった。

   †   †   †

 ああ、夢だ。
 明らかにそう思った。
 まだ少年の面影を残した竜馬がこちらを見ている。はにかんだ表情で何かを言っているが、声は聞こえなかった。
 けれども、何を言っているのかはわかっていた。
 ——リョウ。
 呼びかける。声が出ない。だが竜馬は聞こえているかのように、嬉しそうに目を細めた。
 窓の外では、しとしとと細い雨が降っている。緑は濃く、白い霧と相まって静謐さが立ち込めている。日夜死と隣り合わせで恐竜帝国と闘っている世界とは思えない美しい景色だった。
 一歩近づく。竜馬は反射的に俯き、それからおずおずと上目遣いを向けてきた。キッと前を見据え、勇ましく闘いに踏み込んでいく姿からは想像できない。しかしこれも竜馬で、隼人の前でだけ見せる素顔だった。
 ——そうだ。
 初めて思いを伝えたこのときも、雨が降っていた。
 また一歩、進む。竜馬が顔を上げる。間近で目が合う。もう、触れられる距離。竜馬の目が熱っぽく揺れている。
 手を伸ばし、頬に触れようとした瞬間、竜馬の唇が「はやと」と形を作った。

「——リョウ」

 自分の声が遠くに聞こえた。
 ——ああ、やはり。
 次第に意識が明瞭になっていく。ゆっくりと息を吐き出し、目蓋を持ち上げる。寂れた壁と床が目に入ってきた。
 ——夢だった。
 目の前にあるのは、かつての早乙女研究所だった。
 ——そうだ。
 外の空気を吸いに出たはいいものの痛みは一向に収まらず、身を落ち着けられる場所を探して歩き回っていた。そうして自然、旧研究所への連絡通路に差し掛かり——気になって、どうしようもなくなった。記憶の蓋を開ければ自分の中に[[rb:幾許 > いくばく]]か残っている人間らしい部分が痛んで、しばらくは疼きに呻くことになるのに。
 それでも今日は足を踏み入れたくなった。
 自分の足音だけが響く薄暗い廊下を進み、そのうちに眩暈までも襲ってきて、耐えきれず壁にもたれて——。
 ささやかな、けれども切実な願い事が言の葉になって舞うより前に気を失ったようだった。
 懐かしい過去の夢は、せめてもの運命の慈悲か。それともこれまでの罪の贖いとして、二度と掴めない倖せを見せつけられていたのか。
 ——どちらであったとしても。
 再び目を閉じて暗闇に戻る。
 隼人にとっては心を乱され、同時に満たされる時間だった。
 もういない、思い人。
 あのときは離れ離れになる未来など想像すらできなかった。だから。
「……言えなかった」
 ぽつりと零れた。すると、
「何を」
 頭の上から声が降ってきた。
「————っ」
 いつもなら、身体が勝手に戦闘態勢を取る。だが今に限っては目を見開いたきり、まったく動いてはくれなかった。
 陳腐な言葉を借りれば、金縛りに遭ったかのように。
「何を言うつもりだったんだ?」
 懐かしい、声。
 耳朶の奥から決して消えない、ずっと待ち望んでいた声。
「なあ、隼人」
 名前を呼ばれ、ますます硬直する。
「ヘンな奴」
 くすりと笑いが落ちた。
 その指も一緒に。
「——」
 頭を撫でられる。無骨で迷いを知らない、誰よりも頼れる指先。
 触れられるたび、少しずつ、少しずつ強張りが解けていく。
 それでやっと、竜馬に膝枕をされているのだとわかった。
「何でこっち向かねえんだ」
 顔の右側と密着している腿から声の振動が伝わる。人肌のぬくもりを感じる。
 指が髪をいた。
 実体がここにあった。
 ——これもきっと。
「夢だから」
 答えると一瞬の間があって「は?」と返ってきた。
「夢なら、何でこっち向かねえことになるんだよ。久しぶりにおれに会いたく——いや」
 指が止まる。
「…………リョウ?」
 名前を呼んでいいものか迷ったが、様子をうかがうにはこうするしかない。
「夢だから……殴ってもしょうがねえとか、そんなとこか?」
「何?」
「それとも、夢ですらおれに会いたくねえ、とか」
 ふう、と溜息が聞こえた。
「……ゲッターにおまえを乗せなかったしな」
 脳裏にあの瞬間がよみがえる。
 やがてまた、指が髪を梳き始めた。
 ——リョウ。
 本当は、顔を見たい。抱きしめたい。
 やっと会えたのに、恨み言に費やす時間など、ない。
「リョウ、違うぞ」
 短く、はっきりと紡がれた言葉に、竜馬の指が再び止まった。息を詰めているのがわかる。
「こういうのは、動いたり、色気を出して好き勝手しようとするとな、覚めちまう」
 ——そうだ。これは夢だ。
 今の隼人にとっては、過分なほどの僥倖と言えた。
「まだ……覚めたくないんだ」
「…………隼人」
「もう少し、おまえに膝枕されていたい」
 今度は小さく笑う気配がした。
「覚めねえよ」
「騙されないぞ」
「……本当だ、隼人」
 左肩にぬくもりを感じた。
「……」
 あたたかさがゆっくりと肩を撫でる。
「覚めねえよ」
 もう一度、声が降ってきた。
 そっと右手を持ち上げる。恐る恐る肩へ伸ばす。
「————」
 触れる。
「……っ」
 指先の感触に思考が止まる。胸が詰まって息ができない。ぎゅう、と指に力を込めた。
「…………隼人」
 竜馬の指先にも、ぐっと力がこもった。
「…………ほらな、覚めねえだろ」
 頷くしかできなかった。
「こんな隼人、誰も見たことがねえだろうな」
 ふふ、と笑い声のあとで、気配が揺れる。
「——!」
「隼人」
 竜馬が覆いかぶさる。
「……隼人」
 ——リョウ、おまえ。
 微かに、ほんの微かに震えている。その切ない揺らぎの下から、はあ、とこらえきれないように淡い吐息が聞こえた。
「……泣いて……いるのか」
 密着した頭が横に振られた。
 泣いているんだろう。
 そうは言えなかった。
 自分だって、泣きそうだった——この心の奥底にまだ涙が残っていたらの話で、そのうえ泣き方も忘れてしまったが。
「…………リョウ」
 ゆっくりと時間が流れる。
 もしこれが最後の逢瀬だとしても、いいと思った。
 顔を見られなくても、抱きしめられなくても。

 この先もずっと愛していると、伝えられなくても。

 背後に感じる重さとぬくもりが竜馬の気持ち全部なのだと思うと、自分はとんでもなく果報者だった。

「なあ」
「隼人」
「いい加減、こっち向けよ」
「なあってば」
 いつまでも動こうとしない隼人に、あきれと不貞腐れた響きさえ伴って、竜馬が肩を揺すり出した。
「向かねえと、無理やり首をひねってやるぞ」
 右手でぐりぐりと隼人の後頭部を撫で回す。
「なあ、おい」
「聞いている」
 意を決して頭を動かす。そろそろと左を向いていくと、跳ねた髪の先が目に入った。尚も顔を向けると——その人と目が合った。

 最後に会ったときと変わらない、竜馬がいた。

 身体をずらし、仰向けの体勢を取る。
 じっと見つめ合う。
 髪の長さも、目の輝きも、肌も唇も、あの日のままだった。心が一瞬にして引き戻される。
「この格好じゃねえほうがよかったか?」
 竜馬が眉を下げる。
「……どういう意味だ」
「もう少し若い頃のほうがよかったかと思って」
「選べるのか?」
「まあ、そんなとこかな」
「ずいぶんとサービスがいいじゃないか」
 一瞬、瞳を逸らす。そしてすぐにまた隼人を見つめる。
「おまえが拗ねていると思って」
「詫びか」
「おれなりの」
「…………馬鹿だな」
 左手を伸ばし、人差し指の背で頬に触れる。竜馬の瞳が細められた。どこか苦しげに見えて、隼人の中に[[rb:細波 > さざなみ]]が立つ。
「リョウ」
 肉体の隔たりを越えて心に届くように思いを込める。
「いつでも、どんな姿でも、竜馬は竜馬だ」
 その言葉を噛み締めているのか間が空いて——やっと「ああ」と竜馬は目を閉じた。ぬくもりを求める仔犬のように、隼人の指に顔をすりつける。その姿のいじらしさに、ようやく隼人の唇に笑みが上った。
「願ってみるもんだな」
「え?」
「今日は七夕だ」
「七夕?」
 身体を起こし、向き合う。
「おまえに会えますようにと、願い事をした」
 竜馬が目を丸くした。
「願い事って……もしかして、笹の葉に短冊?」
「さすがに、そこまで本格的じゃない。……だが、柄にもなく、乗っかった」
 隼人は苦笑する。
 そう。
 無性に会いたくなった。だから、迷信でも何でも、縋れるものに手を伸ばした。
「隼人がそんなことするなんてな」
「雨だから」
「え?」
「雨が降っているから……余計におまえに会いたくなった」
「……雨」
 含むものを理解したのか、竜馬がはにかんだ。
「そっか」
「ああ」
 それで通じる。
 ふたりだからこそ。
「なあ」今度は竜馬が口を開く。
「うん?」
「おまえ、ちゃんと飯食ってんのか」
「ほどほどに」
「夜は? ちゃんとベッドで寝てんのか」
「それなりに」
「風呂は」
「所長の体面を保てる程度には」
「相変わらずだな」
「まあな」
 流れるように言葉を交わす。そのテンポの懐かしさに隼人の口元がゆるんだ。
 これも、ふたりだからこそ。
「訊かなくても……おまえが一番、おれのことをわかっているだろう?」
 それでも、訊ねてくれるのは嬉しかった。
「ああ」竜馬の表情も和らぐ。次いで、
「……そうだといいな」
 わずかに曇った。隼人が気づかないはずがない。
「どうした、急に謙遜か?」
 目の奥を覗き込む。
「それとも——罪悪感か?」
 黒い瞳がきゅっと収縮した。隼人は隠された感情を丁寧に拾おうと向き合う。
「リョウ」
 瞳が揺れていた。
「……心配してくれるのはありがたいが、見くびられるのはいただけないな」
「おれ、そんなつもりじゃ」
「違うのか」
「——」
 竜馬が口をつぐむ。
「いいか」
 逸らされようとする視線を引き留める。
「おまえは何も負い目を感じる必要はない。おまえが決めたことだ」
「……隼人」
「リョウ」
 ぐっと迫る。
「おれがそんなヤワな人間に見えるか?」
 死ぬ覚悟なら、とうの昔にできている。いつだって死ねる。そんな人間が、生き切る覚悟を決めた。
 誰を、何を犠牲にしても——。
 そんな残酷な人間は、簡単にすり切れはしない。
「おれは潰されたって、すり切れないさ」
 竜馬を見つめる瞳は優しい。しかしその奥には誰よりも強い意志の光がぎらぎらと輝いていた。
「生きて、おれにできることを全部やってやる」
「…………ん」
 竜馬が頷いた。
「……隼人だ」
「リョウ?」
「おれの知ってる、隼人のツラだ」
 泣きそうに表情が崩れて——竜馬の唇が隼人に触れた。
「…………リョウ」
 頬を撫でる。
「何て顔してる。おまえのほうが、すり切れそうだぞ」
「…………かもな」
 小さな溜息とともに、目蓋が閉じられた。
「リョウ」
 口づけでなだめる。
「ん」
「おれに、できることはあるか」
 竜馬がぱちんと目を開ける。呆けたように眼前の男の顔を眺め、それから忙しなくまばたきを繰り返した。
「おれにできることなら——」
「……いや」
 ゆっくりと首が横に振られる。
「ねえな」
 次の瞬間には、わずかに覗いたかげりは消えていた。
「せっかく会いに来てやったのに、そんな心配されちゃあべこべだぜ」
 周囲の空気を巻き込んで、明るくニッと笑う。こうなったら、もう何を言っても訊いてもこの男は笑うばかりだ。全部自分で抱え込んで、ひと粒も零さない。
「…………そうか」
 相変わらず強い男だと思う。昔からそこが好ましくもあり、時折——ほんの少しだけ——恨めしかった。もっと頼って欲しかった。反面、頑なさは自分への情愛の証左なのだろうと考えれば、深い歓びを覚えた。
 竜馬はいつも、隼人の心を揺らす。
「隼人ってよ」
「うん?」
「救いようのないリアリストだよな」
 ずばりと、それでも嫌みもあきれも伴わない率直な響きが向けられた。本当のことだから、隼人も「そうだな」と素直に笑う。
「けど、とんでもなくロマンチストだ」
 だが続く評価に耳を疑い、口をぽかりと開けて固まってしまった。
「…………は?」
 その声は己の喉からとは到底思えない、間抜けなものだった。
「ふ、ふふっ」
 竜馬が吹き出す。
「おまえの面——ははっ」
 白い歯が覗く。
「その面ぁ見られただけで、会いに来た甲斐があったってもんだ」
 それから隼人の鼻先にちょんとキスが置かれた。くすぐったさが心の中まで届く。もう長いこと忘れていた懐かしい感覚だった。
「……それなら、おれも嬉しい」
「おう」
「リョウ」
 両頬を手のひらで包む。
「来年の七夕も——まだ、おれがここにいたらの話だが——、会いに来てくれるか」
 聞いて竜馬は微笑んだ。そうなれば当然、続きは。

「断る」

 しかし期待とは異なる答えだった。
「もし雨が降ったら、確か織姫と彦星は会えねえんだろ。天の川が見えなくなっちまう」
「そう言われているな。七月七日に降る雨は、会えないふたりの哀しみの涙だとか」
「メインを差し置いて自分たちだけって、そんなの、寝覚めが悪くなっちまって仕方ねえ。だから七夕の日以外にしろや」
「それだったら、会いに来てくれるのか?」
 一瞬、竜馬が言葉に詰まる。
「……わかんねえ」
「…………そうか」
「けど」
「けど?」
「会えなくったって、隣にいなくったって、『どこにもいねえ』ワケじゃねえ」
「……」
「おれは、いるよ」
 竜馬の手が、隼人の手に重ねられる。
「ずっと隼人のこと、思ってる」
「…………リョウ」
「おれは、隼人が隼人でいてくれさえすればいい」
 ぎゅっと、存在を確かめるように竜馬の手に力が込められた。
「隼人はずっと——『神隼人のまま』がいいんだ」
「……おれの……まま……」
「ああ」竜馬が頷く。
「そうだな。……いつか」
 まっすぐな光が隼人をとらえる。
「いつかおまえが『神隼人』をまっとう・・・・したなら、そんときはきっと、会いに来てやるよ」
「————」
 そう遠くない、けれども果てない日々の先が目の前に広がった。
「おまえにそんなふうに言われたら、逃げられないな」
「逃げる気なんて、これっぽっちもないクセに」
 わずかの間ののち、顔を見合わせて同時に笑い出す。
「……雨が降ってたらいいな」
 竜馬が天井の向こう側、高い空を望むように視線を上げる。
「だから、七夕以外がいい。織姫と彦星に恨まれたくねえからな。……今日は雨で残念だったけど」
「……わかった」
「その代わりと言っちゃあ何だが、傘差して会いに来てやる——そうだ」
 声が弾む。
「学ラン着て来ようか」
 いたずらを思いついた子供さながらに目を輝かせる。
「ん、けどこの歳じゃ合わねえか」
「姿を変えられるんだろう?」
「まあな。でもよ、ちょっと気恥ずかしいな」
「それを言ったら……おまえは若くなって、おれはこのままか? そっちのほうが余程」
 頬の丸みにあどけなさを残した少年と、いい歳・・・をした目つきの悪い男。傍目にはどうやっても恋人同士には見えないだろう。
「……こう、どうにもよろしくない雰囲気になりそうだな」
 倒錯的な匂いが立ち昇ってきそうな絵面を想像し、隼人が苦笑した。竜馬はそれを一蹴する。
「んなことねえよ。……おまえ、いい男だぜ」
「——リョウ」
「……へへ」
 照れくさそうに見上げてきた竜馬を、衝動的に抱きしめる。

 腕で、胸で、竜馬を感じる。頬をくすぐる髪の先も、呼吸のたびに全身を包む香りも、直に伝わってくる鼓動も、背中に回された手のぬくもりも、全部がたまらなく愛しい。

「…………はやと」
 優しく脳を揺らす甘い声も。
 このまま終わってもいいと一瞬だけよぎって、それは竜馬も自分も望んではいないことだとすぐに律する。己には、まだやるべきことがある。
 抱擁をほどき、互いの息を感じながら見つめ合う。
「おまえの学ラン姿、楽しみにしている」
「……ん」
 ほんのりと赤い頬で、竜馬が応えた。
「傘も忘れるなよ」
「おう。けど、降らなかったら何だかカッコつかねえよな」
「降るさ」
「え?」
「きっと、雨が降る」
 隼人の声は自信に満ちていた。竜馬が不思議そうに首を傾げる。
「七夕に降る雨は織姫と彦星の涙だとさっき言ったろ」
「ああ。会えないからだって」
「実はほかにもいわれがあってな」
「謂れ?」
「必ずしも哀しみに由来するものでもないそうだ」
「もったいぶるなよ」
 人差し指が隼人の髪の毛をひと筋すくい、クルクルと弄ぶ。少し不満げな目つきも懐かしい。
「雨は会えたふたりの、喜びの涙という説もあるらしいぞ」
「……へえ」
「だからきっと、おれたちのそのとき・・・・も……雨が降っている」
「……やっぱり隼人って、ロマンチストだな」
「少しくらいはいいだろう?」
「少し? どこが」
 あきれたように竜馬の眉根が寄った。
「……でも、そういうとこも全部、好きだぜ」
 ——リョウ。
 心があっという間に溢れそうになる。
そのとき・・・・……か」
 竜馬の眼差しが未来に思いを馳せる——それからふと過去へ。
あのとき・・・・は博士の遣いだったけどよ、次は違うぜ」
 昨日のことのように覚えている。あの出会いは、どうやっても忘れようがない。
「それでな、おれの勘が間違ってなけりゃ、おまえが一番欲しい言葉をくれてやるよ」
「…………ああ」
 震える心を抑え、どうにか相槌を打つのが精一杯だった。
「……隼人」
 再び、竜馬の唇が近づく。

 

 いつかの未来。
 雨の中、傘を差してやって来る。目が合うと学ラン姿の少年はニッと笑い、まっすぐにこちらを見る。
 そうして物怖じせずに手を差し伸べて、こう言う。

『隼人、おまえを————』

 

 ひとときの逢瀬に歓喜し、今ひとたびの別れを惜しむように、七夕の雨はまだ降り続いていた。