淡雪に初恋

拓カム

拓馬⇄カムイ。まだつきあってません。ホワイトデーネタ。バレンタインネタ『知らぬが無邪気』の続きです。
拓馬がカムイを誘って植物園に行くお話。前回は拓馬←カムイでしたが、今回では拓馬⇄カムイとなっております。初デート。カムイ寄り視点。約2万文字。pixivにもホワイトデーのうちにあげる予定です。
・植物園は浅間山近くにある設定。
・拓馬は筆文字がうまい設定。
・カムイは早乙女研究所に引き取られてから、翔ちゃんに武道を教わった設定。また、極度に寒いところにしばらくいると身体が半休眠状態に傾くという設定にしています(お話の中では一瞬、しかもふんわりと出てくる程度ですが)。
・私服デートですが、服装の詳細は書いていません。拓馬のマフラーだけは赤と明記していますが、ほかは「コート」程度なので、ご自由に想像して楽しんでください。
・拓馬はバレンタイン以降、いろいろ考えてカムイへの思いがあることに気づきましたが、カムイ寄り視点のため、その辺りの直接描写はありません。
・互いにはっきり「好きだ」と言わないまま進行します。初恋同士のもどかしい距離感を楽しめる方向け。でもこのあとちゃんとつきあうよ!
・「淡雪」は春の季語だそうです。

◆◆◆

 一

 何も考えないようにして一週間。
 拓馬はどう思っているだろうかと気になり出して一週間。
 もしかして、チョコレートを渡さないほうがよかったのだろうかと思い始めて、また考えるのをやめる。
 そんな日を重ねて、気づけば三月もすでに数日が経過していた。
 カムイは訓練日誌をつけ終え、小さく息を吐く。それからすぐに明日の訓練予定表を細かくチェックし始めた。これが終わったら過去の類似の訓練時のデータを引っ張り出して、修正点を自分なりに洗い出す。軽くイメージトレーニングをして、それから——。
 ——それから。
 チェックポイントを書き込む手が止まる。
 目の前の文字から意識が逸れて、あっという間にあの日・・・に帰る。
 左手首を掴まれて、引っ張られた感触。振り向いて見えた拓馬の顔。その顔が赤くなっていき、困惑と狼狽、驚愕と気恥ずかしさが混じった表情が浮かぶ。室内に広がる緊張と沈黙。自分の顔の火照りと、それらを思い出しては未だ熱が戻ってくる感覚に、カムイはかぶりを振って抗った。
 気を取り直してボールペンを握り直す。しかし集中し切れない。拓馬は何度か言葉を形作ろうとしては途中でやめ、結局「チョコレート、ありがとな」と言った。それから「うまかった」とささやくように呟いた。カムイは自分でも聞き取れるかどうかの小さな声で「ああ」と呟き返すのが精一杯だった。
 ゲッターチームとして動いているうちは問題なかった。けれども休息の時間、ふとひとりきりになった瞬間、閉めていたはずの扉が勝手に開いて、あの日の出来事・・・・・・・がよみがえってしまう。その時々で強く思い出す場面は違っていたが、どの拓馬も思い出すたびに存在感が増していく。このままでは心の中全部が拓馬に乗っ取られてしまう——そんなふうに思ったりもする。
 だからチョコレートはあげないほうがよかったのではないか、と考え出すと、ただ純粋に気持ちを贈りたかった自分と葛藤を始めてしまう。「なかった」ことにするのは、あまりに寂しい。でもこのままではあげたことを後悔し始めるときが来るのではないか。それはもっと寂しい。
「……」
 ぐりぐりとペンの先を動かす。予定表の余白に小さな黒い円ができて、輪郭がどんどん広がっていく。そろそろやめないと、と頭の隅でわかっていても、黒く塗り潰された円は紙を侵食していく。
 拓馬からはあの礼以上のことはなかった。顔を合わせても、態度は以前と変わらない。
 当然だ。何かを求めたわけではない。
 渡せただけでよかった。喜んでくれて嬉しかった。
 それなのに。
 あの笑顔と目線が自分だけに向けられたら、きっともっと嬉しいだろう。一緒の時間を過ごせたら、どれほどに嬉しいのか。
 そう思ってしまう。
 欲求は膨らんでいく。見返りが欲しかったわけではないのに、いつの間にか求めている。
 ——もうやめようか。
 好きだから欲しい。その論理は当然だと思う一方で、俗っぽい概念に囚われているのも事実だ。
 自分には使命がある。だから「個」は最優先であるべきではないのだ。
 そうだ、と息を詰める。カムイが決意の眼差しで黒塗りの円を睨みつけたとき、部屋のインターホンが鳴った。

 ドアを開けると、拓馬が神妙な顔つきで立っていた。自然とカムイの気が引き締まる。拓馬は礼を示すように、一歩下がって姿勢を正した。
 じっと見つめる。拓馬もカムイを見つめ返す。その肩が上がり、すう、と息を吸い込む音が聞こえた。直後、しん・・とした通路に、拓馬の「頼もう!」という声が響いた。
「——」
 不意を突かれ、カムイの瞳が大きくなる。同時に拓馬は深々と頭を下げ、白い封筒を差し出した。
「カムイ、受け取ってくれ」
 その声はいつもより硬かった。
「……これは」
『カムイ・ショウ殿』と見事な筆捌きで表書きがしてある。封筒、といってもサイズからして一般的なものではない。縦に長く、和紙でできているようだった。
「……果たし、状……?」
「頼もう」と差し出されたら、それしか思い浮かばなかった。
 かつて、研究所ここで武術を教えてくれた橘翔が言っていた。武道の世界には『果たし状』があるのだと。もし差し出されたときは腹を決めろ。けれども、自分自身の心を賭けてもいいと思い切る覚悟がなければ受けてはいけないと。
 記憶がよみがえる。翔の教えをなぞり返すのに気を取られ、拓馬が伏せた面の下で「え」と困惑の声を漏らしたのを聞き逃していた。
 ——拓馬がその気なら。
 拓馬の覚悟がどのようなものかはわからない。しかし、これはいい機会ではないか。拓馬を思い続けるにしろ、振り切るにしろ、真剣勝負を経て手に入れた答えならば、自分自身も納得できるだろう。
 カムイはわずかな時間のうちに判断する。背筋を伸ばして顎を引き、拓馬を見据える。
「拓馬。お前の覚悟、受け取——」
「あ、いや、そうじゃねえ」
 カムイの決心を遮り、拓馬が顔を上げた。申し訳なさそうに眉が下がる。
「悪い、果たし状じゃねえんだ」
「……」
 拓馬の手の中にあるものを見る。カムイの名前が筆で丁寧に、美しく書かれている。うやうやしく差し出されたものが果たし状でないなら、いったい何だというのか。
「果たし状じゃ……ない……?」
「ん、いや、ある意味、果たし状なのか?」
 自分で言い出したくせに、拓馬は首をひねった。
「……まったく意味がわからん。さっさと説明しろ」
 ぴしりと定まった心がゆるんでいく。腹立たしくはなかったが、せっかく決めた覚悟が無駄に消えていくのは虚しかった。
「悪い。とにかく、見てくれよ」
「今?」
「ああ、今」
「ここでか?」
「ああ」
 拓馬は力強く頷き、封書をぐっと差し出した。あとで、とは言えない雰囲気だった。
 このエリアにはカムイの部屋しかないが、念のため周囲の気配を探る。ほかに誰もいない。カムイは息を吐いて心を静めると、果たし状もどき・・・を受け取った。
 裏返すと、やはり通常の封筒とは異なった。中の手紙は和紙で包まれている。時代がかった封書を開いていく。ちらと盗み見すると、拓馬は唇をくっと一文字に結んでいた。力が入り過ぎてへの字の形になっていたし、鼻穴は横に広がっていた。
 何だってそんな顔をしているのか。自分までも珍妙な表情になっていくのを感じながら、カムイは包まれた手紙を取り出した。
「これは……外出許可証……?」
 日付けは三月十四日。ちょうど一週間後だ。氏名欄には拓馬とカムイの名前がフルネームで印字されている。次いで行き先欄に視線を下ろす。
「……浅間熱帯……植物園」
 拓馬を見る。気張った表情がゆるんで、へへ、と笑う。
「これは……」
「お前、言ったろ」
「え」
「植物園かプラネタリウムに行きたいって」
「あ——」
「チョコ、嬉しかったから……、だから」
 拓馬は目線を外し、鼻の下をこする。
「ほかのお返しも考えたんだけどよ、これが一番、お前が喜びそうだなって」
 戦闘になれば勇ましい拓馬の表情が柔くはにかむ。カムイの胸の奥が小さく震えた。
「……植物園」
 言ったことを覚えていてくれた。カムイが「一番、喜びそうだ」と考えてくれた。行動に移してくれた。その事実に、じりじりと体温が上がっていく。頭の中にもその熱が入り込んできて、思考がぼんやりとしてきた。
「というワケだ。つきあってくれないか」
 拓馬が遠慮しがちに、それでもはっきりと乞う。カムイは言葉よりも先にぎこちなく頷く。「わかった」と言いたいのに、声がついてきてくれなかった。それでも、
「よかった」
 と、拓馬が破顔した。
 敵前で不敵に笑う拓馬とは違った。自分だけに向けられた笑顔に、カムイは再び無言で頷いた。

 

 二

 植物園沿いの通りで車を降りる。研究所から送ってくれた運転手に軽く一礼し、カムイは正面入り口へと向かった。
 空は快晴、デート日和——とはいかない。鈍色にびいろの雲が垂れ込めていて、空気も冷えている。ようやく日陰部分に残っていた雪も消えかけ春を感じていたのに、冬に逆戻りしたようだった。午後から雪になるかもしれない。
 それでも平気だった。マフラーもしているし、これからの時間を想像するだけで体温が上がってくる。歩いているだけなのに、もう鼓動が速くなっていた。
 カムイは立ち止まり、すう、と息を吸い込む。ひやりとした空気が鼻腔の粘膜を刺激する。もう一度、繰り返す。火照りかけた身体と頭を冷まして、カムイは再び歩き出した。
 角を曲がると門が見える。それと——。
「おーい‼︎」
 拓馬がすぐに気づいて両腕を大きく振った。咄嗟に周囲を確認する。人通りはない。ほう、と息を吐き出した次の瞬間、またしても拓馬の声がした。
「カムイー! こっち、こっち!」
 ぶんぶんと手を振り、おまけにぴょこぴょこ飛び跳ねている。
「……あの馬鹿」
 嬉しさや照れくささよりも気恥ずかしさのほうが勝って、思わずそう毒づいた。
「よう!」
 小走りで近づくと、満面の笑みで拓馬が右手を上げた。
「ああ」
 短く応える。毎日嫌でも顔を合わせているし、何なら昨日の夕食ぶりなのに、なぜか懐かしい感じがした。
「外で会うのって、何か不思議だよな」
「まあ、な」
「ふうん」
「何だ」
「へへ……」
 拓馬がにんまりする。
「作業着でもパイロットスーツでもないカムイかぁって思ってな」
 カムイの眉が少しだけ険しい角度になって、ついと顔が逸らされた。
「あまりジロジロ見るんじゃない」
「あっと、悪い」
 拓馬は右手を顔の前に立て、すぐに詫びる。
「——いや」
 語気が強かっただろうかと思い直し、カムイはすぐさま打ち消す。咎めたかったわけではない。どれほどこの日を待ち侘びていたのか、密やかに押し込めていた心が読まれてしまいそうで、ただ居心地が悪くなっただけだ。
「……」
 そっと横目で伺う。
 せっかくの時間なのに自ら気まずくしてはどうしようもない。だが拓馬にうろたえる様子は見えなかった。変に遠慮や気後れをされては困る。かといって不躾に踏み込まれることまではきっと許容できない。
 けれども、ちょうどいい場所がわからない。もう半歩だけ、下がるべきか近づくべきか。
「カムイ」
 柔らかな声につられて顔を向ける。拓馬が笑う。
「行こうぜ、デート」
 と、親指を立てて植物園に向ける。その笑顔と声に手を引かれるような感覚になる。
「……ああ」
 一定の距離を保ちつつも、いつもより拓馬が近くに立っている気がする。それはカムイにとって、淡い高揚感と穏やかな心地の両方をもたらす、ちょうどいい隔たりだった。

 門扉には「本日臨時休園」の看板が掛かっていた。間違いでない証拠に、柵の向こうは静まり返っていて人影も見えなかった。
「おい」
 カムイが目線でつつく。
「いや、大丈夫」
 拓馬はニッと白い歯を見せて門柱のインターホンを押した。
「早乙女研究所から来ました、流拓馬とカムイ・ショウです」
『はい、今うかがいます』
 すぐに返事があり、奥に見える事務所らしきところから人が出てきた。
「おはようございます」
 人のよさそうな年配男性が近づいてくる。
「おはようございます」
 背筋も指先も伸びて角度の揃ったふたりの礼を見て、男性が柔和な表情になる。
「連絡はいただいてます。ご苦労様です。せっかくなので自由に見学していってください。サンプルは今渡しても邪魔でしょうから、帰りがけに事務所のほうに声をかけてください」
「ありがとうございます」
「中は暑くなっているので、上着はロッカーへどうぞ。設備はすべて普段通りに稼働してますから、音声ガイドなども使えます。それから、中にカフェがありまして、カレーでよければお出しできますので、スタッフに声をかけてください」
「えっ、いや、さすがにそれは」
「気にしないでください。実は新メニューをいろいろ考えている最中でしてね、今日もまかないを兼ねて作ってるんです。どんな感じか感想をいただけたら助かります」
 男性は朗らかに笑った。カムイはふたりのやりとりをじっと聞いていた。
「そういうことか」
 エントランスを歩きながら、拓馬の背中に声をかける。
「なかなかいいだろ」
 振り向きざま、拓馬が得意げな顔でウインクした。
「神さんも一枚噛んでる。というか神さんのおかげ」
「……そうか」
 拓馬の誘いを受け部屋に戻ったあと、浮かれる気持ちを抑えながら外出許可証を改めて見た。目的・理由の欄には「浅間山周辺地域の土壌調査・サンプル回収」と記入されていた。なるほど、それなら植物園に行くもっともらしい口実になる。植物園側も協力してくれたということだ。
 自分の知らないところで進んでいる話は得てして面白くないものだが、今の気分は悪くない。むしろありがたさがあって、その中に申し訳なさもあって、けれども嬉しい。カムイは慣れない感情とともに拓馬のあとに続いた。

   †   †   †

 ロッカーにコート類を預け身軽になったふたりはさっそく展示室へ向かった。廊下には植物園の成り立ちや設備に関しての説明パネルが掲げられている。
「へえ、ここって温泉熱を利用してるんだな」
 拓馬は立ち止まり、興味深げに説明を読む。
「そういや、どっかの温泉でも籠に卵や野菜を入れて蒸し焼きにしたり、地熱発電に使ったりしてるもんな。せっかく湧いて出るモンなんだから、無駄にすることはねえよな」
 腕を組み、うんうんと頷く。
「ゲッター線も、こんなふうに使えたらいいのにな。なあ、カムイ」
「ゲッター線を生活に使うのか?」
「そ。車走らせたり、冷暖房に使ったり。そっちのほうが便利だろ」
「それはまあ、そうだが」
「そうなりゃ、オール電化ならぬオールゲッターハウスなんてできるかもな。……誰にとっても無害で、平和的に使えるエネルギーだったらいいのにな」
 カムイは拓馬の横顔を見つめる。
 どこまで冗談で、どこまで本気かわからない。ただ理想論であっても、そう言えるのは拓馬の心根が優しいからなのだろうと思った。
「さあて、と」
 拓馬がふう、と息を吐く。
「いつまでも入口にいても仕方ねえ。中に入ろうぜ」
「ああ」
「よおし、いざ探検!」
 空気を切り替えるように声を張り上げ、拓馬が歩を進めた。
 一歩、踏み込むと自動ドアが開く。水音が聞こえてくる。直後、あたたかく、湿った空気が塊となって溢れ出てきた。
「う、わ……」
 ふたりから同時に零れる。温度と湿度だけのせいではない。一面の緑、天に向かってまっすぐに伸びる木々とその先にある空、差し込む陽の光が目に飛び込んできたからだった。
「……すげえな」
「……ああ」
 様々な植物が、何重もの緑の層を作っている。天井はドーム状のガラス張りで、綺麗な青空が見える。水音のほうを見れば、3メートルの落差はあるだろうか、滝が流れ落ちていた。注ぎ込む先には池が広がり、大きな睡蓮の葉が浮いている。本当に熱帯地域の森に迷い込んだようだった。
 周囲を見回しながらゆっくりと進む。見たこともない緑の木々や葉が生い茂っている。ふたりの背丈より少し高いもの、膝丈のもの、ちんまりと存在を主張しているもの。どれもが目に鮮やかで、葉の形も風変わりだった。
「研究所も山ん中だから緑がいっぱいだけどよ、全然違うな」
 拓馬が目の前の植物名プレートと木を見比べる。
「コダチヤ……ハズ、カズラ」
 辿々たどたどしく読み上げる。菱形の葉が連なっており、上のほうに紫色の花が咲いている。
「んで、こっちはハナキリン」
 小さな赤い花が咲いている。
「全然見たことねえのばっか」
 セイロンベンケイソウ、オウギバショウなど、ゆっくり読み上げては聞くのも初めてだと拓馬は笑う。
「お前は?」
「俺は——」
 図鑑をよく眺めていたから名前も形も知っている。だが大きさも質感も匂いも、この場に来なければわからないものばかりだった。
「あ、あれ!」
 拓馬が指を差す
「タコノキだって。面白え名前。ってか何でタコノキなんだ? タコって蛸か?」
「その蛸だ。根がたくさん出ていて、蛸の足のようだろう?」
「えっ、あっ、ほんとだ」
「小笠原諸島の固有種で、実がなる」
「へええ…………あっ、カムイの言った通りのこと書いてあるぜ!」
 幹の裏側に説明書きの看板があった。拓馬は大きな目を何度もまばたきさせながら、
「お前ってやっぱ物知りなんだな」
 と、感心しきりだった。
「いや……」
 図鑑に載っていることを言っただけだ。それなのに褒められて、何だか胸の奥がむず痒かった。

 ネームプレートからふたりの目線が上がっていく。同時に顔も上がる。行けども行けども竹は伸びている。顔もどんどん上を向いていく。
「お……お」
 天辺は、ほぼ真上だった。拓馬とカムイはポカンと口を開け、悠然とそびえるゾウタケを眺める。
「す……っげえ」
「……ああ」
「なあ」
「何だ」
「これが生えてるとこって……これがいっぱい生えてるってことだよな」
「おそらく」
 妙な言い回しは拓馬も自覚しているだろう。しかし突っ込むのも野暮だ。言いたいことは伝わる。その気持ちもわかる。きっと現地でその光景を見たならば、感嘆の呻きしか出てこない気がする。
「日本にもさ、竹林ってあるよな。けど……これ、雰囲気違うよな」
「ああ」
 太さも長さも目を見張るものがあった。
 やがて頭の重みで首が痛くなってくる。その段階になってようやく、拓馬とカムイは顔を正面に戻した。
「あてて……」
 拓馬が首を回して筋肉をほぐす。
「奥のほうにも特大の木が見えるぜ。こりゃ明日は首が痛えや」
 ドームの奥には、これまた天に向かってそびえるヤシの木々が見えた。ここから見ても存在感があるのに、近づいたらどれほどの迫力なのか、楽しみだった。
「しっかしこれ……サウナだな」
 額にうっすらと汗を滲ませた拓馬があきれ気味に言う。ただ暑いだけではない。独特のもたりとした湿気がまとわりついてくる。
「南のジャングルって、こんな感じなんだな」
「これに加え、スコールがある」
「スコールって……ええと」
「真夏の夕立を、三倍くらいにしたような大雨だ」
 拓馬がうへえ、と口を情けない形に曲げる。
「これで雨あがりは湿気ヤバそう。全身にキノコ生えちまいそうだな」
 カムイはきょとんとし、それから小さく吹き出した。
「あ、何だよ。俺おかしいこと言ったか」
「いや」
 普段は緊張感と冷静さに満ちている目つきが和らぐ。
「そのツンツン頭にキノコか、と思ってな」
 カムイを取り巻く空気はいつもとは異なっていた。律儀な堅苦しさはなく、年相応の明るさと柔らかさが伴っている。
「うん、キノコか」
 拓馬の頭を眺め、微笑む。赤い瞳が周囲の緑に映えて、色づいた果実のようだった。
「——拓馬?」
「え」
「どうした」
「え、いや」
「俺の顔に何かついているか」
「あ、ちが……」
 拓馬は忙しなくまばたきを繰り返し、一歩後退あとずさる。
「悪い。別にそういうんじゃなくて」
 また退がる。
「拓馬」
「えっと」
「ぼさっとしていると落ちるぞ」
「へ——おわっ」
 ガクン、と拓馬の身体が沈む。左の踵が道の端を踏み外している。バランスを取ろうと咄嗟に右の足が跳ね上がる。ちらっと背後を見ると1メートルほど落ち込んでいて、下は池になっていた。
「おわ、ちょっ」
 手を回して立て直そうとする。拓馬の体幹であれば大丈夫そうではあったが、ここからさらに足を滑らせないとも限らない。カムイは宙を泳ぐ拓馬の右腕を掴んで引っ張った。
 その身体が安全なルートに戻ってくる。
「お……お、サンキュ……」
 まだ驚きの表情のまま、拓馬が呟いた。
「……助かったぜ。危うくドボンだ」
「お前が落ちるのは勝手だがな、ここは水質管理されている。異物混入は避けなければ」
「異物って」
 反射的に拓馬が唇を尖らせる。
「んな、人をゴミか何かみてえに」
「異物は異物だろう」
「風呂だって入ってるし、服だってちゃんと洗ってる。別に汚くねえだろ」
「それでも、だ」
 カムイは人差し指で拓馬の胸を突く。
「整髪料は使っていないにしろ、衣類の残留洗剤、靴底についたあれこれ、人体の常在菌、場合によっては潜んでいるかもしれない病原菌。それに、麓の人間よりはゲッター線の暴露量だって多い。ざっと思いつくだけでもこれだけある。仮にお前ひとりが落ちたからといって直ちに問題が起きるわけではないだろう。だが水質検査や水の取り替えで施設側に余計な労力をかける可能性がある」
「お、おう」
 滔々と述べると、拓馬は気圧されたように頷いた。しかしそのあとで、納得したように二度、三度と頷き直した。
「そっか。……そうだよな。ここで育つように、温度も水もちゃんと管理してんだもんな。混ぜモンしちゃだめだよな」
「そうだ」
「生態系を守るってやつだ」
「ああ」
「ん、わかった。気をつける」
「何かあったらせっかく骨を折ってくれた神さんにも申し訳ないからな」
「そりゃそうだ」
 拓馬は額をかく。疑問に思うこと、納得のいかないことはそのままにしない。確認する姿勢はいいのだが、前のめり気味になるのが玉にきずだ。それでも、拓馬の芯の通った素直さは見ていて好ましかった。

 ワニの表皮に似た模様の草、「実がなっています、頭上注意」の看板、ヤシの木にちょこんと引っついていた小さなカタツムリ、いろんな鳥の鳴き声を再生する音声ガイド。それらを目にした拓馬が、
「なあなあ、これ見てみろよ!」
 と、声を弾ませる。そのはしゃぎ方は心からのもので、無理をしているようには見えない。カムイが望んでいたものを一緒に楽しんでくれている。
「拓馬」
「ん?」
 先を行く拓馬が立ち止まり、振り返る。
「どうした」
 佇むカムイに首を傾げ、駆け戻ってくる。
 カムイは拓馬の目を見る。拓馬が緊張に身を固くしたのがわかった。
「今日はとても楽しい」
 告げると、緊張の浮いた瞳が大きくなって、それから力が抜けていくように目元がゆるんだ。
「そ、そうか、よかった……」
「ありがとう」
「お、おお、いや……おう」
 目線を泳がせ、拓馬がしどろもどろとなる。
「な、何か俺もその……すげえ嬉しい」
 照れくさそうに頭をガシガシとかく。
「帰ったらその、神さんにもお礼を言わないとな。っていうか、うん、まだ先もあるからよ、ほれ早く行こうぜ」
 うわずった声で一気に言い、カムイの視線から隠れるように先を歩き出した。

 

 三

 小さな温室をふたつ見て、また本館内に戻る。通路に貼られた様々な花のパネル写真を見ながら進むと、突き当たりに『この先、カフェ・ココヤシ』という案内板があった。
「あ、これ」
 出迎えの年配男性が言っていたカフェに違いなかった。拓馬がひょいと角の先を覗く——その目が大きく見開かれた。
「カムイ、カムイ!」
「どうした」
「早く来いよ!」
「何だ、騒々し……」
 拓馬の肩越しに顔を出したカムイも目を見張る。
 手前にはカウンターとテーブル席のカフェスペース。その奥の壁一面は熱帯の森になっていた。
「すげえ!」
 ふたりは吸い寄せられるように近づいていく。透明なアクリル板で仕切られた向こうには明るい空、降り注ぐ太陽の光、深い緑色をした様々な植物。森の中を横切るように木製の橋が架かっていて、奥には滝が見えた。落ちた水は池となり、ちょうどカフェの床と同じ高さに水面が広がっていた。
「え、あれ? これって……」
 拓馬がカムイを見る。カムイもすぐに気づいて、「ああ」と相槌を返す。
「ぐるっと回ってきた、ということだな」
 カムイはアクリル板ぎりぎりまで近づいて覗き込む。目の前に広がっているのは、温室ドームに設けられていた、拓馬が落ちそうになった池だった。
「なるほど……」
 拓馬も一緒になって確認する。
「そうだよな。あの橋も渡ったし、滝もあったし。へえ、向こうからじゃ全然気づかなかったよな」
「ああ」
「何か、こういう仕掛けっていいな……ってあれ?」
「どうした」
「いや、こうなってるってことはさ、俺が足を滑らせたとこもここから見えて……ん、どこだ」
「あそこじゃないのか」
「え、どこだよ」
「あそこ」
 カムイが指差す。そちらを見ようとして、拓馬が前のめりになって——顔が近づく。思わず、カムイの口から「あ」と小さく零れた。目が合って、
「え、あ——」
 拓馬が顔を引く。髪の毛が触れ合う間際まで縮まった距離が一瞬にして広がる。
「あ、悪ぃ、その」
「いや、大丈夫だ」
 そうは言いながらも互いに一歩ずつ下がって離れる。ふざけ合いや労いの中で肩を組んだり首元に腕を回したことはある。何も初めての距離ではない。それなのに、妙な緊張感がふたりの間に潜んでいた。
「あー……、えっと」
 拓馬の視線がうろうろと戸惑う。ほのかに頬が赤い。カムイは自分もそうではないかと思い、慌てて拓馬に背中を向けた。
 そのとき、「あの」と呼びかけられた。ふたりは同時に声のほうを見る。
「こんにちは」
 カフェの奥にあるキッチンから女性が顔を覗かせていた。拓馬とカムイは反射的に姿勢を正す。
「こんにちは、お邪魔しています」
 声も会釈も揃ったふたりに、女性はにこやかにお辞儀を返した。
「見学のことは聞いています。もしよかったら休んでいってください」
 拓馬とカムイは顔を見合わせる。体力的には問題ない。だが短時間にいろいろなものを見て、感じて、浮つきっぱなしだったから、正直そろそろ落ち着ける場所が欲しかった。
「それじゃあ、少しだけ」
 拓馬が答える。
「どうぞ、お好きな席に」
「はい」
 ふたりはカフェ内を見回す。間仕切りのない、開放的なスペースだった。どこの席からも熱帯の森が見える。
「今日はほかにお客さんもいねえし、せっかくだからな」
 拓馬はちらとカムイを見る。その視線の柔らかさに、カムイの胸が鳴る。
「カムイの好きなとこでいいぜ」
「……ああ」
 全部、自分のため——拓馬の今日はカムイのために費やされている。そのひとつひとつがあたたかな層になって、カムイの胸に積もっていく。
「……なら、カウンターがいい」
「だよな! 俺もそう思ってた」
 そう言ってニッと笑う拓馬の声も顔も、胸に仕舞い込む。まだもう少し、ふたりで過ごせることが嬉しかった。
 カウンター席で景色を眺めていると、エプロン姿の女性職員が冷たいお茶を持ってきた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「よかったら、カレーもあるのでどうですか」
「え」
「お代は結構です」
「でも、それだと」
「実は新しいメニューを考えているんです。それで、どんな感じか言っていただけるとありがたいのですが」
 年配の職員もそう言っていた。初めは気を遣ってくれたのだと思っていたが、まるっきりそうでもないらしい。
「ここの職員はみんな美味しいって言ってくれるんですが、たぶん私の味つけに慣れちゃってるんですよね。だから、外部の方にも感想を聞かせていただけたら助かるのですが」
「え……と」
 拓馬とカムイはどうしようか、と目で会話する。手間をかけさせるのは悪い。けれども感想を望んでいるのはどうやら本心らしい。それなら無下にするのも悪い。むしろ人助けになるのでは。何より——。
 グウゥ、と拓馬の腹が鳴った。
「あ゛」
 慌てて両手で押さえる。くす、と笑ったのは職員だった。
「今、お持ちしますね」
「あ、ありがとうございます」
 頭を下げた拓馬は、カムイにだけ見えるように「やっちまった」とぺろりと舌を出した。カムイの頬がゆるむ。
「実は俺も腹が鳴った」
 こっそりと告げる。
「え、マジで」
「お前のほうが音が大きくて、助かった」
 目を細めて言うと、
「それはどういたしまして」
 と、拓馬が仰々しいイントネーションで答えた。

 カレーは美味しかった。
 スプーンを口に運んで、ふたり同時に「ん!」と声が出た。見つめ合い、無言で咀嚼する。
「……」
 カレーを飲み込んだあとも、少しの間見つめ合っていた。そのあとで「うまい」と声が重なった。
「すみませーん、カレー、すっごく美味しいです!」
 拓馬が声を張り上げる。
「本当ですか」
「本当です、ばっちり」
 拓馬がOKのハンドサインを出すと、キッチンの奥から拍手が聞こえてきた。
「ほんとにうめえ」
 拓馬は何度も口にする。カレーを頬張るかそう呟くか、どちらかしかなかった。カムイも黙々とスプーンを口に運ぶ。辛さはあるけれども、柔らかな甘味もあって癖になりそうな味だった。
「これ、絶対メニューに出したほうがいいですよ。名物になる!」
 お茶のおかわりを持ってきた女性に、拓馬が人懐こく笑う。その明るさにつられるように、女性もお盆を抱きしめて相好を崩す。
「よかったです」
「ちょっと甘さも感じたんですけど、何が入ってるんですか? りんごとか?」
 職員は、したり、という表情で「マンゴーなんです」と答えた。
「え、それって、ここで作ってるやつですか?」
「ああ、いいえ。確かに果樹の栽培もしていますが、そちらはあくまでも研究用なので、お客様にはお出しできないんです」
「そうなんですか」
「食用とするにはいろいろ大変で」
「……そう言われると、確かに」
 自分の庭で作ったものを身内で食べる分にはいいかもしれない。だが不特定多数の人間に食品として提供するのだから、クリアしないといけないハードルがいくつもあるのだろうと察せられた。
「じゃあ、そのマンゴーって」
「ご縁のある九州の農家から仕入れています。コストとの兼ね合いもあるので通年メニューは難しいところですが、イベントのときにでもお披露目できればいいなと考えています」
「俺らも、研究所に戻ったらここのマンゴーカレー美味しかったって宣伝しときます。なあ、カムイ」
「ああ。本当に美味しかったです。ご馳走様でした」
「いいえ、こちらこそ、ありがとうございました」
 女性の指は軽やかにお盆の縁で踊っていた。

   †   †   †

「なあ、カムイ!」
 いつだって、何かを見つけて話しかけてくる拓馬の声は嬉しそうに跳ねている。幼い頃は友人たちにそうやって誘われることもあった。けれどもそのときとは違う感情が湧いてくる。
「今度は何だ」
「こっちこっち!」
 先を行く拓馬が振り向いて手招きする。
 本当に騒々しい——だが、そのまっすぐな賑やかさは道標みちしるべのようだった。ついていけばきっと楽しいことがある。いいことがある。そう思わせる。
「ほら、あれ!」
 拓馬の人差し指の示す方向を見る。『足湯』と書かれた看板があった。その後ろにはベンチと、湯気が上がる水面が見えた。
「足湯……?」
「ここ、温泉熱を利用してるってあったろ」
「そういえば」
「ってことはよ、温泉引いてんじゃねえの?」
 目が輝いている。まるで小さな子供だ。あまりに無邪気過ぎて、あきれる気持ちもどこかに消えてしまう。
「……入るか?」
 その声を待ち構えていたように、拓馬は「当然!」と嬉しそうに笑った。また、カムイの胸が鳴る。普段と変わらない笑い顔だ。ただ、この場所で、この瞬間に、自分だけに向けてくれる笑顔は想像以上に眩しかった。
「おわあ〜、めちゃくちゃ最高じゃねえか」
 ズボンを膝上までまくり上げ、湯に足を突っ込んだ拓馬がゆっくりと息を吐く。
「まさか植物園で温泉入れるとは思わなかったぜ。なあ」
「ああ」
「気持ちいいよな」
「ああ」
 向かい合わせに座り、足湯を楽しむ。浴槽に流れ込み、溢れては排水溝に向かう水音が絶え間なく聞こえてくる。拓馬とカムイのほかには客はない。職員の姿もない。
 世界にふたりきのような——信じられないほど穏やかで落ち着いた空間だった。
「拓馬」
「ん?」
「……神さんも一枚噛んでいる、と言っていたが」
 流水音が作る空気を乱さぬように、カムイが静かに切り出した。
「ああ、それな」
 拓馬が黒目をきょろりとさせ、ふふっと思い出し笑いをする。身体の揺れが伝わって、水面に波紋が現れる。
「外出許可取りに行ったらよ、最初はな、断られたんだ」
『許可は出せない』と書類を手にした隼人を真似て首を横に振る。無駄を省いた素っ気ない言い方が妙に似ていて、カムイの口元が自然にほころんだ。
「何でだよって詰め寄ったらよ」
 隼人は外出許可申請書をひらつかせ、理由部分を指差した。そこには大きな字で「デート」と記入されていた。
「だって、本当のことじゃねえかよ」
 やましいことはない。力強い筆跡だった。
「植物園に行きたいのはわかった。堂々としているのもいい。ただ、理由がこれでは書類上は不適切だ」
「なら、何て書けばいいんだよ」
 意図を汲みかね、拓馬の唇が尖った。
「そうだな」
 隼人は白衣のポケットからボールペンを取り出す。「デート」の文字を二重線で潰し、横にさらさらと書き入れた。
「この通りに記入して、提出し直せ」
 申請書を拓馬に戻す。それから「若いな」と言って面白そうに笑った。
「それで」
「ああ。植物園にも連絡しておくからって」
 臨時休園はふたりが訪ねるからだったのか。そこは隼人に訊いてみなければわからない。だが確認する必要もない。今は隼人と植物園の人たちの好意にただ素直に感謝すべきだった。
「ところで拓馬」
「ん?」
「もうひとつ訊きたいことがある」
「お、何だよ」
「どうしてわざわざ現地集合にしたんだ」
 同じ場所から出発して、同じ目的地に行くのだ。何もばらばらに行動することはないのに。
「俺は近くまで送ってもらったが、お前はどうしたんだ」
「俺も輸送トラックに相乗りさせてもらって、送ってもらった」
「それなら一緒でもよかったじゃないか」
「あ、あー」
 途端に拓馬の目が泳ぐ。眉が動いて、何だか気まずそうな顔になった。
「拓馬?」
「ええと……ん」
「どうした」
「いや……んじゃ一個だけ」
「一個だけ?」
「っていうか、カムイ、お前笑うなよ」
 上目遣いでうかがう。いったい何だというのか。不思議に思いながらも、カムイは頷いた。
「えっとよ、外で待ち合わせってよ…………その、何だかデートっぽいじゃねえか」
「……」
「あー、『もうちょっとで時間だな〜』とか『何着てくんだろ』とか思うだろ」
「…………」
「そんでもって——」
 拓馬は押し黙ったカムイに気づく。
「えっ、もしかして、違う⁉︎」
 思わず立ち上がり、一段高い声をあげる。カムイは拓馬の目線に合わせて顔を上げる。
「いや、そういうわけでは」
「だ、だってお前のその顔、微妙じゃね?」
「何だその言い方は」
「だってよ」
「いいから落ち着け」
「う」
「拓馬」
「……おう」
 ちゃぷん、と波が立つ。
 再びベンチに腰掛けた拓馬は所在なげに頭を動かす。ゆらり、ふらりとツンツン頭が揺れる。
 確かに、とカムイは思い返す。
 昨夜はなかなか寝つけなかった。朝はいつもより早く目覚めてしまった。トレーニングは集中しているつもりだったが、やはりどこかうわの空・・・・だった。行きの車の中では緊張を感じていた。
 あの角を曲がれば植物園の正門だ。拓馬はもう来ているだろうか。私服で来たが、これでよかっただろうか。自分だけ浮いてはいないだろうか。ちゃんと拓馬の目を見て、いつものように話せるだろうか。それより、本当に今日だったよな。
 そんなことを考えた。拓馬の姿が見えて、約束は現実だったのだと実感した。「カムイ!」と大声で名前を呼ばれて、研究所の中では感じたことのない気恥ずかしさを覚えた。もちろん、その下には拓馬がこちらを向いてくれていることへの照れと嬉しさがあった。
 顔を合わせたときに感じた妙な懐かしさも、外で待ち合わせをしたからこそだろう。
「……お前の言うことも、一理あるな」
「ほ、ほんとか⁉︎」
「ああ」
 一秒ごとに降り積もっていく期待と楽しみ、それからわずかな不安。ひとりで考える時間も、待つ時間も、全部引っくるめてデートなのだ。拓馬がそんなふうに思っていることが嬉しかった。
 ——そうだ。
 カムイは目の前の男を見つめる。
 だから自分は、拓馬のことが好きなのだ。
 拓馬はまっすぐに向き合ってくれる。何にでも、馬鹿がつくほど一生懸命に[[rb:相対 > あいたい]]しようとする。
 顔も身体も強張らせ、外出許可証を持ってきた姿が思い浮かぶ。表では何もないように振る舞いながら、陰ではきっと時間をかけて計画してくれたのだ。
「好きだ」と口にしたわけではない。けれどもカムイの気持ちは伝わったはずだ。だからこそ向き合ってくれている。そこにカムイと同等の思慕があるかないかは問題ではない。心は、その人だけのものだからだ。この先、拓馬が自分を「好き」にならなくても——それは少しだけ寂しいけれども——ただ、この時間が在るだけでよかった。
 我が儘をひとつ言うのなら、またいつか、こんなふうにふたりで出かけられたら——。
 視線を落とす。そんな未来があるのだろうか。ゆっくりと右足で湯をかき混ぜる。淡くて儚い希望が細波さざなみとなって広がっていく。拓馬の足は打ち寄せる波を受けとめて、柔く押し返してきた。小さな波がカムイの足に届く。
「そういやさ」
 拓馬の声に顔を上げる。
「プラネタリウムもここから近いんだよな」
「……ああ」
「さすがに今日は行けねえけど、次はそっちに行ってみようぜ」
 カムイの息が止まる。
 密やかな驚きに、拓馬は気づかない。浴槽の端に当たって折り返してきた波が肌を優しく撫でていく。
「俺、行ったことねえんだよな。お前詳しいんだろ? 今日みたいに、いろいろ教えてくれよ」
 拓馬が無邪気に誘う。
「な?」
 驚きと嬉しさで息苦しい。
「……そう、だな」
 カムイは肺に残った空気を押し出すようにして返事をした。
「んじゃ、約束な」
 そう言って、拓馬がニカッと笑った。

 

 四

 小雪がちらついていた。
「迎えを待つならここでどうぞ」と言う年配職員の勧めを辞し、植物園を後にする。拓馬とカムイの手にはサンプルが入ったケースがそれぞれあった。
「このあとはどうするんだ」
 拓馬についていきながら、カムイが問う。吐く息が白かった。
「バスに乗るんだ」
「バス?」
 拓馬が視線で示す。少し先にバス停と待合小屋が見えた。
「浅間山の麓のほうにバスの営業所があってな、そこが終点なんだ。そっちまで行って、研究所に連絡して迎えに来てもらう」
「どのみち迎えに来てもらうなら、はじめから植物園・・にしたらよかったんじゃないのか」
「うん、それもそうなんだけどよ」
「……また何か企んでるのか」
「な、人聞きの悪いこと言うなよ! バスで行くとな、ちょっと遠回りだけど、あちこち通るんだよ。それが結構景色がよくてさ」
「あちこちとは」
「えっと、来たときと逆ルートだから……こっからだと街ん中通って、湖の近くを通って、キャンプ場通って、そんでスキー場の近くを通るんだっけかな」
「『来たときと逆ルート』?」
「あ」
 拓馬が「しまった」と言わんばかりに目と口を開けた。
「……拓馬」
 肘でつん、とつつく。拓馬はキュッと顔をしかめ、観念したように溜息をついた。
「え……っとよお、せっかくだからバスに乗って、あちこち眺めるのもいいかなって思ってよ。けどずっと山道だとつまんねえだろうし、乗り間違えても何だし」
「……ということは、帰りのルートの下見をしながら植物園に来た、ということか」
「ああ——うん。行きも営業所まで送ってもらって、そっからバスで植物園まで行った」
「わざわざそんなことをしなくても——」
 拓馬とふたり、バスに揺られているだけでもよかった。車窓の景色がなくても、バスを間違えても、拓馬と一緒なら、それだけで楽しかっただろう。
「でもよ」
 少し不満げに、拓馬が唇を突き出す。
「ちょっとぐらいリード取りてえだろ。こういうの、ええと、何て言うっけ、俺が引っ張るほうのこと」
「……エスコート?」
「んお、それ! 俺が誘ったんだから、俺にエスコートさせろよ。……けど、根掘り葉掘り訊かれたんじゃ、かっこつけらんねえじゃねえか」
 バツが悪そうに拓馬が言う。せっかくお前に内緒で考えたのに——と心の声が聞こえてきそうで、カムイの唇の端が上がる。
「あ、お前」
「悪い」
「……って、別にいいけどよぉ〜」
「拗ねるな」
「拗ねてねえよ」
「拓馬」
 顔を覗き込む。
「拗ねてねえって」
 拓馬はぷいと反対を向く。こらえ切れず、カムイは小さく吹き出した。
 現地集合の謎を「一個だけ」と濁していたのは、これを隠すためだったのか。カムイをリードしたくて、その気持ちを隠したくて、それなのに嘘をつけない拓馬が、何だか妙に可愛らしく思えた。

 バスの待合小屋は板材とトタンで作られた簡素なもので、かなり年季の入った建物だった。中のベンチは大人四人が並んで座れるほどで、ほかに人はいなかった。隙間風は通るけれども、雨や雪は避けられる。
「バスは18分だからよ、そろそろ来ると思うぜ」
 腕時計を確認し、拓馬がカムイの左隣に腰を下ろす。
来るとき・・・・に時刻表はしっかりチェックしたからな」
 そう言っておどけた表情をしてみせた。
 街の中心からは少し外れているからか、まだ寒さの残る時期だからか、付近を行く人影もなかった。車もほとんど通らない。ふたりは並んで座り、ぽかりと開いた入り口から外の景色を眺めていた。白い雪が上から下へ、はらはらと絶え間なく落ちていく。
「積もるかな」拓馬が訊ねる。
「そうだな……雪の粒が少し大きくなってきたから、もしかしたら今シーズン最後の積雪になるかもな」カムイが答える。
「せっかく春っぽくなってきたのにな」
「そうだな。だが積もるにしてもそれほどじゃないだろう」
 そんな他愛のない話をしながらバスを待った。
「……バス、遅いな」
 拓馬が腕時計を見、小さな窓から道路を覗き込む。
「雪で遅れてんのかな」
 そろそろ、と言ったときから五分は過ぎている。バスの発着時刻は道路の混み具合や乗降者数、天候に左右されて遅れがちだ。急いで戻る用事もなし、のんびり待てばいいのだが、拓馬は段取りを考えた手前でそうもいかないらしく、そわそわとし始めた。
「18分だったよな」
 呟いては腕時計を確認し、窓の外を見る。それでもバスは見えず、結局小屋の外に出ていった。
「あ!」
 時刻表を睨んでいた拓馬が大きな声をあげた。
「……カムイ」
 茫然とした顔でこちらを向く。時間を見間違えたのだろう、とすぐに察しがついた。
「どうした」
 帰れなくなるわけでもない。せっかくのデートなのだから、少しくらいハプニングがあっていい。そのほうが思い出が増える。それにしたって拓馬の表情は大袈裟だ——カムイは口元がゆるむのを抑え、訊ねる。
「悪い……」
 拓馬の太い眉がしょんぼりと下がる。
「時間を間違えたのか」
「ああ……。よく見たらここ、『1』じゃねえ」
 近づいて時刻表を確かめる。拓馬が「18」と言っていた箇所は、どうやら「8」らしい。プラスチック製のクリアカバーがひび割れている。そこから雨雪が染み込んだのだろう、上部のインクが滲んで下に伝っている。それがちょうど「8」の隣で黒い線となり、数字の「1」に見えていた。
「っかあ〜っ! やっちまった」
 拓馬が盛大に息をつき、天を仰ぐ。
「もう少しだけ早く出ていたら間に合ったのか」
「そうみてえ。……悪い」
「気にするな」
「ああ、けど」
 いつもは自信あり気にツンツンと立っている髪の毛が、雪の水分を含んでしおれている。そんな姿が愛おしく思えた。
「問題ない。次のバスがあるだろ」
「おう……」
「何だ、その顔は」
「だってよ、次のバス……53分だってよ」
「…………」
「ちょっと、って言うには、ちょっと・・・・だよな」
 あと約三十分。待機自体は問題ない。
 ただ少し。
「お前、寒いだろ。植物園に一回戻って、待たせてもらおうぜ」
 ヒュ、と冷たい風が耳元をかすめていく。拓馬が心配そうにカムイを見た。
「俺は大丈夫だ。気温も氷点下ではないし、小屋の中にいれば雪と風はしのげる」
「けど、お前寒さによええんだろ? 爬虫類って冬眠するじゃねえか。お前もしんどくなるんじゃねえの」
「そこまでじゃない。軽装備で冬山に行けば話は別だが、このくらいの気温は何ともない」
「本当に?」
「くどい」
「……そんなら、変な調子だと思ったらすぐ言えよ」
「ああ」
 それでも拓馬の表情は晴れない。カムイは苦笑する。
「マフラーもしているし、さっき足湯にも入ったろう?」
「ん」
「あれのおかげで、まだ身体があたたかい。だから大丈夫だ」
 実際、身体の芯に熱が残っていた。
「だがいつまでもここに立っていたら冷えてしまう。中に入ろう」
 拓馬の袖を引いて、小屋に誘う。拓馬はおとなしくついてきて、カムイの隣に腰を下ろした。
「——しかし、こんなに寒さについて心配されたのは、早乙女研究所に来た年以来だ」
 カムイが笑う。
「冬に入って気温が下がっていくたびに、みんなが『寒くないか』『異変はないか』と訊いてくるんだ」
「神さんも?」
「そう」
 カムイが懐かしさに目を細めた。
「降雪地域の子供たちが着るスキージャンパーとかあるだろう? 上下セットになっている派手な色のやつだ」
「ああ」
「あれを肌着やセーターを何枚も重ねた上に着させられるんだ。パンパンに着膨れして動きづらいのなんの」
「へえ」
 コロンとした少年カムイのフォルムを想像したのか、拓馬の表情も和らぐ。
「おまけにカイロまでベタベタ貼られてな。凍えるどころか、茹で上がりそうだった」
「ははっ、それ、見たかったな」
「いや、あれは見せられない」
「何でだよ。子供の頃のカムイだろ、見たかったな。そうだ、写真ねえのか、写真」
「写真は……」
 言いかけて、カムイがくしゃみをする。弾かれたように拓馬が立ち上がった。
「……拓馬?」
 拓馬は無言で自分のマフラーを剥ぎ取っていく。カムイの目の前で、布端のフリンジが揺れる。赤いマフラーがひるがえって——カムイの首にぐるぐると巻きついた。
「拓——」
「いいから」
 有無を言わさず、カムイのマフラーの上に巻いていく。そのまま口元まで覆う。鼻先に拓馬の匂いが届いて、カムイは瞬間的に身を固くした。
 拓馬の指が隙間がないか確かめる。そのたびに指が肌に触れる。皮膚の表面は風に当たってひんやりとしているが、すぐにその下に熱があるのだとわかる。拓馬に触れられているのだと思うと、急に頭の中が熱くなった。
「大丈夫か」
「な、何が」
「お前、何か顔赤くねえか? 熱っぽくないか?」
「だ、大丈夫だ」
 視線から逃れるように俯く。
「——うん、そんならいいけど」
 マフラーの端を内側に折り込んで拓馬の手が離れていく。カムイは慌てて俯いた手前、すぐに顔を上げることもできずにマフラーに顔をうずめている。そのせいで先刻よりもずっと強く拓馬の香りに包まれていた。
 拓馬が元の場所に座る。しかしさっきよりも近い。身体の左側が密着して、少し窮屈だった。
「…………近い」
 く、と肩で軽く押しやる。
「……くっついてたほうが、あったかいだろ」
 拓馬も押し返してくる。
「……そうか?」
 押し戻そうとする。また、拓馬も。
 どちらも譲らない。いたずらするように、互いの重みを感じながら押し合う。
「……でも、こっちのがあったかいよな」
「え」
 拓馬の右手がカムイの左手を掴む。そのまま、自分のコートのポケットに突っ込んだ。
「…………っ」
 一瞬の出来事だった。
「……冷たいな」
 拓馬が呟く。
 何が起きたのか、カムイにはよくわからない。
 わからない、が——。
 指先があたたかくて柔らかいものに包まれる。直後、顔面が炎に煽られたように熱くなった。
「……ぁ」
 拓馬の赤いマフラーが、カムイの吐息を受けとめる。身体の奥のほう——心が震えて、どうしていいかわからない。カムイはぎゅっと目を瞑る。息を止める。内側から湧き上がってくるものに、懸命に秩序を与えようとする。
 するけれども。
「……たく、ま」
 唇が勝手にかたどる。冬の風にさらわれてしまいそうなほど、小さな声だった。けれども応えるように、拓馬の手がカムイの指先を握り込んだ。
 ——拓馬。
 手が熱い。熱を分け合った血が身体の中を巡っていく。外気に触れている頬も耳も、冷たく感じなかった。
 時間が止まればいいのに、と思う。
 けれども、それだと次の約束がやってこない。できるなら、またふたりで出かけたい。一緒に新しい場所で、新しいことを感じたい。
 ——それなら。
 できるだけゆっくりと時間が過ぎていけばいいのに。
 願いながら、目を開ける。
 はらはらと雪が降っている。世界が少しずつ、白く変わっていく。
「カムイ」
 呼びかけに顔を向ける。拓馬の目が、まっすぐにカムイに注がれていた。白くなっていく景色とは真反対の、宇宙を閉じ込めたような黒い瞳が煌めく。
「あのよ」
「……ああ」
「俺、まだ言ってなかったけど——その」
 拓馬の手に力がこもる。指先がもっと握り込まれて、同時にカムイの心臓も見えない手に包まれたように熱くなった。
「俺、カムイが」
 カムイは言葉を紡ごうとする唇をじっと見つめる。拓馬が息を吸い込む。
「————」
 瞬間。
 風が吹く。ヒュオッという音とともに、小屋の中に真っ白で薄い雪片が吹き込んできた。
「う、わ……」
 冷たい風にさらされて、ふたりは思わず目を閉じる。
 突風は小屋の中を二周、三周とかき回し、渦を巻きながら天井に吸い込まれるように消えていった。
「……びっくりした」
 拓馬が目を開ける。カムイも睫毛を上げる——と、幾つもの雪片がひらひらと落ちてきた。
 薄い雪は揺れ踊り、舞い散る花びらのようだった。植物園にも、こんなふうに白くて可憐な花があった。初めて見た花だった。名前は何だったか。思い出そうとしても、拓馬の楽しそうな顔ばかりが浮かんでくる。
 記憶の中は拓馬でいっぱいだった。もう、消えそうにない。
 カムイの目は雪の一片を追いかける。
 ふたりでいるときなら、「ただのカムイ・ショウ」として存在してもいいのだろうか。運命は許してくれるだろうか。拓馬なら、笑って「いいぜ」と言ってくれるだろうか。
 やがて白いひとひらは、カムイの目の前で拓馬の黒髪にふんわりと着地した。
「あ」
「ん?」
 こちらを向いた拓馬の睫毛の上にも、白い雪が乗った。
「あ」
 ぱちぱちとまばたきをして拓馬が笑う。カムイも笑う。
 熱を含んだふたり分の息が白く立ちのぼる。淡雪の舞う世界にふたりきり。
 ひらり、とカムイの目の前に降りてきた雪の欠片が、その熱い息に溶けて消えていく。
 バスはまだ、来ない。